蜘蛛の糸(芥川龍之介)の感想が変化する経緯

芥川龍之介の蜘蛛の糸という話の構造というか前提として、ふつうに考えるならばお釈迦様は絶対善であるというのは動かせませんよね?

この話を読んで感想を言おうとすると、せっかくお釈迦様が救いの糸を垂らしてくれてるのに、それをムダにしてしまうカンダタのほうが圧倒的に悪という前提で考えるしかないです。

だから、通常この話は、人間の愚かさや不完全さを自覚するべきだとか、それでもできるだけ善行を積むべきだとか、改悛の機会を逃してはいけないとか……という教訓を含んでいるという感想になります。

つまり、ふつうは人間の側の問題を自覚するものです。

たとえば小学生の読書感想文としてならば別にそれはそれでもいいんですけど、歳とともに解釈が変化する理由は、ふつう、これを読む人は最初、お釈迦様(のような、常に絶対的な善の立場にいる存在)がいて、他方、そうではない側の存在がいる……という構図を想定して読んでいるという、そのこと自体です。

つまり、ごくふつう、最初は善悪二元論を前提において感想を考えるのです。

ただし、それはおそらく、別にこの話がそういうふうに誘導してるわけではなく、むしろ、多くの人が従前から二元論的な観念を持っているためです。

特に、この話を知る時期である小学生くらいの子供たちなどは、単純にそれを当てはめようとすることになるでしょう。

で、そのように理解しようとすると、当然今度は、前の記事で私が書いたような疑問が出てきます。

あるいは文句を言いたくなるわけです。

つまり、それは人間のほうを部分的にでも正当化して、お釈迦様のほうにも非があるということにしたいという意味になります。

無自覚にしろ、これは二元論を崩して相対論に移行しようと試みているということなのです。

子供のころの私は、いわばお釈迦様の善の絶対性を否定して、それを相対論に持っていこうとしていたわけです。恐いもの知らずというか、罰当たりというか……子供時分のことなので許してください。

とにかく、善悪という観念自体が変化するにつれて、蜘蛛の糸に対する感想や解釈は変わっていきます。

そして、今度は私は大人になってから「蜘蛛の糸」を再び読んだときに思ったのは、これよりさらに別の見方もあるということです。

善悪が支配する観念からの離脱

まず、お釈迦様は「絶対善」でいいです。

だから、蜘蛛の糸などという危うく脆いものを使ってカンダタを助けようとした(……というより、助かるかもね? という感じでちょっとチャンスをくれた)ということも、それ自体はまったく瑕疵のない善であるとみなすしかありません。

他方、カンダタは?

まあ、こいつは悪人です。

でも、二元論あるいは相対論を前提にすれば、カンダタというのはある意味では

「すべての人間の代表」

であって、どうやっても善になり切れない部分が含まれているのは他の人間だって同じだ……と自然に解釈することになります。

でも、だから人間はすべて悪人……ってなるんじゃなくて、絶対的な善があったとしてもそれは

単に「善」という領域が存在するだけ

だと考えるならば話が変わってきます。

お釈迦様という存在を前提にすれば、お釈迦様以外の人間たちは自動的に「悪」ってことになる……と考えるから二元論あるいは相対論になるわけで、実はこの立場がすべてではないのです。

私の印象として、お釈迦様のような絶対的な圧倒的な善が想定されるならば、むしろ、それ以外のものをすべて悪とすることのほうに無理があるというか、抵抗を感じます。

だって無理に決まってるじゃん!

……って言いたいです。

これは多くの宗教や、一部の古典的哲学などに感じる抵抗と同じ種類のものです。

しかし、実は絶対善は善でいいのだけれども、また絶対悪というものが存在するならそれは悪でもいいのだけれども、人間の行為というのは大部分が

「そのどっちでもないもの」

だと考えることもできるのです。

そしてそのほうが人間にとって自然なわけです。