考える力と思考作法

考える力を付けるというと多くの人はすぐに

「思考法」
「思考力」

といったものを考えると思います。

頭脳を鍛えるために何をしたらいいとか、〇〇思考法というようなものを学習しようとか。

もちろん思考力そのもの、あるいは具体的な思考の方法論というのも大切であることは間違いないのですが実は多くの人が見落としがちなのはむしろものを考えるための

「作法」

です。

思考の作法

たとえば

「何について考えるか?」

をあらかじめはっきりしておかなければ考える力を発揮することはできません。

また

「どこでどんな状態でそれを考えるか?」

によって発揮できる力は大きく変わってくるでしょう。

実際に考える力をつけるには思考法とかフレームワークといった各論に入る前に、いわば

「思考の作法」

を身に付けるのが近道です。

思考に入るまでの問題

何かをじっくり考えたいけれど、いつも

「いずれじっくり考えないといけない」
「今度時間があったらゆっくり考えよう」

と思い浮かぶだけでなかなかできないというような場合、多くの人はその理由を

「時間がないからだ」

と考えます。

しかし実際に時間ができた時には

「えーっと、いったい何について考えるんだったか……?」

ということを考えているうちに時間がなくなってしまいます。

あるいは考えるべきことが明確でないために、何を考えるべきかを考えているうちにいろんなことがランダムに思い浮かんで整理が付かなくなります。

結果、面倒になってやめてしまう……ということを繰り返していませんか?

これでは仮に時間があったとしても無為に過ごしているのと同じ結果になります。

……たとえばこういう状況は、本人の思考力や、思考法に問題があるわけではありません。

いわばそれ以前の問題なわけです。

仮に資質として「考える力」があっても、さまざまな思考法をすでに学んでいたとしても、実際にそれを使い続けなければ思考のスキルを自分のものにすることはできません

他のすべての道具と同じように、これらもまた、使いこなせるためには十分手に馴染み、慣れることが必要なわけです。

とりわけまず大切なことは自分は

「何についてどう考えたいのか」

をはっきりしておくということです。

もし、何かを考える時間と状況を得たとして……それをいつでもすぐに取り出せるように工夫しておくのです。

これは思考の準備です。

その準備が整っていて初めて実際にものを考えることができます。

場所の確保(考えるためだけの場所)

「何について考えるか?」

をはっきり準備しておくことと同時に、ものを考える場所を決めておくことをおすすめします。

これは、特に最初の段階で効果的です。

つまり、これは本当は

「自分がものを考える場所」

というよりも

「物を考えるという習慣を訓練するための場所」

といったほうが正確かもしれません。

……つまり、結果的には場所に拘らずいつでもどこでも考える力を発揮できる自分になりたいわけですが、それを実現するための道場みたいな場所を持つことが有効というわけです。

もちろんまず空間的にどこで考えるかを決めておかないといけません。

自宅でも良いのですがその場合には意識的に考える場所とタイミングを考えておかないと自分がせっかく何かを考えようとしているのに家族が話しかけたり雑用を言いつけられたりすることがノイズになって集中できなかったり、ふとしたことで考える気が失せてしまったりする可能性があります。

また、自宅の場合はすぐ手近なところにスマホやパソコンや好きな本や漫画などが置いてあったりします。

それが目に入ると集中して何か大切なことを考えることよりもとりあえずそっちに手を伸ばすことを自ら選んでしまう可能性が高くなります。

こうして、もし自宅に考える環境が作れないということになるとどこか別の場所を用意しなければなりません。

まあ実はどこでも良いのですが。

喫茶店、カフェやファミレス、公園、あるいは電車の中……。

よく指摘されることですが、ひとつ言えることは考えるための場所というのは意外に

「不自由な状態」

であるほうが効果的だということです。

つまり自分のしたいことが何でもできて気分的にもくつろげるような場所だと、実際にはそのことを考える以外の別のことを選択する余地が多いということですから集中しにくいのです。

極端に言えば、むしろものを考えるくらいしかやることがない……というような状態のほうが良いことになります

これも思考の準備です。

考える時間とは?

① 考える内容
② 考える場所

を自分なりに決めたものとします。

するとあとは

③ 考える時間

さえ捻出できれば良いと考えるかもしれませんが……先ほどから言っている通り実はこれだけでは本質的なことをじっくり考えることはできません。

その最大の理由は……あなたがそもそも

「ものをじっくり考えるという行為に慣れていない」

からです。

スポーツとか武道を始める場合のことを想像すれば容易に理解できます。

さっき、思考のための道場と言いましたが……それになぞらえて言うなら、今のあなたはまだ

「じっくり思考する」

という点においては白帯のヒヨッコです。

ある意味当たり前なのですが見落としがちなことです。

何の競技をやるのか自分で決めて、チームに参加したり道場へ入門したりします。

……それだけでその種目がすぐにできるようになるわけではありません。

それは準備が整っただけで実際にはまだ何もしていませんからね?

