何にでも善悪論を持ち込む思考について

私はもともと善悪論が大好きです。

ところで、先に断っておきますが私は今この記事を、具体的にどういう行為が善なのか、あるいは悪なのか、といったこと言うために書くわけではありません。

……と言っても後でちょっと書きますけど。

でも、とりあえず今は善悪論そのものをしたいのではありません。

そうじゃなくて、私がここで一番書きたいことは、

「自分の思考や判断に常に善悪論を持ち込むという習慣」

についてです。

善悪という思考の習慣ができる過程

「自分の思考や判断に常に善悪論を持ち込むこと」

について、まず私自身の記憶をもとに、善悪論を持ち込む習性がどのようにして自分の中に形成されてきたかを振り返ってみます。

1 絶対的な愛情、完全な依存(幼少期)

まず、これはだれにとっても当たり前ですが、肉親や家族などに受け入れられること、その愛情を得ることが絶対的な「是」です。「是=善」です。それを基準に思考し行動します。

私たちは原初的にはそれに則って「善いこと」「悪いこと」を区別していきます。

それに、そもそも物事には「善悪という基準」があるようだ、ということ自体を認識していきます。

2 知識、経験の増加、社会性の獲得(学童期)

私たちはその後、より複雑な思考や判断を学習や体験によって身に付けていきますが、その過程で、たとえば

  • 「善かれと思って」→「悪い結果になる場合」
  • 「自分が善いと思うこと」→「他人にとっては必ずしも善ではない」
  • 「悪いこと」→「見落とされたり、許される場面もある」
  • 「悪いこと」→「自分にとっては得になる場合がある」

といったことを知ることになります。

これはある場合には矛盾しており、今までのように単純に認めることができないことも含まれています。

ただしそうであってもやはり本人にとって中心的な関心は、親や学校の先生といった人から見て「善いこと」か「悪いこと」か、ということです。

3 自我の出現による葛藤、矛盾に対する自己理解(思春期)

善、悪というものを単に個別の事例に当てはめるだけではなく抽象化、概念化し始めるようになります。

同時に「善悪」以外の様々な基準を知ることになり、葛藤が生じたり矛盾に悩んだりすることが増えます。

環境や性格によっては特定の信仰や宗教、あるいは哲学的な信念などを得る場合もあり、それと自我との関係や現実生活との不一致などが問題になることもあるでしょう。

少なくともそういった知識を得ることによって観念的、抽象的に「善」「悪」という何か絶対的なものの存在に対する自分の立ち位置を考え始めることになります。

4 善の相対化、自由の拡大(青年期)

ごくふつう、少なくとも一般的な日本人の場合、その多くはある時期になると自然に

「絶対的な善」「絶対的な悪」

という観念が単に観念でしかなく、非現実的であるというふうに解釈するようになります。

同時に、日常多くの物事や行為は「善でも悪でもない」という感覚が備わってくるはずです。

しかし、そうは思いながらもどこかに

「絶対的な善」「絶対的な悪」

があり得るのではないかという淡い期待のような、怖れのような気持ちを保ち続けることになります。おそらく私自身はこの傾向が強かったのだと思います。

どちらにしろ(絶対的な善悪という観念があってもなくても)、それはもはや自分にとって、あるいは他人との関係においても社会全体においても、少なくとも

「唯一の基準」

ではなくなります。他のさまざまな価値観や現実的な制約、あるいは自分の希望や都合といったものとの関係において相対的に参照される

「判断材料、基準の中のひとつ」

にすぎないものになっているのです。

……おそらく、多くの場合、典型的には人はこのような過程を辿ることで「善悪論」を考える前提を作り上げていきます。

しかし、人によっては、あるいは育った環境や状況によっては、このような感覚や思考の変化を辿らずに

「何にでも善悪論を持ち込む思考」

を自分の内面に温存し続ける場合があるのです。

少なくとも私自身は、その傾向が強かったと思います。

……そして、もちろん立場によってその是非とか、それこそそれについての善悪論はあり得るのですが、私のの今の立場、感じ方を前提にすれば、これは非常に大きな

「メンタルブロック」

の要素、それもごく根本的な要素になっているのです。