友達という夢と、現実の友達

フロイトかユングか……夜見る夢の中で親しい友人の行為は自分が持っている願望を映し出しているのだという話を聞いたことがあります。

私にとっての友達とはまさにそのように夢の中にいたような気がします。

つまりそれは同時に

「理想の自分像」

であり、自分自身が希少で特別な人物でありたいというナルシスの反映だったのかもしれません。

夢の中の友達

そのくせ私は周囲にいるだれに対しても我ながら情けないほどに神経質になってしまう性格でした。

本当はみんなと仲良くなりたい。

仲間に入れてほしい。

……それなのに、いつも自分の思いや主張を本気でぶつけることなく自分がどう見られているか、他人がどう思うかを基準に行動するような気が小さい弱い子。

私がもともと持っていた自己イメージです。

そしてそんな自分に苛立ちも感じていました。

……今はちょっと違いますけど。

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理想の友達像は、理想の自分像の投影

私が思っていた理想像というのは結局理想でも何でもなく単なる自己否定だったのだと思います。

そして、今から思えば私は本当は

「みんなと仲良くなりたい」
「仲間に入れてほしい」

と願っていたわけでもなくて、単に

「友達が多くて」
「だれとも仲良くできて」
「人の輪に違和感なくすぐに入っていける」

ような人物が、人間的に優れているという固定観念を前提に置いて勝手に劣等感を抱いていただけなのです

優越コンプレックスと「ふつうである勇気」

でも、当時はそんな知識もない上に、自分を客観視することなどできなかったので、ついわざと人の意見に反論したり、身勝手な行動をしたり……そして、だれかが自分のことを「変な人」「変わった人」だというのを聞くとむしろ妙に嬉しかったりしたのを覚えています。

自分の意見が通らなかったり、なぜか仲間の輪から外れてしまったりする場面でも

「私は大人だからまわりのみんなと差がありすぎてなじめないんだ」
「子供じみた友達ごっこの仲間に入りたいとは思わない」

なんて自分を納得させていましたし。

私はもともと持っている自己イメージを否定して、それとは逆の人間に見られたくて無理に周囲に無頓着にふるまっていたわけです。

ひねくれた子供です。

そして、思い込みというのはすごいもので、私はいつの間にかそのようにいつも自分の中だけで勝手に納得するのが長い間染み付いたクセになっていました。

だから余計に、現実に人と関わって素直に仲間意識とか友情とかいうものを求めることを避けてきたように思います。

それなのにたとえばそういうテーマのテレビドラマを見ると勝手に涙があふれてきます。

そんな時は人一倍他人との関わりに敏感になっている自分を発見します。

今この年齢になってもそういう、少し歪曲した感覚が自分の中に残っていることを発見するとき、なんとも始末の悪い気持ちになります。ただし今やそれは理想像どころか完全な劣等感です。

社交的にふるまう

苦手意識を克服しようとして時にわざと明るく素直にふるまってみようと試みることもあります。

しかし、少なくとも私の場合はたいていどうにも芝居じみている感じがして居心地良くありません。

まるで調節の効かないエアコンみたいに自然な温度を保つことができずに空回りします。

私がこの妙なこだわりを捨ててもっと素直に行動していれば、子供の頃の仲間たちみんなと、私はもっと親しい友達になれる機会があったはずです。

まったく惜しいことをしたと思います。

親や先生が「友達をたくさん作りなさい」というのも今なら納得できるのです。

それでも優しい周囲の人たち

ところが、こんな具合だから私はきっとすごく孤独で嫌われ者の仲間外れで、だれも相手にしてくれないような子供だったのかと思うかもしれませんが……実は案外そんなことはありません

学校に行けばたいてい自然にみんなと話したり遊んだりします。

思い起こすと子供時代に私の周りにいた仲間はみんな私のことを受け入れてくれたし、実際のところ十分仲良くしてくれていたと思います。

もちろん、中には嫌いな子供や、けんか相手もいましたが……今になって思えばそれだってごくたわいないものです。

たとえば今問題になっているようないじめや引きこもりといった問題とは無縁のごく平和な環境に育ったと思っています。

つまり、私の内面とは裏腹に、周囲の子供たちも、たぶん大人たちもですが……みんな私にごくふつうの親しみや優しさを持って接してくれていたのです。

これは、あらためて考えるとある意味、驚くべきことです。

「場」に属する便利さ

実は、私にとっては学校というところはある意味とても便利な場所でした。

黙っていてもたいてい仲間に入れてくれるからです。

というよりも、必然的にお互いが関わりを持たなければならないような環境に置かれていると言ったほうがいいかもしれません。

今考えるとごく恵まれた温室のような「場」にいたのだと感じます。

そして、私はその環境にどっぷりと甘えていたのです。

いわば、

「同じ集団に属している」

というだけで、だれもが仲間意識を持ち仲良くしてくれるという保証があったのです。

おそらく、私はだからこそ

「友達作りなんてわざとらしい」

とか

「親友はこういう人でなければならない」

とか……不遜なことを思っていられたわけです。

内面でそんな考えを温存していたとしても、現実には安全に孤立したりする懸念がなかったから。

社交的になる必要はあるか

「頼れる人がいない」
「協力してくれる人がいない」

私が必要に迫られてこのテーマについて考え始めたとき、最初に思い浮かんだことは……とにかくもう少し人付き合いの上手な人間になって、友達や親しい仲間を作ることが必要だということでした。

すごく当たり前のような考えですが……それしか思い浮かびませんでした。そういうごくふつうの努力を避けてきたから、いざという時になって嘆くことになるのだと感じたのです。

しかしあらためて振り返ってみると、実は私が内面でどう思っているかに関わりなく、今まで出会ったほとんどの人はごく自然に接してくれていたような気もします。

別に友達と呼ぼうが呼ぶまいが関係なく、人は時には私によくしてくれますし……逆にまさに友達だと思っていた人が私の願いに応えてくれなかったりもします。

また私自身もそうです。

前に書いた通り、私は思春期の頃には

「親友が困っていたら何をおいても助ける」
「親友の問題は自分の問題と同じ」

などという極端な観念を持っていたのですが、ただしこれはきわめて抽象的な空想のようなものに過ぎません。

実際には私は、せっかく友達ができたとしても自分の都合を優先することが多々ありました。

まったく無頓着に。

子供のことですから本当に深刻な状況ではなかったにしろ、私はある時には友達に対してもきわめて冷たい態度を平気で取ることがあったと思うのです。

考えてみれば当然のことかもしれませんが、どうも人間は

「友達になれば協力してくれる」

というような単純な理屈で動いているわけではないようです

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