仮にあなたがどんなに筋力や基礎体力に自信があったとしてもです。

だからといってすでにその競技に慣れている経験者に挑戦していきなり勝てる確率は極めて低いでしょう?

やっと実際に練習を開始する段階に至ったに過ぎません。

思考力というのも単なる「力」なのではなくてある程度の実戦経験を積まないと身に付かない技術なのだと考えるほうが正しいのです。

考える前に自分なりの儀式を置く

実際に何かをじっくり考えるには自分の身体や精神を

「思考モード」

に切り替えるようなある種の儀式を使うと有効です。

たとえば比較的手軽で実践しやすいものとしては

いったん寝る
決まった雑用を行う
風呂に入る
決まった音楽などを聴く
決まった飲み物を飲む

といったものが有効です。

あるいはたとえば勤務中などに行うことを想定しているならば

数分間瞑想する
数回深呼吸する
何もせずに数分間ガムを噛む

といったごく軽いものでも良いです。

要するに何でも良いのですがそれをすると「思考モード」に入るというようなクセを意識的に付けるようにすると効果的でしょう。

でも、実は仮にそのようにしても実は最初はすぐに考えが進んだり思考が整理できたり良い案がひらめいたり……はしません。

つまりここからやっと練習に入れる状態になっただけですから。

よく散歩中にアイディアがひらめくことが多いといった話を聞くことがありますよね?

これは確かに一理あります。

仮に最初はたまたまそうだったのだとしてもその経験が何度か重なることで

「散歩しているときにはアイディアが浮かびやすい」

という解釈が自分の中に出来上がります。

すると今度は意識的にそれを狙って

「アイディアを出したいときには散歩をする」

という行動パターンを意識的に利用できるようになります。

どんな儀式的動作を取り入れるにしろ、それがある程度繰り返されることで初めて実質的に思考モードに切り替わるというパターンが形成されます。

それまでやめてはいけません。

実際に「考える時間」は実は短い

後から振り返ってみると気が付くのですが、たいてい何かについてじっくり考えようという場合でも、実際にそのことを考える正味の時間は実はそんなに長く必要ありません

「ゆっくり考える時間がない」

という人は、たいてい実際には思考に集中するための準備と、このような儀式をパターン化させるために投じるべき時間が捻出できていないのです。

ですから本当言うとあなたは

「思考する時間」

ではなくて

「思考という行為に慣れる時間」

のほうを必要としているのです。

深い思考には慣れが必要です。

ドラマなどでよく一流の経営者や政治家といった重責を負っている人が、薄暗い部屋でデスクにひとり座ってじっと何かを考えているようなシーンがありますよね?

腕を組んで目をつぶって……と思うといきなり大胆な決断ができている、みたいなシーン。

まあこれ自体は単なる演出かもしれませんが、でもたとえばこういった人々はそれこそ考えることを仕事としているような立場の人たちです。

要するに物事をじっくり思考し決断するということ自体に非常に慣れているわけですよね?

おそらく私たちがそれと同じことをいきなりしようとしても最初からうまくいくわけではありません。

ものを考えるということにはある種の訓練というか経験値が必要なのだとあらかじめ知っておく必要があります。

そうでないとせっかく時間を取って、じっくり考える機会が整ったとしても、たいした考えも浮かばないどころか思考がフラフラさまよっているような感覚に耐えきれなくなって

「自分はそもそも考える力がないんだ!」

と性急に投げ出してしまいます。

でもそれは

「思考力がない」

のではありません。

ましてや、何かの本に書いてあった思考法が間違っていたのでもありません。

それよりも、単に最初の段階で忍耐力がなさ過ぎたというだけのこと。

武芸に入門して一晩で逃げ出す門弟のようなもの。

……それでは考える力どうこうの話以前の問題なわけです。

ですから上に書いたような手順作法を用いて、まず

「じっくり考えるということは体感的にはどういうものなのか」

を興味を持って経験してみるという気持ちが大切だと思うのです。

最初はせっかくものを考える時間が確保できたのに結局たいした考えも出ないまま時間をムダにしているような気がしますが……それは仕方のないことで実は決してムダではありません

