「一人で生きる」とは、他人と関わる覚悟をすること

一人で生きるということは、むしろ、自分自身が世界の中にあって、その立ち位置を、あるいは役割を明確にするということです。

一人で生きるということは、自然に与えられた枠組みではなく、自分自身が主体的に選び取った新たな枠組みを信頼して生きるということです。

むしろ、それは自ら求めて多数の人に関わっていくということなのです。

仲間

一人で生きる強さとは、他人と関わる強さ

もし、あなたが他人との付き合いが苦手だったり、心底に、人間一般というものに対する恐怖心や嫌悪感のような否定的なものがある場合……あなたはむしろ、一人で生きるという生き方を選ぶことで非常に高いリスクを取っていることになります。

もしそうなら、配偶者とか家族というような、もっと特定の、規定された、限定された人間に直接依存する方法を探したほうがむしろ安全なのです。

そういう人こそ、分かりやすい、そしてその内部で自分自身が身動きがとれるくらいの余裕があり、ある意味気楽でいられるような枠組みを利用するべきなのです。

一人で生きると宣言することは、本人にとっては一種の「挑戦」になります。

言い方は悪いですが、人と関わることを避けてしまう人や、他人への関心が希薄な人は、むしろ分かりやすいものに依存しておいたほうが良いということです。

一人で生きられるわけがない

自分というもの、あるいは自分の人生というものを、自分ひとりの頭の中だけで自己完結しようとするのは間違いです。

本当は、自分を含めた社会、あるいは地域や国でもいいですし、世界、宇宙と言ってもいいですが……その全体が調和して全体として完結しているというのが真実であり、それが本来でしょう?

全体として調和しているということと、その中にいる個人が自己完結しているということは同じではありません。

そういったことを全部自分の思考、自分の判断、あるいは自分の能力や、努力や意志などで完結させようと考えると、それはそもそもおかしなことですから最終的には自分を苦しめることになるでしょう。

絶対に何かが不足するからです。

つまりそれは、自分が神様になると言っているのと同じです。

無理なんです。

そして、そのような思想を持っている限り、あなたは世界の中で、社会の中で自分の役割や、存在意義を見出すことができません。

だれにも頼れない。だれにも頼らない。

自分だけを恃みに生きなければ。

そう感じている限り、あなたは実際には何者にもなれないのです。

そして、いつまでたっても安心することができません。

一人で生きるとは、そういう意味ではないのです。

本当はみんなそう

で、実は、ここまで

「一人で生きる」

という前提で話してみましたが、実際には、究極的なことを言えば、これは家族があろうとなかろうと、一人で生きているつもりであろうが、みんなで生きているつもりであろうが結局は同じことだということになります。

ただ、家族に依存できる人は、世界そのものを直接相手にする、という視点がなくても、とりあえず家族なら家族という範囲内で自分の役割や目の前の物事に対処しているだけでも、その家族という単位を通して結局は外部の世界全体に対処しているのと同じなのであって、本当は単に

「その視点を持つかどうか」
「そういう気持ちを持っているかどうか」

というだけの違いにすぎません。

とはいえ、やはり

「一人で生きる」

という観点を当事者として考えた経験がある人のほうが、そういう思索に対して敏感だし、それこそ、自分の心や精神といったものを守ってくれるものがないような気がしますからね、より深刻に考えざるを得ないですよね?

逆に言うと、より真摯に人生に向き合ったりする機会も増えることになりますよね。

一人で生きるということは、一人で生きないということです。

一人で生きるということは、殻に閉じこもらない生き方です。

でも、人間はうっかりすると、思考の中だけであればそれがかんたんに実現し得ると感じてしまうんです。

現実は、決して一人で自己完結することはありません。

一人で生きるということは、むしろ

「一人で生きないこと」

を前提としています。

私の感覚では、一人で生きるということは、自分ひとりで人生を自己完結させるということではありません。

自分の目的。
自分の役割。
自分の願望。
自分の人生そのもの。

……これらを、他人に頼らず、他人からまったく干渉を受けずに、他人の存在とまったく無関係に想定するという考え。

それは、原初的に不可能なことであって、たぶん行き詰まります。

不可能なことを自分に強いるのは良いことではありません。

枠組みを作るということ

たとえば、家族を持つということ、あるいはだれか特定の人といっしょに暮らす、家計を共にする……これは、もちろん現実の必要性や本人どうしの感情の問題でもありますが、ある意味では、自分自身という個人が単に個人のままでいるのではなくて、自分をも含めたある種の

「枠組みを作る」

ということです。

そして、それはその枠組みの内部を見ればその中における自分のポジションや、内部にいるそれぞれの人との関係が問題になりますが、一方でそれを外部から見る場合には、あなた自身が直接に外の世界と関わることを避ける、あるいは、ワンクッション置くために必要であるという見方もできますね。

つまり、人はふつう枠組みの中にいると、ある意味安心なのです。安全です。

そして、たとえば家族という枠組みを持つ場合、もちろん内部的にはそれぞれの役割をもって機能するのですが、父は父、母は母、子供は子供なりの役割を外部的にも担うことになります。

父親というのは子供がいるから他人からも

「〇〇ちゃんの、お父さん」

と呼ばれることができるし、子供がいるから父親として振る舞うことができます。

そして、ある意味、その人は父親として振る舞うことで、素の個人として外部と直接関わることから守られているのです。

別の言い方をすれば、あなたは外部の人に対して、素の個人として接する代わりに、枠組みとしてあなたが持っている機能を利用して、あるいはそれを代用することによっても接することができるということになります。

