私にとって「ふつう」とは?

とにかく、書くのも恥ずかしいのですが、あえて正直にその時の私の内面を吐露しますと……。

ふつうの人の像

私から見ると、

「ふつうの人」

というのは、

「常に利己的で、視野が狭い、思いやりがなく、仲間内で群れる」
「安易で短絡的な判断しかせず、物事を深く考えない」
「享楽的で、快楽やその場の楽しさばかり求める」
「自分の意見を押し通し、都合の悪いことは否定し、他人に無関心」

とか……。

たとえばこういうのが、私が当時感じていた

「ふつうの人像」

です。

今あらためて考えると、

「それ、ふつうに考えてぜんぜんふつうじゃないだろ!」

と自分ツッコミしたくなりますけど(笑)

そしてその時の私と感じ方としては、ふつうの人というのは、怒りが湧き起こるというよりは私を悲しいような気持ちにさせるような感じ。

嫌悪というより救いがたい諦めのような、憐みのような感情を引き起こす人たち……それが「ふつうの人」という感じ。

何というか、たとえばこういう人たちに対して怒りや嫌悪を露にしたら、そうしている自分までふつうの人たちと同じ土俵に上がってしまうような気がしていたのです。

変な遠慮というか気遣いというか、自覚的にはそういう感覚……しかし、客観的に見ると私はたぶんそこに自分なりの優越感の置き所を持っていたのでしょうね。

ただ、これに自分で気が付くにはかなり長い年月が必要でした。

ふつうであることの絶望

今考えると、私に接してくれた周囲の多くの人たちに対して、なんて申し訳ないことを思っていたのかと内心とても恥ずかしくなります。

もちろん、特定の気に入った人とか親しくなった人だけは逆に著しく美化していたりもしました。

バランスを欠くというか、要するに自分本位の身勝手な評価をしているだけなんですが、とにかく、そのころの私の眼にはほとんどの人間が「絶望的にふつう」に映っていたのでした。

ただ、もう少し大人になると、特に自分も社会に出て仕事をするようになると気が付いてくるんですよね……これはあまりに表面的で、偏った子供じみた見方だったと。

それに、時とともに……そもそも私自身がその「絶望的にふつう」な人間にすぎなかったんだということを認めざるを得なくなるわけですよね。

結局のところ、これは自分の内面にある、自分自身が一番見たくない部分を直視せずに、それを自分の中で分裂して、他人に投影して批判していただけなんだと分かってしまうんです。

それは私なりの防衛機制だったのです

これは心理学的には

「分裂」

自己と他者の肯定的な特質と否定的な特質の両方を現実的に全体として捉えることができない心理状態。

「投影」

自分の中の認めたくない衝動や資質を、他人のものと認識することで自分を守る。

……というふうに呼ばれているようです。

要するに「防衛機制」の一種であって、多くの人がそうであるように私もまた結局のところ、そのような下手なやり方で自分を守っていたんですよね。

ですが、これも当然と言えば当然なのですが、その後に来るのは絶望的な「自己否定」「自己嫌悪」ってことになります。

まあこれは反動みたいなものだからある程度仕方ありません。

私も、

「ああ、自分はなんと愚かだったんだんだろう」
「どうしてこんな考えに凝り固まっていたんだろう」

と一時期は非常に落ち込んだこともあります。

自分のほうがどうしようもない、もうそれは「ふつう」を通り越してそれ以下のダメ人間みたいに感じるんですよね?

そりゃそうですよね。今まで他人に投影していた短所や悪い部分を、一気に全部自分のほうに引き受けなきゃいけないんですから。

自分を責める自分を解放する

ところが、そのようにして自分を責めたり、軽蔑したりしても……まあ何にもならないんですよね?

それで、もちろんすぐに辿り着いたわけではありませんが、結局私が今に至って私なりに考えた結論のひとつは、まず

「善悪という価値観」

についての自分の見方を修正することです。

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「ふつう」というのは別にそれをもって直ちに善でもなく悪でもないと……そう考え直したんですね。

言ってみれば当たり前ですけど。

次に、イメージとして私は

「ふつう」

という範囲を今までより大幅に(ある意味極限まで)広げることにしたんです。そして、もちろん私自身もそこにいます。

さらに明確に言うならば、今私は、そもそも

「ふつう」=「特に何でもない」

という意味だと認識しています。要するに、ふつうという言葉は、何も表さない言葉だということです。あるいは「ふつう」という特定の範囲が存在するという観念は錯誤だと思っているわけです。