ものを考えるための自分なりの型(パターン)を作り上げることにある程度の練習時間が必要なのだとあらかじめ思っておいたほうがいいです。

ものを考えること自体よりもむしろそれに時間がかかるのです。

思考法を俯瞰する方法

思考の方法論について俯瞰する際に私自身は

「点の思考」
「線の思考」
「平面的思考」
「階層的思考」

……という4つの分類を想定して全体の構造を把握することにしています。

これはそれぞれが、一般的に言われている意味でのいろいろな「思考法」を自分なりに俯瞰して整理したいときに有効な

「思考法の入れ物」

のような位置付けとなる考え方です。

言い換えれば、個別の具体的な思考をメタ的にしたものがいわゆる

「思考法」
「フレームワーク」

であるとすれば上記の分類はそれをさらにメタ的に捉えようとする考え方です

私自身はけっこうしっくり来ている考え方なのですが……これによってあなたの思考もすっきりと整理されることを期待します。

思考の傾向

たとえば自分の思考がどの次元に偏っているかを自覚することもできるでしょう。

これは人それぞれに違います。

たとえば、常に「線の思考」に頼る傾向があると、その人はより拡散的な思考が得意でもしかすると発想の豊かな人かもしれません。

ただし必ずしも正確でない推測をもとに判断しがちだったり、複雑な理解や緻密な分析を要する場面になると拒絶しがちになったりする面があるかもしれません。

また、平面的思考を好んで用いる人は緻密で信頼のおける判断をするかもしれません。

けれども斬新な発想が苦手だったり複雑性が高すぎて他人に伝わりにくかったりする面があるかもしれません。

もちろん一概には言えませんが、仮にお互いが自然に用いる思考の次元が異なると他人と話がまったくかみ合わないとか各要素の重点の置きかたが共有できないということが起こり得ます。

そういう場面では、その思考が主にどの次元に偏っているかということに注目してみると理解しやすい場合があります。

またこのように観察することは自分自身の思考手順を省みることにもつながます

最後にここまでの記事は一応話がつながるように書いたつもりなのですが、ここに目次的な意味であらためてまとめておくことにします。

【点の思考】に関する記事

【線の思考】に関する記事

【平面的思考】に関する記事

【階層的思考】に関する記事

パスとリンクについて思うこと

集合から階層へ

パソコンに置かれているフォルダは開けてみると中にまたフォルが入っています。

その中にもまたフォルダ……といくらでも作ることができます。

これはデータを管理するには非常に適した構造で

「階層ディレクトリ」

などと呼ばれます。

……もちろん無限に作っても意味ないですけどね(笑)

パソコンが普及してから階層という言葉はより抵抗なく一般的に用いられるようになったと思います。

ただし、その実態はプログラムの「分類」ですよね。

ただこう見ることもできます。

つまりパソコンに収められているファイルとかデータを具体物とみなせば確かに分類と呼ぶべきだけれども、私たちがパソコン上で見たいテキストやイメージというのは、それぞれが特定の情報のかたまりであって、

「文字や像で表されるものは、私たちにとっては概念の表象です」

……とすると、ここまで言っていた思考上の階層と同じように、それを階層構造と見るべきだという考えも成り立つわけです。

よくこういうことが起こります。

散乱したファイル類を整理しようといくつかのフォルダを作成して分類を試みます。

けれどもある規則に従ってきちんと分類項目を挙げたつもりなのに、なぜかどこにも属さない類のファイルや複数の項目に当てはまって、どちらに入れておくべきか判断に困るファイルが出てくるのです。

こういうとき私たちはたいていそういったものはすべて

「その他」
「未分類」

とかいう暫定的な名前を付けたファイルに入れてしまうか、またはそれ以上分類せずに一つ上の階層のフォルダ内にそのまま置いておくでしょう。

ファイル類をその内容(プログラムではなくて意味のあるもの)として分類しようとしているからです。

……ここでもし私たちがファイルの内容にまったくこだわらないのであれば、たとえば単純に時系列や

「あいうえお順」

で分けておいてもいいわけですよね?

ただしその場合私たちはそれを単にファイルという「もの」と見て各ファイルの意味や関連性など度外視していることになります。

ふつうはそれだと不便を感じるわけです。

意味内容や関連性に沿った分類を考えだすと、どの階層にもぽつぽつとすっきり分類できない内容を持つファイルを発見してしまうのです。

これは単に分類の仕方や整理が下手だという話ではなくて、そもそも概念や情報といった抽象的なものは集合とか分類という手法になじまないために起こる現象なのではないでしょうか?

サイトの構成

インターネットを構成しているサイト群にも同じことが言えるかもしれません。

各サイトを単なるページの羅列と捉えればそれぞれにアドレスを割り振られたデータの集合とみなすことができます。

けれども各ページがある知識や情報または特定の意見や主張などのかたまりであり、サイトというものがページを単位とする意見や概念の集積であるとみなせば、それは形としては前に書いた

「大量の紙を山積みしたようなもの」

と同じように意味的な階層を持たせたくなりますよね?

