貧しき者は幸いである……の意味を間違えていました

「貧しき者は幸いである」

私はずっと、この言葉の意味を

「貧しい暮らしをしている、貧乏な人のほうが、実は幸せなんだよ」

……というような意味だと思っていました。

祈り

そして、一方ではたとえば自分が「経済的な成功」や「個人としての自己実現」といったものに強い期待や憧れを抱いていながら、同時にどこかで

「このような考えは、本当は悪い考えなのだ」

……というように罪悪感を持っていたのです。

もちろん、個人的な成功や自己実現を求めると言うことは、

「禁欲的である」

とまでは言えません。明らかに禁欲的ではありません。

だから、極端に禁欲的な志向や、それこそそのような信仰などを持つ人から見れば、貪欲に見えるかもしれないし、悪だ、罪だ、という評価にもなり得ます。

ただ、実はそれは私には関係のないことであって、もし特定の欲求や欲望を完全に消滅しようとしたり、排除したりしようとすることを

「禁欲」

と呼ぶなら、それは今の私にとっては明らかに相容れない考えです。

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「欲求」「欲望」そのものを否定する必要はない

私の解釈では

「貪欲でない」

ということがイコール

「禁欲的である」

ということではないです。

感覚としては、貪欲と禁欲は両極端にあり、私はその真ん中にいるのです。そして多くの人が私と同じように「真ん中辺」にいるのです。

つまり、欲求や欲望、あるいは願望を持っていること、またその実現を目指したり、願ったりすること自体は「ふつうの範疇」にあるものです。

成功することは、ふつうのこと

「貧しきことは幸いかな」
「貧しき者は幸いである」

といった言い方は、私も以前はこれを

「貧しいほうが善い」
「貧しいほうが優れている」

ということだと思っていました。けれども、今考えると、それは非常に変な議論なのであって、たとえば

「通常に生活を維持すること」
「ふつうに暮らすこと」

あえて自ら否定するとすれば意味が分かりません。

いや、実はその意味は……私も以前はそのような考えに近かったから、そういう気持ちは理解はできるのですが、今は、そんな考えは明らかにおかしいと思っています。

だいたい、私も後で知ったのですが、聖書の句ではこの言葉は

「幸いなるかな。(心の)貧しい者たち」

という意味で言われているのであって、そもそも別に経済的に困窮している人を指しているわけではないです。

それに、たとえば聖書でも、一方では富や財産を大いに蓄えた人の話も同時に出てきます。それ自体を神様が「悪だ」と指摘しているようなところもありません。

そもそも聖書における逸話は、人間と神様の関係のことをテーマとしているのであって、世俗的に貧乏のほうが良いか、お金持ちのほうが良いか……なんてことを主要なテーマとしているはずがないのです。

たぶん私は、他の

「貧乏を美徳とする思想」
「無私無欲を理想とする思想」
「質素倹約を奨励する表現」

などと混同して、いつの間にかそのように思い込んでいたのです。

確かに、そのような思想や教訓的な逸話というのは他にもたくさんあるでしょう。

しかし、今の時点では私自身の解釈は、

「欲望、欲求、願望……それ自体は別に善でも悪でもない」

という考えです。

「貪欲」とは?

「貪欲」というのは、欲望や願望の扱い方を間違っている状態です。

扱い方を間違っているということが、まあ悪だと言えば悪です。

ただ、そうでない限り、人間が欲望や願望を持ち、その実現を期待したり、主体的に目指したりするということ自体は、それとは違う自然な行為だと考えます。

そして、むしろ私の考えでは、貧乏であることや、あるいは貧困に耐えて生きることを「良いことなのだ」と感じるような考え方……それを美化するようないわゆる「禁欲主義的な思想」も、それは貪欲の場合とは逆方向に欲望や願望の扱い方を間違っている状態です。

もし「悪」と呼ぶのであれば、それは今の私にとっては、貪欲であることと同程度に「悪」に見えます。

ですからもし、そのような意味で

「禁欲的であるべき」

と言うなら私は賛同できません。

もちろん、だれかが勝手にそういう考えを持っていてもいいですけど私には関係ないです。

本人がやっている分にはその人の自由であって、その人がそれを「善」と考えていたとしても、私にとってはまったく「善」には見えないという、それだけのことです。

同時に、それぞれの人にとって

「ふつう並みの生活」

というのが、具体的にどのような状態を指すのか、たとえばどんな生活レベルだったらふつうと言えるのか……それも本人がその理性や良心に従って考えればいいことで、共通の枠をはめることはできません。

というか、枠をはめられる筋合いもありません。

私から見るとそこに

「共通の枠をはめよう」

という感覚こそむしろ「悪」に近い気がします。

あるいは、

「それはもともと決まっている」

とか、

「その条件を私が決めてあげよう」

という考えのほうが間違っているように見えるのです。

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