「善悪とは何か」を論ずる人が立っている前提について

善悪とは何かを考える際、まず考えなければならないことは

「善とは何か?」

「悪とは何か?」

とすぐにその内容に入り込む前に、その善悪について語ろうとしている人が立っている「善悪」についての概念の前提を見抜くことです。

善悪を考える前提

善悪に関してひとつあり得る有力な考え方は、

「そもそも善も悪もない」

というものです。

この見方は意外に有力で、実はけっこう多くの方が信じている考え方です。

しかし、説明上それは今いったん置いて、仮に絶対的な「善」というものが存在すると仮定します。

すると、仮に絶対的な「善」というものが存在すると仮定した場合でも、それに整合する前提は3つに分かれることになります。

「善」以外をすべて「悪」とする

この考え方をいわゆる

「二元論」

と言います。

典型的なのは一神教を信仰する人に見られるような、特定の神を信仰して従った人だけが「善」(教義上は必ずしも「善」という言葉を使わないかもしれませんが)であって、それ以外の人はすべて悪というような考え方です。

このような考え方によれば、善とはまさに「狭き門」となります。

あるいは、一神教でなくても、たとえば日本でも一般的な民俗信仰として「人は死んだら天国か地獄に行く」と言いますよね?

これも、細かく分ければいろいろに考えられますが、仮にすべての人は死んだ後には天国(極楽)か地獄に分けられるという意味で言っているとすれば、実質的には二元論ということになります。

「善」を比率あるいは量的なものとする

二元論ではなく、個々の行動や動機その他諸々の具体的なことを、絶対的な善を基準として

「どれくらい善いか(あるいは、どれくらい悪いか)」

というふうに量的に考えるという方法もあり得ます。

分かりやすいイメージとして言うなら

「絶対的善=100善」

だったとして、ではあなたの今のその行動は「70善」くらいだったとか、あなたの人格のレベルは「65善」だとか、あるいは、あなたの人生はトータルで「45善」だったと……もちろん、こんな単純な数字では言えないでしょうけれども、考え方としてはこういうことです。

この考え方によると、絶対的な善とは、現実を生きる人にとっては手の届かないきわめて困難な、神聖なものになります。

表現を変えるならば、おそらく理想的な絶対的な善というのは限りなく架空のものに近くなります。

ただ、それでもこの場合には「限りなく架空の絶対善」を想定しなければならないのです。

その基準がなければ、他のすべての物事を相対的に善か悪かと判断する基準を失ってしまうからです。

そして、現実に起こる具体的な事柄について善い、悪いという場合にはすべて

「相対的に」

そうであるという意味になります。

ただし、相対的にせよ、この考え方では前提的にすべての物事を、いわば座標的にそこに当てはめることが可能です。つまり、ざっくり言うとすべての物事は、

「すごく善」
「少し善」

あるいは

「少し悪」
「すごく悪」

というふうに位置付けることができるとみなします。

実は、気付いたかもしれませんがこれは二元論の発展形にすぎません。

しかし、そうは言いながら純粋な二元論とは決定的に異なる考え方なのです。

単に「善」という領域が存在するだけ

最後にあり得るのは、仮に絶対的な、あるいは固定的な善というものを想定しても、それは単に、ある限られた条件を満たす特定の行為や状態のこと、あるいはその集合を指すだけであって、それに当てはまらないからと言って直ちに悪となるわけでもなく、それ以外のものはすべて単なる

「善ではないもの」

であるにすぎない、という考え方です。

つまり、単に善というものが個別に存在しているだけであって、他の事象はそれとは無関係ということです。

これは同時に「悪」というものを想定した場合も同じで、その場合には、悪という現象あるいは状態、行為が単に個別に存在しているとしても、現実のすべての事象は

「善なるもの」
「悪なるもの」
「そのどちらでもないもの」

に分かれるということになります。

と言ってもこれは、二元論にもう一つ追加していわば「三元論」にした……ということではないです。

もしそう考えるならば、それはつまり先ほど言っていた「相対論」の、目盛りを限りなく粗くしたと言っているのと同じことになります。

そうではありません。

実は、この考え方に立てば、そもそも、善とか悪というのは何かに当てはめる基準ではなく、それ自体が単に特定の条件を満たすひとつの事象、現象あるいは状態にすぎないということになります。

つまり、これは「善悪という概念」そのものを他の概念に対して相対化した、という意味になるのです。