このほうが私たちの思考の仕方に合致するように思えます。

とは言っても……もちろん私たちは専ら思考の材料を探すためだけにインターネットを使うのではありません。

たとえば自分のサイトに置く素材やツールあるいは今見たい特定の画像などを探すときにはその「もの」が欲しいのであって、たどり着いたそのページが何を言わんとしているかとか、ほとんど気にもしないでしょう。

つまり文字にしろ画像にしろそれらを「もの」と見ればそれは集合と扱うほうが妥当だし、概念と見れば階層的な把握のほうが適するわけです。

ところで、もちろんすべてのサイトがこのように理想的な階層構造を具現化しているとは言えません。

けれどもインターネットサイトは思考を階層的に捉えた場合のイメージと相似性があります。

ですから逆にこれをモデルとすれば階層的思考というものがもつ性質を理解しやすいと思います。

私たちはまるで古いサイトをリニューアルするかのように自分の思考全体を階層的に再構築することもできるのです。

パスは俯瞰的である

パソコンやネットの用語として一般的になっている

「パス」

「リンク」

についてあらためて考えてみます。

「パス」は階層の構造を表す

パスというのは特定のプログラムやファイルを目指して階層を下へ下へと掘り下げて行く際の

「経路」

つまりページ単位の序列というか、繋がり方という意味で使われます。

パソコン上のフォルダは平面というよりも書類入れのようなアイコンが使われることが多いですが、これをどんどん開いていくとたとえば

「デスクトップ$PROGRAM$file$……」

というような表示がありますよね?

この時の「$」という記号は自分がたどった経路つまりパスを表しています。

この構造自体は別にパソコンに特有のものではなくて、たとえば自分のバッグの中にある財布の中にある千円札を取り出そうとするとき

「バッグ$財布$千円札」

と辿るのと同じようなものですね。

パソコン上では扱うものがバーチャルだというだけです。

パスを辿るという行為は構造を頼りに分岐を繰り返して特定の目的物に向かってゆくことです。

言い換えると、パスというのは階層構造を俯瞰的に外から見た場合に辿る順序または分岐を表しています。

構造を全体として見ているのです。

特定のWEBサイトを閲覧するときの行動を考えてみましょう。

まずアドレスバーに見たいサイトのアドレスを入力して目的のサイトのトップページに入ます。

サイト内にはたいていサイトマップが表示されていてそれを見ればそのサイトが持っている構造が分かます。

と言ってもここで分かる構造とは欲しい情報があるかないか、具体的にどのような内容が含まれているかということよりも全体としてどのような階層構造となっているかということです。

それぞれがどのように分岐して整理されているかということだけです。

サイトマップ自体はたいていツリー構造をしています。

けれども実際にはサイトというのはページを重ね合わせたものであり階層構造をしています。

つまり階層構造におけるパスを記録するにはツリー構造が適しているということです。

ただしこれは階層構造とツリー構造が同じものだという意味ではありません。

実際にはそのツリー構造が表しているものは各階層の中身を度外視したパスだけです

パスを把握することは階層という構造そのものを把握することであって含まれる概念の内容を知ることとは違います。

ところで、実際には必ずしもそうなってはいないけれども仮に一つひとつのサイトまたウェブ全体について理想的な整理がなされているとすれば……その構造は形式として階層的であるだけでなくて、各ページの内容自体が作成者の意図に沿って意味的にも明確に階層的になっているはずです。

つまり初めの階層では上位の、あるいは総論的な問題や概念が提示されていて、より深い階層に侵入すればするほど下位の各論的な問題や概念が語られているべきです。

私たちは別にそれを強く期待しているわけではありませんが、実質的にはあるサイトのトップから入ってパスを辿ってゆくという行為は内容が階層的にまとめられているという前提で行われます。

そして私たちはウェブサイトを見るとき無意識に最初そのつもりで次々にページを辿って行くけれども……たいていある程度のところで必ずしも完全な階層性が整っていないことに気がついて諦めるのです

