罪悪感は「消す」んじゃなくて「浮かせて取る!」

メンタルブロックの話題に関連して、私が特に気にしているのは「罪悪感」あるいは「罪悪観念」についてです。

メンタルブロックと呼ばれるものには「罪悪感」の他に、たとえば特定の場面で緊張してしまうとか、羞恥心や不安、恐怖感といった面も小さくはないですが、それ以前に私の場合はどうしても、何かにつけ

「何か悪いことをしているのではないか?」

という自分の感じ方について意識が向くことが多いです。

一般的に言っても、罪悪感というのはメンタルブロックの中でもかなりウェイトの大きいもので、罪悪感を感じて消極的になったり、行動を回避してしまったりすると感じている人は多いように感じます。

「トラウマ」という言い方

しばしば、個別の体験やエピソード記憶を取り上げて、そのことがあなたに罪悪感を植え付けて、

「同じ状況になると同じ感情や身体反応が起こるようになっている」

という説明の仕方があります。

いわゆる、一般に言う「トラウマ」というヤツですね。

これは、おそらく個別には当たっている場合もあるように思います。ただし、まったく的外れな場合もあるように思いますけど。

仮に、あなたがすでに過去の特定の記憶や経験を意識の上ではっきり自覚していて、その事柄についての罪悪感がどうしても消えないので悩んでいる……という場合だったら、もちろんそれを「消す」手法としては正しいでしょう。

でも、そうではなくて、むしろ多くの人が感じている「罪悪感」というのは、自分でもどうしてそう感じてしまうのか分からないような、自然になとなく感じてしまうような「罪悪感」です。

この場合、同じ手法でそれを治癒、解消することは可能なのかなと……心配なのです。

私の感じ方としては、自分でも原因が分からないような「罪悪感のようなもの」を対象とする場合、上のように、たとえば記憶の中にある特定の「トラウマ的なエピソード」を(その場合たいていは、あなたの「潜在意識」の中からそれを引っ張り出すという工程になります)を探し当てるということになるでしょう。

しかし、仮にそれが「一発でヒット」したとしてですよ……それを解決したからと言って、それによって他のすべての面も含めて、あなたが何となく感じてしまう罪悪感の全体が解消されるかというと、私はかなり疑問に思います。

だって、今まで生きてきた中で、もしそれをトラウマとか呼ぶとすれば、そんな経験や記憶は実際にはもっと無数にあるわけですから。

そのたった一つを取り出して、それを自覚的に解釈し直したりして、何か心の中がパッと明るくなったとしても……それによって自分の精神とか思考、あるいは行動のしかたや物の感じ方の全体が大きく変化するものだろうかと。

もしかすると、その瞬間はそんな気がするだけで、事実上の効果はごく微量なのではないかと心配になるのです。

と言っても、私は別に心理療法の専門家とかでもないので、実際にはどの程度の効果があるのか知りません。

もしかすると、その一回の経験の感覚が引き金となって連鎖的にさまざまな要因からくるブロックがどんどん外れる始めるのか?

あるいは、専門家の場合は本当にその人にとっての原因の根本になっている単一の記憶をピンポイントで特定できる技術があるのかもしれません。

……まあこれは、専門家に施術してもらう場合の話ですけど。

とにかく、私の問題意識は別のところにあります。

どうして何でも善と悪で考えてしまうのか

そもそも今私が書きたいのは、そういう個別の罪悪感の要因とかではなくて、たとえば

「人間の生き方には善と悪があって、善を目指すべきである」
「世の中には善人と悪人がいる」

というように、なんでも物事を善と悪という概念に当てはめて理解しようとするような、その人の思考全体を覆っているような思考のクセがあるのではないか?

……ということです。

つまり、個別のことじゃなくて、その人の考え方や価値観を作る構造自体が問題なんじゃないだろうか。そういう意味での「罪悪観念」みたいなものがあるんじゃないだろうか、という仮定です。

どうしてそう思うかというと、まず、私だってもちろん、個別の「トラウマ的事件の記憶」があると言えばあります。

でも、それは、そのことだけが独立して記憶に残っているわけではなくて、そもそも私という人間は子供のころから「罪悪感」につながるような情報をいわば「聞きまくって」今日に至っているわけです。

それは親とか周囲の大人からというだけではなく、ほぼすべての周囲の他人から、さらにそればかりでもなく、たとえば新聞や雑誌や小説や時代劇や、映画や漫画やバラエティ番組や……これらのすべてからそのような情報を取り入れ続けてきたわけです。

