友達作り

もともと私は一人で遊んでいても退屈しない子供だったと思います。

人見知りするわけでもないんですが自分からあえてみんなの仲間に入ろうとするような子でもありませんでした。

一生けんめい友達作りに励むようなことは苦手でした。

むしろみんなと仲良くしようと意識してふるまうようなことはカッコ悪いことだとか思っていました。

友達って、作るものなの?

時々、自分からすすんで

「早くみんなと仲良くできるようにしたいです」
「友達ができるかどうか心配です」

というようなことを言う子供がいます。

親や先生も

「友達がたくさんできるといいね」
「みんなと早く仲良くなりなさい」

と言います。

私はそれを聞くといつも

「……人に気に入られようとするなんて浅ましいじゃないか」

などと、心の中で違和感を持ちました。

実は自分が一番そういうことを欲している人間だったのに。

ただし、そんな自分の気持ちに気が付いたのは大人になってからですが。

「友達」の意味

いわゆる思春期というのでしょうか。

もう少し経つと私も「友達」というものに対する特別な憧れを持つようになりました。

数は少なくてもいい。でも自分にふさわしい人を友達として選ぼう……というような気持ちが芽生えたのだと思います。

ある相手を「友達」と呼ぶかどうかは私にとって非常にナイーブな問題でした。

たとえば学校帰りに決まっていっしょに集まって遊ぶグループがありますが、その中でもだれを友達とみなし、だれを友達という枠から外すべきかなどというようなことをいつも気にしていたように思います。

もちろんそのときの気まぐれや子供じみた争いが起こるとそれはすぐ変更されるのですが……とにかくそれが自分にとって大きな関心事だったのは確かです。

その頃から私は自分の中で友達という言葉を二つの意味に捉えるようになりました

ひとつは学校のお友達とか近所のお友達ということです。

これは、一般的に歳が近くてよく顔を合わせる機会がある他の子供というような意味しかないもの。

先生や、親や近所のおばさんが、私に向かって

「〇〇君の、友達」

と呼ぶ時の……その意味での友達。

そしてそれとは別に、自分が選んだ自分にとって真の意味での「友達」というもの

それは私が、私の理想に従って、私が決めた厳しい基準に適う、唯一無二の、絶対的な主観的な「友達」。

私はそれが本当の友達だという観念を強化して、そんな友達がほしいと思ったわけです。

だから本当の友達だけは「お友達」とは呼ばないで特に「親友」と呼んだりするとか……ささいな言葉の使い分けにも敏感になったりしたことを覚えています。

親友の条件

みんなの輪に入ったり意識的に友達作りをしたりというようなことは相変わらず苦手でしたが、自分の中では勝手に理想の友達像みたいなものをいつも想像するようになり、それはだんだんと極端になっていった気がします。

たとえば

「オレたち友達だよね」

とか
「親友じゃないか!」

というように相手に友情を確認するような物言いをされると、むしろ相手との間にある友情を冒涜されているような気がしました。

自分が親友と認める人はそういうことを口にしないヤツじゃなきゃいけないとか。

しかし、絶対に口にはしないけれども「親友が困っていたら何をおいても助ける」「親友の問題は自分の問題と同じ」という覚悟をいつも持っていなければならないとか。

思春期特有の感覚なのか、あるいは単なるテレビドラマや漫画の見過ぎだったのかもしれませんが……その頃私はこんなふうにロマンティックにストイックに物思いに耽るのがお気に入りでした。

私は聡明で理知的でしかも寡黙で控えめで哀愁がある人物がカッコいいというイメージを持っていたようです。

真の友達は、つまりそのような理想化されたカッコいい人物像をそのまま映し出すような人でなければならない。

そんなイメージだけが頭にありました。

もちろんそれは非常に空想的なものです。現実には、そんな人物はなかなか現れません。

しかし私はむしろ希感だからこそ価値があるというくらいに開き直っていました。

「私は本当に認めた人しか友達にしないから、すごく少なくてもいいんだ」

と自分に言い聞かせていたわけですね。

その一方で、私は相変わらず、現実に友達を作るとか、友達を増やそうとか……そういう意識はまったくなく、そういった努力をすることを「カッコ悪い」と考えていたわけです。