リンクは線的である

パスを丹念に辿ってゆくのは……慣れてくるとむしろ非効率に思えてくるでしょう。

今や……だれもサイトを見るときにパスに従ってなんか見ていません。

ただ、それは完全な階層性が整っていないサイトが多いから……という理由ではありません。たぶん。

実は私たちは

「あるサイト全体が何を言っているか」

ということよりも、むしろ自分が知りたい特定の情報だけをさっさと探し当てたいという場合のほうが圧倒的に多いからです。

その場合私たちはたいてい検索のためのキーワードを指定することから始めます。

ここで自分が想定したキーワードというのは特定の情報について主観的に選択した仮の起点です。

このとき私たちはあまり階層構造について意識していません。意識する必要もありません。

検索ボタンを押すとそのキーワードにヒットしたサイトやページが羅列されます。

そこに関連性を臭わせる候補が無数に現れます。

そこでどれかのページをクリックしてサイト内に入ってみます。

それが期待したものに近いとすればそのサイト内のテキストを読んでいくし、期待したものと異なると思えば前の検索結果の画面に戻るでしょう。

実は私たちはそれによってすでにいくつかの階層を通過しているけれども、それを意識することはあまりないのです。

仮に、検索結果の中のあるサイトのどれかのページに入ったとしましょう。

たしかにサイトマップを探したり、いったんトップページに戻ってみたりすることもあるけれども、それよりも私たちがよくやるのは、とりあえずそのページ全体を概観して期待できそうなテキストにざっと目を通すことです。

するとそのテキスト内に埋め込まれた、またはそのテキストの付近に示された「リンク」が目にとまります。

興味があればクリックしてリンク先のページまたはページ内の指定された箇所に飛んでみます。

思ったのと違ったら「戻る」だけです。

私たちは特定のリンクを興味に任せて次々と渡り歩いていきます。

起点となる検索キーワードが想定された時点から場合によっては一貫性もなくいわばランダムにリンクを辿っていきます。

この行動はたぶんに主観的であり同時に「線的」です

つまり、リンクを辿るという行動は

「線の思考」

に似ています。

リンクというのはWEBやサイトが持つ階層構造の中にありながら、その構造の制約を受けずに線的な関連付けを可能にしているのです。

こう考えると

「よくできてるなあ……」

と今さらながら感心してしまうというね。

思考次元の両立

インターネットというのは、実は人間の思考と非常に近い構造を持っていると言える気がします。

それを構成する一つひとつのページは記述の場としての平面を提供しつつ、階層として整理可能であり、さらに系統だったパスの存在によって構造として俯瞰できるようにもなっています。

それと同時にリンクという機能の存在によって階層構造の制約によらず特定のある点からまったく別の点や領域に線的な関連付けを行うこともできます。

人間が行う思考もこれと非常に似ていると思うのです。

私たちはある時には情報を平面的思考によってかなり厳密に整理することができます。

またそれを階層的に把握することによって構造そのものを見出すことができます。

一方で、自らが想定したその構造を無視して拡散的、あるいは偶発的にでも線の思考を行うこともできます。

私たちは思考が高次化することによってより複雑な関係性についても簡単に正確に把握することができます。

もちろん私たちがもし高次の思考方法をまったく持たず、専ら線の思考に頼るだけであったならば、おそらくきわめて原始的な、そして恣意的な関連付けによる思考しかできないでしょう。

これでは思考の蓋然性が著しく阻害されるだけでなく、他者と論点を共有することも困難だと思います。

ただし高次化が発達しても低次の概念がなくなるわけではありません。

階層的思考にしても全体像を整理した形で捉えることができるという利点は得られるけれども、それは線の思考や平面的思考を排除するものではありません

次元を駆使する思考

私たちは必ずしも

「点→線→平面→階層」

というように一方向に思考を高次化させていく流れだけではなく、たとえばある階層的体系の全体を

「点」

とみなして、さらに他の概念と結びつけることもできます。

ある思考の構造全体を部分とみなしてさらに思考を拡張するような「入れ子」構造を使うこともできます。

抽象的思考が速やかに拡散できるのはこのような操作が可能だからです。

私たちは思考を高次化することで構造に縛られるものではありません

むしろそれは私たちの思考をより自由にしているのです。

概念の階層構造

思考の高次化は可能か

前の記事では、空間つまり三次元をベースとした思考は想定できないと述べました。

けれども、実はそれに代わる一種の高次化の方法を私たちはすでに用いています。

それは

「階層」

という考え方です。

空間のような、リアリティをもった三次元的な思考は困難だとしても、その代わりに私たちはいわゆる

「階層構造」

というのを概念としてしばしば用います。

ここで、平面的思考からのの高次化は

「平面」

「階層」

ということになります。

階層という言葉

ただし、ふつう私たちはたとえば「社会的階層」とかいう場合のように、ある条件下で数値的に上位に属するか下位に属するかというようなものを

「階層」

と呼ぶことも多いです。

こういう意味での階層というのは、その実態はあくまで

「分類」

ですから平面的思考に属することになります。

ここで言っている「階層」というのはそういう類のものではなくて、概念的な階層のことです

「階層」のイメージ

ここで言っている階層というのをイメージするために、いったん平面というのを正方形の真っ白な紙だと想像してみましょう。

で、仮に今、紙を使って「立体」を作るとします。

すると私たちがふつう真っ先に思い浮かべるのは……紙を六面に貼り合わせた立方体のようなものではないでしょうか?

