協力的な「関係」

もちろん、あらゆる関係が協力に結びつくとは言えません。

他人に協力を求めるには、相手と自分との間に直接協力につながるような性質を持つ関係が自然に生まれるか、あるいは意図的にそれを構築することが必要です。

協力的な関係

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実体的な「場」

ところで「関係」というとおそらくまず実体的な意味での「場」をイメージするほうがふつうです。

一般に、同じ学校、同じ会社、または同好会や趣味の集まり……こういったものはすべて目に見える形を持つ「実体的な場」です。

確かに、そこに同時に所属しているというだけで、すでにまったく無関係な他人とは言えなくなります。

またもっと偶発的なものでも「場」として機能することがあるでしょう。

たとえば、たまたま電車に乗り合わせた人のことをイメージしてみます。

指定席についてみるとだれかが自分の隣の席に座っていました。

こういう時、私たちは必ずというわけではありませんがたいてい、とりあえず

「こんにちは」
「隣、失礼します」

などと一言かけることが多いですよね?

だって、最初に黙ったままでいると、そこから先の道中が気まずいものになるかもしれないし、最初に挨拶を交わしていない場合、後で何か必要が生じても声をかけづらくなる……といった意識が働くからです。

車内にたまたま乗り合わせただけでもすでに「場」は発生しています。だれもが互いにごく自然にそれを認めているということです。

しかし、もちろんその「場」というのは、通常あくまでもその場限りのもので、当事者もそれほど意識しないような偶発的な場に過ぎません。

その後これ以上話しかけることもないし、もし会話を交わしたところでそれはごく一般的な内容で、互いにそれ以上知り合うことは通常ありません。

そして、目的地についてしまえば即座に「場」の共有状態は解かれることになります。

つまり一時的に同じ空間に存在したと言うだけでも「場」は成立しますが、こういった場合の「場」というのは強いつながりや関係をもたらすものとは言えません。

時間の蓄積は「場」を強化するか

幼なじみや学校時代の友達のことを考えると、ある期間をいっしょに過ごした仲間、いわゆる「同じ釜の飯を食った仲」というような関係は、ごく強いものになるはずだとイメージするかもしれません。

自分にとって忘れられない思い出があり、そういった人物と再会すれば一瞬にして当時の記憶が甦って打ち解けあうことができる……イメージとしては十分想像できます。

しかし、現実にはそれはおそらく、それは「その場に存在した全員」に対してではないはずです。特定の相手ごとに印象や関係性には強弱があります

たとえば、一応知っているとはいえ、あまり親しく話したりはしなかった同級生などに再会した場合はどうでしょう。

もちろん、赤の他人よりは話しやすいかもしれませんが……かと言って。

実は、私は田舎から東京に出てきて、何年も会っていなかった同級生に都内でばったり出会ったことが数回あります。

そのときに……ドラマティックな再会を演じることはとてもできませんでした。

顔は知っていても名前が覚束ない……という程度の同級生だと、特に親しくつき合ったこともないから最初は「やあ!」と声をかけて、一瞬は懐かしい思いがあふれて来るもの、それはごく短い時間です。

お互いの近況を聞きあって、機会があったらまた会おうというようなごくあいまいな約束をして別れました。

正直に言うと、その短い時間の中でさえ、話題が乏しく会話を持て余すような気まずいムードを感じてしまったのでした。

もちろん表情には出しませんが……たぶん相手も同様だったと想像します。

人によって、そういう場面での反応の仕方自体にも差があるでしょうが……でも、ある程度相手を選ぶというのはだれでも同じでしょう。

すると、まず「実体的な場」を共有していた時間の長さが、即相手との関係を強化するとも限らないことになります。

コミュニケーションの量

おそらく単なる時間の蓄積ではなくて、たぶんその相手とのコミュニケーションの量的な蓄積のほうが問題なのだろうと思います。

コミュニケーションの量とは、つまり互いが交換した情報量と言い換えることができるでしょう。

その質はいったん置いたとしても、情報量がが多ければ関係は強化され、そうでなければ関係はごく弱いというのは基本的にその通りだと考えられます。

さらに考察すると、実体的な場というのは関係を作るきっかけにはなり得ますし、それ自体が関係を規定する条件の一部にもなり得ますが、それは一方ではごく微弱で、しかも時限的なものです。

ある場合に、実体的な場そのものがごく強い関係を生み出すように感じられることありますも。ただし、それは実はそこにある実体的な場が強いというわけではなく、そこに人間の精神や意識を介して作り上げられる心理的な関係が同時に構築されるからでしょう

これに対して、仮にきっかけは「実体的な場」に依存したものであっても、結局はそれを通して形成される情報の蓄積のあり方が関係を強く規定すると言えます。

関係そのものを強化し、またその関係の性質を(例えば友達である、仲間である等)規定する力を持つのは主に、過去やりとりされた情報のほうです。

また、それらは当人たちにとっても強く、特別な重要性をもって自覚されます。

同じ土俵で勝負する

変なたとえ話ですけど

「同じ土俵で勝負する」

という言い方があります。

でもこれは文字通り「土俵」という場所にいるということを指しているのではありません。

仮にちびっこ相撲の大会に招かれて「○○関に挑戦!」とかいうコーナーで、現役力士が地元の子供たちに胸を貸すとしても、それを「同じ土俵で勝負している」とは表現しませんよね?

「同じ土俵」とは、相手と自分が対等の立場にいるとみなして正々堂々真剣勝負をするというような意味ですから。

ここで「土俵」というのは、この「対等な感覚」というものを表現しているわけです。

蓄積された情報が、心理的な「場」を作る

「心理的な場」というのは、気持ちの上で相手と自分が同じく立っている「場」という意味です。これは、イメージとしては「同じ土俵」というニュアンスに近いものであろうと私は考えています。

そして、相撲においていろいろなルールやしきたりが合意として成立しているのと同じように、「心理的な場」を自覚するためには、お互いの間で有意な量と質の情報が交わされると同時に、少なくともその一部がお互いの合意によって選択的に共有されなければなりません。

それはある場合には「実体的な場」に当然に付随するものとして自覚されることもありますが、それに限らずきわめて主観的に主体的に共有される場合もあると思います。

協力を得るには?

ただし、相手に協力してもらえるような関係、というのを条件にすると、そのためには当然、協力関係と呼ぶにふさわしいような特定の要素(=情報)を含む「心理的な場」を共有する必要があります。

何でもいいというわけではありません。

そこで、協力関係を生み出しやすい「心理的な場」のことを、ここからは特に

「協力的メンタルフィールド」

と呼ぶことにしようと思います。

たとえば、前の例のように単に

「趣味が合ったから」
「話しが合う気がしたから」

というような種類の要素は、一般的に考えれば「友達」という関係には結び付きやすいですが、必ずしも相手に協力するという心理にはつながりません

言い換えると、

「友達だったら協力する」

というイメージは、一見するとごく自然に正しいように見えますが、現実にはそれだけでは協力的メンタルフィールドを伴っているとは限らないわけです。これは私が実感したところにも合致しています。

現実には、友達に全面的に協力する場合もあれば、友達なのに協力しない場合もあります。

あるいは、ある特定の友達に対してだけいつも協力的であろうとするのに、それ以外の友達に対しては非協力的であったり、互いに依存を避けようとしたりするという場合もあります。

これは、友達という関係を規定する要素と、協力的メンタルフィールドを構成する要素とは、実は完全には一致していないという意味です。

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