賽の河原の石積みの無意味さの意味

無意味なことを比喩するときに、よく

「賽の河原」
「賽の河原の石積みのようだ」

と言いますよね?

賽の河原の「石積みの意味」

ところで、突然ですが「賽の河原」の話って聞いたことありますか?

私自身は、たぶん小学校の低学年くらいの時に父親が話してくれたのを覚えています。

ただし、今調べてみたところでは、私が思っていたのと若干話の内容が違ってるみたいでした。

父親が間違って話したのか、私の記憶違いなのかももはや定かではありません。あるいは民間信仰なので諸説あるのかもしれません。まあ、それは置いといて一応Wikipediaの説明に準じて紹介しますと……。


「仏教的な伝承で、人間は死んだら三途の川を渡るとされています。

その川岸を賽の河原と言います。

そこでは親より先に亡くなった子供たちが親不孝の罪のため苦を受けます。それは父母の供養のために河原の石を高く積み上げなければならないのですが、やっと高く積み上がってくると鬼たちがやってきてそれを崩してしまいます。

崩されたらまた最初から石を積み直し……延々とその繰り返しという苦です」


だいたいこんな感じの話です。

ここから転じて「賽の河原」というと、無意味な努力、意味のない苦労を意味する比喩になります。

余談ですが、「賽」という字を見て私はサイコロしか思い付かなかったのですが、サイコロというのは昔は儀式や祭事、占いなどに用いるのが本来であったらしいです。

賽という字には神から受けた福に感謝して参るという意味があるそうです。

そう言えば「お賽銭」というのも賽の字が使われてましたね。

さて、父親からこの「賽の河原」の話を聞いた当時、私はこう思いました。

「まあ、針の山だの血の池だの、地獄のそんな苦しい罰は、子供にはかわいそう過ぎるから……」

と。要は、これは子供用の苦役だと思ったわけです。大人と同じような苦役を子供に与えるのはあまりにかわいそうだから、手加減する意味で石を積むだけの苦になってるんだなと。

でも、大人になってあらためて想像するに、この罰ってむしろ大人の実感として相当恐ろしいですよね。精神的に。

すると、今度はこう思いました。

「そうか……これは、子供の内に亡くなってしまったから、生きて大人になっていれば当然味わうことになる、人の世の無常さや不毛さや無力感を味わうという罰なんだな」

と、そういう意味で妙に納得したのでした。

無意味なことをさせられる苦痛……これはだれでも非常に嫌なものですよね?

しかし、私も誤解してたんですけど……。

この石積みという苦役はですね。

よく考えると本当は、石を積むこと自体に意味がないというわけじゃないですよね?

だって、石を積んで塔のようにするのは

「父母への供養という意味」

があるのですから。

これもし、一生懸命に石を積んで、壊れることなく高くなって、

「よし、できあがり!」

ってなればぜんぜん苦じゃないですよね?

そこに鬼が来て壊されちゃうから意味がないって言ってるんですよね?

積んだところで必ず壊されるということが確定している、そのことが「無意味さ」の原因なんです。

つまり、これは自分がやっていることの目的が達せられないという意味で「無意味」ということです。

石を積むという行為の目的自体に意味がないのとは違う

つまり手段の無意味さと、目的の無意味さは意味が違うと、ふと気が付いたのでした。

まあそれでも、石積んだからって供養になるのか? って言えなくもないですけど。

それで思い出したけど、別に賽の河原ってわけじゃないですが、でも河原とか砂浜に行くと、よく子供たちって石を積んだり、砂で山を作ったりして遊んでますよね?

子供たちはなぜか黙々と集中してやりますよね?

だれかがふざけて崩しちゃったりすると想像以上に怒ったりして……子供にとって、そういう遊びの意味って何なんだろう?

でもとにかく、単に「石積み」をすること自体は、むしろたいていの子供にとって楽しいことです。それ自体は苦役ではない。

立場が変われば意味も変わります

今回は話がまとまりそうもないな……と思いながらまだ書いてますけど、ではこの「賽の河原」の話の意味とはなんですか?

と考えると……私は、子供のころから今の今までずっと、この話は

「親不孝してはいけない」

という意味だと考えていました。要するに、これは子供にとって意味がある話だと。

でも、自分が大人になってから考えると、それは違うんじゃないかと。

つまり、この話って、実は親にとって意味があるのではないかと。

もし三途の川で我が子が延々と不毛な石積みを繰り返しているとしたら……それを思う親の気持ちはどんなでしょう。

私ならきっと、こう考えるようになると思います。

「もういいよ。もう許してあげてください。一刻も早くその苦役から解放して、なにとぞ成仏させてください」

って。

仮に最初は親不孝な子だと恨みや絶望のような気持があったとしてもです。

そして、子はなぜ石を積まなければならないのかと考えたときにですよ?

それは意味としては、私のために……つまり、残してきた親のために積んでるんですよ? 父母への供養なんですから。

そして、その子は結局何を供養したいのかと察すれば……それは、私(親の側)がいつまでも亡くした子に執着しているからじゃないですか。

こちらがずっと思っていたら、我が子はずっと成仏できないままなんだ……それが更に我が子を苦しめることになってるのではないかと。

……たぶんそう思うことになるでしょう。

つまり、この話はむしろ、子を亡くした親にとって意味があるということになるわけです。

これはもちろん私の勝手な解釈であって真意は分かりませんが、考えてみれば、そもそも仏典や伝承というのは、死後のことを語っているとしても死者が聞くわけではありません。

それはもちろん今生きている人たちに向けて語られているのです。死後の世界について、死んでから聞いたって意味ないですよね?

いずれにしろ石積みの苦役を続けている子供たちは、最終的には地蔵菩薩様に救済されて成仏するとのことです。少しホッとしました……。

意味を問うという行為は自己啓発である

物事の意味を別の角度からとらえ直そうとすると、結果的にそもそもの目的とはまったく別の目的を発見できたりします。

つまり視点が変わります。

それは大げさに言えば、自分の枠を飛び越え、視野が広がるというか。あるいは、さらに新たに意味を作るというか……そういう行為なのです。

つまり、私の解釈によるところでは、それはまさに

「自己啓発」

なのです。