善行とは、だれでも今すぐできること

世の中でしばしば取り上げられる慈善、善行といった行為は往々にして別の意図が含まれていて、純粋な善とは言えない面があります。

しかし私は、それだから常人にできることではない……と言いたいのでもありません。

実は、仮に「絶対善」というものが、今私が思っている意味だとすれば、善行というのは、むしろだれでも日常的にできることです。

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逆に言うと、日常的に、今すぐにでもできる範囲のことでしか、善として行うことは不可能です。

私が思うには、それこそが本来の純粋な善であって、それは別に観念的なものでも理念的なものでもなく、実行が困難なものでもないんです。

個人に可能な善行の範囲

善には条件があります。

あなたがしようとしているその行為というのが、自分にとってはやろうと思えば今すぐにできるような非常に容易なことで、かつその行為の対象や環境などが容易く自分の管理下に置けるような範囲のものでないと成り立たないということです。

つまり、ふと気まぐれに行っても、自分が意図しないようなおかしな影響が出たりしない範囲のことでないと、それは善とは言えないということです(これは私個人の解釈です)。

その条件下で初めて、それは「ふと気まぐれに」対象に干渉しても大丈夫なわけです。

逆に、いくら「善かれと思って」やったとしても、自分の予測が的外れだったり、予期せぬ事態に発展したり、あるいは自分の力の限界を超えた結果を期待していたり……。

こうなると、それは今言っている私の「善」ではない、つまり単なる善意以外の何らかの意図や、結果への期待があらかじめ含まれている行為ということになりますから、ここで言っている絶対的な「善」とは呼べないものになってしまうからです。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という話は、この意味で非常に示唆的な構成になっていると私には見えるのですが、実はこのお話の中でカンダタが生前行った、

「気まぐれに一匹の蜘蛛を助けた」

というその行為……それってまさに、ここで言っている純然たる善行に当たると解釈できるわけです。

つまり、お釈迦様は大悪人であるカンダタのたった一つの善行、それが、実はそれこそが純然たる「善」であったからこそ、それに対してまた「善」によって報いたのだ……というように解釈することも可能なのです。

これと比較すると、他人の目から見て善と見えることであれ、あるいは、自分では善的な動機で行ったことであってさえ、それが純然たる善と見做されない場合も多々あり得ることになるでしょう。

象徴的に言うならば、

「あなたの頭上に垂らされる蜘蛛の糸の本数は、あなたがそのようにして行った善の回数」

です。

善とは、あくまで行為の種類

同時に、この意味で、善とは個別具体的な行為を指すのであって、たとえばお釈迦様のような

「常に善であるような存在」

あるいは

「そもそも善であるような生き方」

というのは人間的な意味ではそもそも考えられません。

逆に、世紀の大悪人だからまったく「善」を行うことが不可能だとも言えません。

どんな悪党でも大罪人でも、そうであってすら善行とは日常的にかんたんにできることなんです。

さらには、たとえば世間一般に善人と思われているような人が多くの善を行ったとも言えません。

あるいは、ごく善良に一生をまっとうしたように見えるその人が、本当に一度でもこの意味での「絶対善」を行ったかどうか……これもかんたんには判断できないことになるのです。

私はそのように感じています。

少し長くなりましたが、いずれにしろ、ここでの主題をまとめますと私が一番言いたいのは

「人間が行うすべての行為についていちいち相対的な善悪の程度を評価する必要はない」

ということです。

私たちは単に、

  • ほとんどの場合、善でも悪でもない営みに終始している
  • しばしば、気まぐれに善を行う
  • しばしば、悪を行うこともある

という存在であるにすぎません。

そして、ここまでの私自身の考えをもって、昔の私の疑問に答えるならば……。

「なぜ常に善人が損をするように見えるのか?」
「善はなぜいつも悪に対して力を持たないのか?」
「善はなぜいつも弱いのか?」

といった疑問だったのですが、これは、まず善人とか、常に善なる状態といった観念がそもそも誤りで、現実のほとんどの人は善人でも悪人でもないからです。

それなのに、多くの人が何か他の動機や信念に支えられて常に善人であろうとしたり、あるいは他人を見て善人だとか悪人だとかいう評価をし続けるから、世の中がそのように見えてしまう……ということです。

そしてそれは、多くの人がそもそも善悪について二元論または相対論で思考し、行動しているからなのです。