いわゆる「箱」ですね。

ちなみに、もしその箱に何かを書きたい場合どうしたらいいでしょう。

箱のそれぞれの面に当たる紙の部分に書くしかないですよね?

その箱の中の、空気しかないところには何も記録できませんね。中は空っぽですから。

では、次に「階層」というのを想像してみましょう。

同じく紙を使って「階層」を表現しようとすると、どうなるでしょうか?

するとそれは、紙を何枚も何枚も積み重ねればいいですよね?

貼り合せるのではなくて単に積み重ねるのです。

すると、あら不思議……たくさんの紙を重ねると見た目はやっぱり立方体のようなものになります。

またちなみにですが……もしその積み重ねた紙に何かを書きたい場合どうしたらいいでしょう。

めくればいいだけですよね?

言うまでもなく私たちはどの紙にでもメモができます。

その立方体の外面だけに……ではなくて、重ねた紙のすべてに書くことができます。

これが、立体と階層の違いです。

階層構造は思考の場となる

複数の平面を積み重ねたような関係性……すなわち

「階層的思考」

というのは私たちの思考のあり方に合致します。

ただし、それは上のイメージにあるように実体は

「平面を複数重ねたもの」

です。

つまり平面において与えられる2次元のパラメータに、

「階層の上下関係」

という、もう一つの位置関係に意味を持たせることで疑似的に3次元のような場を作り出しているのです

このこと考えて、

「階層的な思考」

とは、三次元的に見えながら実は二次元つまり平面的な概念を積み重ねたものであり、あえて言えば本当は三次元的なものではありません。

ここでは

「線の思考」

「平面的思考」

という場合に見られたような意味での次元の飛躍は見られないです。

線の思考と階層

前に述べた

「夫や妻との不仲問題」

の例を再び出してみます。

このような悩みを他人に相談すると

「相手を責めるよりもあなたのほうから変わりなさい」

というような意味のことをアドバイスされる確率が高いけれども、ただ、この時の本人にとっての根本問題はあくまで

「配偶者との不仲を改善する」

ことのほうにある……といった話をしました。

けれども、もしここでこの問題自体を

「階層的に思考」

しようとすると、どうなるでしょうか?

これを常識的に想像すれば、階層化する場合には、ふつうは

「自分が変わる」

ということのほうが本人にとって上位の階層にある問題だと位置付けることになりそうです。

こちらのほうが

「話が大きい」

からです。言い換えれば

「よりメタ的」
「より根本的」
「より本質的」

に見えます。

ふつう、自分自身が変わればほぼ必然的に配偶者との関係も大きく変化すると考えるのはごく自然でしょう。

逆に配偶者との不仲を改善することで、場合によっては自分自身にも何らかの変化が起こるという可能性もあるけれど……ふつうはそういう考え方はしませんよね?

