善悪とは何か? と考える前に考えること

私が今問題にしたいのは、何が善で、何が悪なのか……といったことよりも、

「自分の思考や判断に常に善悪の観念を持ち込むという習慣」

についてです。

これって、しばしば自分の行動や、あるいはその前段階として具体的に何かを思考することを

「止めている」

ことがあるんですよ。

すなわち、メンタルブロックというヤツです。

具体的な内容以前に、そもそも自明だと思っている前提的な観念として、物事は善いことと悪いことに分かれるって感じを持っていること。それはつまり、自分が何をするにせよ

「これは善いことなのか?」
「これは正しいのか?」

って、まず考える。それが自分の中である程度納得できないと先に進めない。

少なくとも私は自分で振り返って、いつもそういう思考の傾向があったように感じるんです。

もちろん、悪いことだと思っていながら行うのは論外です。

しかし、いつだって、別にどこが問題だとも思わないのに、それでも

「これは本当は悪いことなのではないか?」
「これは本当に悪い面が含まれていないか?」

って考えるんです。

そして、そんなことは絶対ない。これはだれがどう考えたって善いことのはず。間違ってなんかいない。

……って、いちいち自分を納得させなければならないんです。

これ自体がすでにメンタルブロックと言ってもいいんじゃないでしょうか?

腑に落ちなかった「蜘蛛の糸」

ところで、私がなぜ、なんにでも善悪の観念を持ち込むという自分の思考習慣がおかしいんじゃないかと思い始めたのかというと……。

まあ、いろいろなことが重なっていますが、ひとつ記憶に新しいのは、

【芥川龍之介の「蜘蛛の糸」】

これを大人になってから読み返したからです。

この物語って、子供のころから私にとっては非常に腑に落ちない話だったんですよ……。

学校で習ったりするのであらためて紹介するまでもないと思うのですが、一応あらすじを書きますと、

「大罪人のカンダタという人が地獄の血の池で苦しんでいます。ちょうどその真上に極楽の池があって、お釈迦様がその池から下を見てカンダタを見つけます。

お釈迦様は、カンダタが一度だけ一匹の蜘蛛を助けたことがあるのを思い出して、助けてやろうと池にいた蜘蛛の糸を取って地獄まで垂らしました。

カンダタがその糸をつたって登ってきます。ところが、地獄にいた他の罪人たちも糸に気付いて登り始めます。カンダタはそれを見て糸が切れてしまうと心配になり、他の者たちに下りろと叫びます。

その瞬間に糸が切れ、カンダタもろとも全員がもとの地獄に落ちてしまうのでした」

……というお話です。

子供のころ一度は聞いたことありますよね?

これ、どう思いました?

最初の記憶が定かじゃないんですが、私はこの話をたぶん小学校のころ、何かの放送で聞いたような気がします。あるいはテレビだったかもしれませんがよく覚えていません。

それで、なんか腑に落ちなくて、その後、少したってからか、あるいは中学生になって以降だったかもしれませんが図書館で読み直したことがあるんです。

とにかく、子供心に私は思ったんです。

「たった一度、蜘蛛を助けたからと言って、大罪が免除されるなんておかしくない?」

って。

考え出すとどんどん疑問が湧いてきました。

「なぜ、カンダタだけを助けるの? 不公平じゃない?」
「どうして蜘蛛の糸などという切れやすいものを使うの?」
「お釈迦様は本当は助ける気がなかったのか?」
「他の人も登ってくるのは当然じゃん」
「糸が切れそうって思うのも当然じゃん」
「それのどこが悪いの?」
「それで助かる機会を失うなんて、おかしくない?」

とか……。

あなたもそんなこと考えませんでしたか?

少なくとも、この話ってなんか変だなあとか感じませんでしたか?

そして、ずいぶん大人になってからもう一回読んで、思ったんですよ。

私が感じたこのような数々の疑問。

これは、子供のころは疑問として心に浮かんだだけでしたが、今あらためて考えると……これは疑問というよりも、結局

「お釈迦様のほうに問題がある」

あるいは、

「そもそも天国と地獄、というシステムに問題がある」

って主張しているのと同じなんですよね?

絶対善への反発

つまり、はっきり自覚してはいませんでしたが、結局は子供心にこう感じていたと思うんですよ。

「お釈迦様のくせに!」
「その力があるくせに!」
「もっとちゃんと助けろよ!」
「これじゃあカンダタのほうが被害者じゃないか!」
「カンダタの権利が奪われちゃったじゃないか!」

って。

あるいは、

「そんなことするのなら、初めから地獄なんて作らなきゃいいじゃん!」
「だれだって一度くらい善いことしてるだろ!」
「ルールがおかしいじゃん!」

って。