たとえば、多くの物語や創作物のストーリーは

「勧善懲悪」

という基本構造を持っているか、その派生形という構図になっているものです。

たとえ、その物語がバッドエンドだったとしても、それは本来は善が勝つべきなのに、それがうまく達成されなかったという印象を与えるでしょう。ふつうは。

この世はまるで悪が支配しているかのよう

ただ、ある程度の年齢になってしまうと、これが現実と異なるのではないかという疑問というか、不安定な感じが起こります。

ある時期になると、現実の世界は、むしろ空想や創作の世界と真逆に見えるのです。

ある時期から、私もこんな疑問に悩まされました。

「なぜ常に善人が損をするように見えるのか?」
「善はなぜいつも悪に対して力を持たないのか?」
「善はなぜいつも弱いのか?」

……本来は善が圧倒的に正しく、悪は悪であるがゆえに常に攻撃され、善がどんどん広まるはずなのに、いっこうにそんな気配すらありません。

思春期から青年期にかけて、振り返ると私はこんな問題意識を抱えていたように思います。

これは周囲の身近な人たちを含めて、実は多くの人にとっては、どうでもいい問題かもしれません。あるいは、一個人が日常的に深入りするような問題ではないと考えているかもしれませんね。

しかし、一部かも知れませんが、私と同じようにこのような疑問というか、問題意識というか、いつも何となくもやもやとした感じ、ずっと判然としないままで気持ち悪いような感じを持っていた人もいるかと思います。

また、自分自身では意識していなくても、前提的にこのような思考の構図、思考のパターンに沿っているかもしれません。

多くの著作物や創作物に「善と悪」という構図が用いられるのは、それを前提的に受け入れる観念を持っている人が圧倒的に多いということの証明とも言えます。

この、善であるべきものが現実には善として確立せず、悪と呼ばれ忌み嫌われるべきものが現実の世界では常に生まれて広がり続ける……というような感覚。

たとえば、こういう意味での違和感、葛藤といったものが、なんだかよく分からない「罪悪感」を私に植え付けている正体なのではないかなと。

私はそのようにイメージしているのです。もしそうであれば、それこそ最大のメンタルブロックと呼ぶべきものなのです。

最大であり、かつ、根本的なブロックです。

この葛藤状態というか、このような思考の習性を持っている限り、その人は

「個々の経験や記憶の内容がどうであれ」

むしろ、ほとんど何事に対してもどこかで罪悪感を持ってしまうことができるのですから。

あるいは、こう言ってもいいでしょう。その人は、対象が何であれ常にいったん「罪悪観念」というフィルターを通して物事を判断するという配慮をし続けなければならないのです

だから、私ははっきり言いますが、この思考の習慣だけは本当にやめたほうが良いと思っています。これは自戒を込めて。

……だからって、悪いことでも何でも構わずやっっちゃえー、と言いたいのではありませんよ。念のため(笑)

私が言いたいのは、もしメンタルブロックがあるというなら、これは多くの人にとって、他のどんな面よりも圧倒的に強大なメンタルブロックであり得るということです。

この思考の習性そのものを除去しなければならない

これは私の考えに過ぎませんが、もしこれが妥当だとすれば、しばしば言われる意味で

「個別のメンタルブロックを消す」

という言い方はちょっとずれているような気がします。「消す」っていうのは、おそらくその原因になっている個別の経験や記憶を特定して、それを顕在化した上でその解釈に手を加えるから、その結果として一つのメンタルブロックが消せるというイメージから来ていると思えるからです。

でも、私のイメージだと、そのようにしてもし消せるのは自分の内面にあるメンタルブロックの中のごくわずかな量でしかありません、しかも、そうやって1個1個の原因を特定しては消しているその間にも、自分の「思考の習性」が温存された状態では、新しい経験や情報があるたびに新たなブロックがどんどん増えているわけですから、「いたちごっこ」どころか「焼け石に水」といったところです。

私のイメージによるなら……メンタルブロックは、肩こりのようにいったん

「解きほぐす」

必要があります。そして、今度は洗濯物の汚れのように

「浮かせて取る」

必要があります。

メンタルブロックの本質的な原因は、過去の個別の経験や記憶ではなくて、過去に自分がした一つひとつの判断、解釈や、過去に感じた感情などの一つひとつに染み汚れのように付着したままになっている「罪悪観念という思考の習性」だからです。

感じ取るべき「罪悪感」もあるはず

同時に、私は思うことがあります。

仮にこのようにして、なんにでも前提的に罪悪感を見い出すような思考の習性から解放されたとします。

しかし、それでもなお、自分の特定の行為や、個別の判断のレベルでは、当然「罪悪感」という観念自体は、時として必要なものであるということです。

上で述べたことは、決して

「自分の罪悪感を麻痺させること」

ではありません

当然ですが、罪悪感とか、善悪に関する妥当な判断力といったものは、そもそもは存在するほうが健全なのであって、それ全体を「メンタルブロック」という名のもとに一掃しようとするのは摂理に反する暴挙と言うべきです。