いわゆる人間関係とか、人生相談的なことをイメージすると。

……とすると、この問題を階層的に捉えると上位に

「自分の変化」

という課題があり、それより下位に

「配偶者との不仲の改善」

というより具体的な問題がある、と捉えるのが妥当だろうということになります。

学術的な研究とか専門的な分析といった話は別として、私たちが日常の思考に階層的な概念を用いるとすれば具体的にはこういう内容になるのです。

階層的思考とは、多重に拡散した思考の内容を抽象的に上下関係として位置付け直すことで、それぞれの重要性やその関連性を構造として掌握することに第一義があります。

それは、言い換えればまさに各階層に置かれたテーマや問題を

「一歩引いて俯瞰する」

ということです。

つまりこれもメタ思考の典型的手法なのです。

階層の上下関係は、重要度の高低ではない

さて、しかし階層的に上位であるから今自分にとってより重要だ……ということにはなりません

この例では上位に相談者自身の内面的変化という問題が潜んでいることが発見できるということは言えますが、だとしても本人にとっての根本問題はあくまで

「配偶者との不仲の改善」

のほうにあり、そちらのほうが本人にとっては相変わらずもっとも重要事項であるはずです。

もちろん、本人がいわば

「心を入れ替える」

という可能性もあります。その場合には、根本問題そのものが入れ替わります。

……まさにこのことを

「パラダイムシフト」

とか

「啓発」

というわけです。

自己啓発という場合の「啓発」というのは、メタ思考、メタ認知と密接な関連があって、それを前提としなければ成り立たないものだということは前に書いたと思います。

ただし、それはすでに一種の飛躍を含んだものであって、通常

「思考を進める」

という範囲に絞れば例外的な状況です。

どの階層を重要視するかがポイント

階層的思考を用いると

「今どの階層について問題にすべきか」

ということを整理して容易に特定できるという効果があります。

先ほど言ったように、階層が上だから重要度の上、とかそういう問題ではありません。

むしろ、どの階層が今自分にとって最も重要かを見極めることが階層的思考のコツと言ってもいいと思います。

いずれにしろ、こういった思考や判断は、線の思考だけではなかなか容易ではありません。

仮に線の思考に頼ってこの問題を把握しようとすれば……おそらくどうしても

「自分の変化(手段あるいは原因)」

「不仲の改善(目的あるいは結果)」

というような関連性だけが想定されることになるでしょう。

あるいはたとえば

「今はこの問題なのだから自分の変化なんて関係ない!」

というような認識しか持てないかもしれません。

どちらの場合にも、それ以外に視野を広げることが難しく、結局問題は解決がより困難になってしまうはずです。

一般に、たとえば

「必ずしも相関関係があるとは言えないけれども状況によっては影響してくるかもしれない」

とか

「いずれ取り組まなくてはなりませんが今の問題と絡めると逆効果になるだろう」

といった言い方をすると、ややもすると曖昧だとか中途半端だとかいうような批判を受けやすいでしょう。

しかし、実は階層的思考を前提にするとこういった選択や判断もそれなりの妥当性があるということが理解しやすくなるでしょう。

また、だれかと特定のテーマについて話しているときに

「なんだか論点がずれてるなあ……」
「話が噛み合ってない気がする……」

と感じることがあると思います。

こういう時には、階層的に把握することに慣れていると相手が何を意識して発言しているかが容易に分かることもあります。

それぞれが異なる階層に重点を置いているために議論が混乱しているというような分析が容易になるのです。

類推とこじつけ

構造に着目する

学校で三角形など図形の「合同」とか「相似」について習いました。

今まで話したように、思考手順そしてより具体的な思考法を考えるときに

「構造」

というものが想定できるとすれば、具たいていな要素はまったく違ったとしても、構造自体に合同、相似のような一定の共通性、関係性が発見できれば、そこからの

「類推」

が可能になります。

つまり構造上の類似という概念です。

たとえば……単純な例ですが仮にツリー構造において、分岐の数と形がまったく同じものが2種類あるとします。すると内容はまったく異なるとしても構造としての相似性は非常に高いと言えるでしょう。

ただし……線の思考よりも平面的思考のほうが構造的な類似性を発見して活用できる確率は格段に上がります。

それは、やはり平面的思考では前提的に「領域全体を規定」するからだと思います。

パターン認識

私たちは細かい差異を無視して、ある程度似たものを同一視する習性をもともと持っています。

ふつうこれを

「パターン認識」

と言います。

意識的に用いようとすれば、構造の類似性に注目することによって、いわば穴埋め問題を解くように未知の要素を想像したり推測したりすることもできます。

得るべき対象そのものは未知のままだとしても

「構造から考えてここに何かが当てはまるはずだ」

といった推測ができるということですね。

そこから逆に考えて、どういった分野のどういう種類の情報が必要なのかといったことが仮定できるわけです。

あるいは、類似の問題は似たような構造を持つはずだと仮定して解決方法を模索することもできますよね?

構造から類推する方法はかなりメタ的な方法と言えます。

先の例で、SWOT分析という手法とPPMという手法とはその目的や対象は異なりますよね?

しかし、構造としてそもそも4象限の座標的フレームワークという共通のものをベースにしているという意味では共通性があります。

少し乱暴だけれども、極端に言えば

「仮にどんなテーマであっても」

とにかく2つの軸を想定して全体を4つに区別すれば何となく何かが発見されるような気がしませんか?

平面を思考の場と捉えるとそのようなアプローチも可能なわけです。

こじつける

ただしこれには当然デメリットも指摘できます。

ある既存の構造を無理やりにでも当てはめてみるというのは有効なことも多い反面、かなり強引なこじつけを生みます。

当然、無理にこじつければロジックとしては誤謬が多くなる可能性も増えます。

斬新な発想は往々にしてこじつけから生まれたりもするわけですが、けれどもそれは新しい

「発想をする」

とか

「推測する」

という効果を期待するものであって、必ずしも蓋然的ではありません。

根拠が希薄でも、詳細部分の差異を無視してでも自分が得た発想やアイディアを活かしたいと思うのが人間の心理です。

だから、それによって得たものは必ず検証が必須です。

それのみに頼っては、最終的に物事を

「決定する」

ことは難しいわけです。

「立体・空間」は思考の場となるか

思考の次元

人間は視聴覚などによって感受した外界の事象を、おそらく最初はなんら関連性や脈絡を持たない「点」として認識するはずです……が、主に言葉による概念化や既存の知識との関連付けがそれとほぼ同時に瞬間的に、無自覚に行われるために、