学校という枠組み、会社という枠組み

あるいは、学校や会社もある程度同じ事が言えます。

もしあなたが、素の、そのままの、直接の単なる「個人」であったら、あなたは他のすべての人に対して直接、単なる自分自身として接しなければなりません。

でも実際はそんなことあり得ません。

だれでも、何かしらの所属や、役割や、地位や、機能を持って生きています。

ただ、

「一人で生きるのだ」

という信念を自分に課すならば、その人は要するにそのような枠組みによらずに生きると言っていることになります。

もしそのような意識に基いて生きるとすれば、本来自分を守るべき枠組みについて、枠組みとしての機能やその価値を放棄すると言っているのと同じです。

これは、見方によっては窮屈な考えです。

そしてこれは枠組みそのものが存在しない、という意味ではありません。まったく何の枠組みもなく現実の社会の中に存在するのはおそらく不可能です。

自分が想定している枠組みを自覚する

ふつうイメージされる

「一人で生きる」

という場合のその意味は、たとえば

  • 配偶者を持たない。
  • 家族を持たない。
  • 経済的にだれかに頼らない。
  • 家計や生活をだれとも共有しない。

……といったことでしょう。

つまり、何のしがらみや関係も固定しない代わりに、何者にも依存せずに生きてゆく、というような意味です。

自由気ままである代わりに、だれにも頼れないという感じですよね?

ところがですね。

実際には、何の枠組みにも依存せず、自分という個人をそのままさらけ出して直接に世界と関わっていこうとする生き方は非常に難しいのです。つまり、突き詰めるといわばそれは仏教でいうところの「悟り」を開いたような状態でなければほぼ不可能です。

もちろん、多くの人は別にそんなことを追究しようとして

「一人で生きる」

と言っているわけではありません。

ふつう、一人で生きるということは、あなたを守っている枠組みが、分かりやすい概念として、あるいは常識的に見て、社会で一般的に言うところの、既出の枠組みと異なる、一見して分かりにくいものになっているという意味に過ぎません。

つまり、私は既存の常識的な枠組みによって生きるのではない、別の枠組みに依存して生きようとしているのだ、という意思を表明しているのです。

ですから、周囲から見るともしかするとあなたは、「あなた」という以外の何の属性も持っていないように見えるかもしれません。

しかし、それでも人間は何かしらの枠組みに自分自身を関係付け、依存することで自分を守らないと、ふつうはやっていけません。

ところで、あなたはこのことを、本当に自由だと考えますか?

常識的な枠組みを持つメリット

卑近な例で言うと、たとえば、一般に家庭を持っているいわゆる「奥様」は、何かにつけ自分の旦那に文句を言い、子供の愚痴を言い、旦那の会社の待遇が悪いことを批判したり、あるいは学校のやり方が良くないなどと、近所の奥様と言い合ったりですね……。

まあ、別に具体的には今どうでもいいんですけど。

そのような典型的な常識人をイメージしてみると……その人はたいてい家族とか学校とか、あるいは地域といったすでに常識としてだれでも分かりやすい枠組みを巧みに使って話していることに気が付きます。

これは不自由なことだと考えますか?

しかし、そうでない

「一人で生きている」

という人はですね……そういう属性やしがらみから一見解放されているように見えるので、たとえばそのような愚痴や文句の原因を持たなくていいというメリット(?)を得ている代わりにですね、自分の周りで起こったすべての出来事について、

「いちいち分かってもらえない」
「いちいち説明しなければならない」

あるいは、もうそのような分かりにくい説明はすっ飛ばして、

「私は何にも依存していない、個人である」

という単純な言い方でしか、ほとんどの相手に理解され得ないということを受け入れなければなりません。

突き詰めればの話ですけど。

しかし、繰り返しますが実はこれは本当に何にも依存していないということとぜんぜん違います。

また卑近な例ですけど、これは自分で起業した人が、仕事上何があっても会社や上司のせいにできないって言ってるのと似ていますね?

そのような人は実際には、会社とか上司といった分かりやすい依存先ではなくて、もっと別の依存先を持っているということであり、依存の先が常識的な、既出の枠組みとは異なるというだけです。

真に何物にも依存しない孤独な、独立の、自分だけで完結した人間であるなどとはぜんぜん言えないし、おそらく本人もそのようなことを考えてはいません。

もし本人すらそう考えているとすれば、それは自分が持っている枠組みが自分にとって当たり前すぎて意識できないとか、その恩恵を享受するのは当然だというふうに思っている場合です。

その場合には、端から見るとその人は単に強がりな人、または自分中心の、利己的な人……という印象になってしまうでしょう。

しかし、おそらくあなたはそういうタイプの人とは違うでしょう。

なぜなら、そういう人ならばそもそも

「一人で生きること」の意味を問う

などという意識を持つこと自体がほとんどないからです。

たいてい「一人で生きること」の意味を問うような人物は、そもそもそのような前提に立ってはいません。

しかし、多くの人は、自分が言っている

「一人で生きること」

というのが、実際には

「既存の枠組みとは別の枠組みに依存して生きようとしていること」

だとは気が付かないのです。

そして問題は、その状態を自由で、主体的で理想的なことだというふうに肯定的に理解するか、それとも精神的に過酷なだけでそれ自体にあまり意味はないというように消極的に理解するか……という点になります。

それによって

「一人で生きる」

という意味がぜんぜん違ってくるのです。