ふつうであることの自由

私は以前、ふつうじゃいけない、普通じゃダメだ、という焦燥感のようなものを強く持っていました。

しばしば、成功者は、ふつうの人とは価値観や思考がまったく違うと言います。
だからこそ成功できたのだと。

もし、大きな成功を収めたい、自己実現して幸せな成功者になりたいと思うなら、いわゆる常識とか、既成の価値観などに縛られない発想や行動が必要だと言います。

ふつうじゃダメなんだ!

私も当然のようにそう思っていました。

「ふつうの考えで、ふつうのことしてたら……ふつうになるに決まってるじゃん」

って。

また、昔から、たとえば

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

とか、

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」

というような言い方をします。

これを聞いたらやっぱり、賢者とか君子と言われるような人というのは、その他の一般的な、ふつうの人とは明らかに違う資質や考え方を持っているものだというように感じるでしょう。

日常的にも、「一般人」とか「パンピー」とか言いますよね?

私たちはこれを特に有名人とか偉い人ではない「ふつうの人」という意味で使いますが、少し軽蔑的なニュアンスを含んでいます。

「ふつう」であることを憎む気持ち

自分で言うのも恥ずかしいのですが……私はたぶんかなり前から、おそらく子供のころから

「ふつうじゃいけない」
「自分は、ふつうではない」

というような感覚を強く持っていたんです。

つまり、自分がふつうの人であるということを認めたくない気持ちがありました。

「自分は特別な人間じゃなきゃいけない」

あるいは、そうなるよう期待されているんだという自負のような気持ちです。

(……実はだれもそんなこと期待してなかったって、後で気が付きましたが)

それと、思春期くらいになると、既成の枠組みや、卑近な人間関係などから逃げたい、解放されたいというような気持も強くなり始めます。すると余計に、

「自分はふつうで終わってはいけない」
「何か大きな事を成し遂げなければならない」

というような、具体性を欠いた野心というか、願望のようなものがどんどん高まっていったのです。

しかし、今になってみると、ふつうであるということ、逆に、ふつうじゃないということの区別というのはかなり不明確なもので、ほとんど主観にすぎないということが分かります。

むしろ、私たちがふつうと呼んでいるものは、それこそ「きわめて特殊な」状況のようにも見えます。あるいは、特殊というよりも、非常に個別な、特有のもの、と言ったほうがいいかもしれません。

その、そもそも個別の主観的なものを、私はただ、それに「ふつう」という名前をつけることによって概念の中で勝手に一般化していただけなのです。