「点的な認知」

はごく速やかに

「線の思考」

に移行するのだろうと推測します。

よって、前に述べた「点の思考」については、むしろごく意識的に行わなければ難しいのだろうと感じます

人間の最も自然な思考は線の思考であり、それによって人間は概念と概念を結びつけること……つまり

「抽象的思考」

をごく自然に用いることができます。

そして、今度はおそらく後天的な学習によっ「平面的思考」を覚えます。

それによってより精緻な分析や、正確な判断や、客観性の共有といったより高度な思考形態を持つに至ります。

……今まで話した内容をいったんまとめるとこんな感じです。

立体・空間

そこで話の流れとして次には

「平面」

「立体・空間的なもの」

へとさらに高次化していきたいところなのですが……。

けれども実は

「三次元的な思考」

となるとその実用性はかなり限定されてしまうように思います。

もしかすると人によっては可能なのかもしれない……ただ、おそらく私を含めて多くの人は立体とか空間といったものを

「思考の場」

として扱うということ自体がほとんどイメージできないのではないでしょうか?

もちろん、単に

「立体や空間を頭の中で想起すること」

はさほど難しくありません。

けれど、それをたとえば理論立てとか分析とか……いわゆる思考を進める手段として有効に使う方法と考えた場合、わたしはそれをほとんど想像できません。

せいぜい3つの座標を取ってその各パラメータを立体的に表すというような手法の意味を理解できる程度です。

……ただそれだっておそらく平面的思考の延長にすぎないと思います。単に理屈の上でパラメータをもう一つ追加することで、平面的思考を立体に置き換えただけのように感じるからです。

3次元の特殊性

ところで、「点」「線」「平面」といったもの自体がそもそもバーチャルなものと言えますよね?

すなわちそれらはすべて「概念」です。

何というか……地球上に、実際に

「点(大きさがない)」
「線(幅がない)」
「平面(厚さがない)」

……というよな「物」は存在しませんよね?

それは人間がある意味勝手にそのように把握しているというだけのものです。

ところが……これに対して

「立体」

あるいは

「空間」

というのは、私たちにとってはある意味でのリアリティがあります

実際に私たちの周囲に存在している「物」はまさにすべてが立体であり、空間だからです。

……もしかすると、これが3次元という概念の特殊性なのかもしれません。それが逆にそれが人間の思考にぴったり来ない理由なのかもしれませんね。単なる想像ですけど。

私たちは3次元をどのように把握しているのか

けれども、外界の空間がリアルなものなのか否かにかかわらず……人間が得る

「認識としての立体や空間」

というのに限れば、実はやはりバーチャルでしかあり得ないという話もあります。

それほど専門的なことは知りませんが、ふつうに考えてみても、私たちは空間をそのまま実体として見ているように思っていますが、実際にはたとえば視覚というのは空間を認識するときに

「網膜に映った複数の像を多重に捉えた結果を、脳の中で3次元として置き換えて認識している」

……らしいですね。

要は、眼が2つあってそれぞれが見た「ズレ」を解析して、あらためて立体にするということです。

言うまでもなく、網膜に映った像そのものは立体ではありません。映画のスクリーンと同じでそれ自体は平面的です。

つまり私たちが見ている外界は、実は脳が経験と学習によって再構築したものです。

……おそらく、思考というのも同じような構造を持っていると私はイメージしています。

結果的に三次元的に表示することは可能だとしても、その形成過程はたいてい

「平面的に理解したものをあらためて空間的なものに置き換えて表示する」

ことにすぎないのではないかなと。

……で、これでは空間的な場を思考自体に用いたとは言えない気がするわけです。

おそらく統合することはできる

ただし……これは本論の定義の範疇でいうところの思考に限定した場合の話です

実際、私たちは空間とか立体というのを体感することもできるしイメージもできます。

同列に扱うことはできないけれども、イメージとかひらめきとか、いわゆる右脳的な発想というようなものを思考の定義に含めれば別です。

ただ、そうなってくるとおそらくそもそも次元によって分けるということ自体が意味を成さないことになり、そもそも概念とか意識とかは無次元的なものであって構造を提示すること自体が難しいという話になってしまうと思いますが。

ただ、おそらく

「総合的思考」

というものを想定する段階ではこれらの議論は再考に値するだろうと思います。

そこではむしろ、いわゆる論理、ロジックだけを思考だと「枠」をはめるように考えるほうがデメリットが多くなってくるという感覚はありますね。