他人を「ディスる」人の心理

私は、他人を「ディスる」人は、なぜディスるのか? その理由を考えたときに、それはまず大きく2つに分けられると思います。

それは、少なくとも本人の意識の上では

① 相手のため

だと思ってディスっている場合(……言われた方にしてみれば余計なお世話だとしても)です。

それともう一つは、

② 専ら自分自身のために

他人をディスるという行為を習慣にしている場合です。

「ディスる」とは?

「ディする」というか「ディスる」と書いたほうが正しいかもしれませんが、この言葉は一般に

「けなす」
「否定的な評価を言う」
「こき下ろす」

というような意味で使われます。

否定的なニュアンスを含む言葉であるのは間違いないのですが、しかし若いスラングですので人によってさまざまなイメージを持って使われます。

実際どの程度否定的なニュアンスで発言したことを指すのかがはっきり伝わりません。そこが便利なことろでもあるし、誤解を生む原因となりやすいとも言えます。

たとえば

「そういえばこの間、あいつはお前のことディスってたよ」

というように使うことも多い(むしろそのほうが多いかも)のですが、その内容というのは直接的に完全に否定したのか、あるいは暴言や罵詈雑言に近い言われかただったのか?

それとも、ちょっと違和感があるとか、自分とは少し考えが違うとか、気軽な感想を言っただけだったのか?

それは実際に内容を聞いてみないと分かりません。もしかするとそれは単に

「あなたのいないところであなたのことを話してたよ」

という意味に過ぎない場合もあります。

そうすると、それはただ

「噂していた」「あなたのことに言及していた」

という意味にすぎず、実際にはまったく否定的な内容ではないかもしれません。早合点してその相手に反論などしてしまうと、逆にあなたのほうが

「ディスる人」

ということになってしまう……なんてこともしばしばあります。

ディスるなら、面と向かって直接ディスる

さて、少なくともあなたが

① 相手のため

だと思って言うのであれば、それは当然、相手に直接伝える必要がありますよね

ですから、まずこの場合には上記の例のように

「そういえばこの間、あいつはお前のことディスってたよ」

という状況を引き起こすことが原則あり得ないということになります。

もちろん、人づてに伝わることを予測して意図的に行うというような高度なテクニック(?)もあるにはありますが……それは置いといて。

基本的には、相手のために、相手に直接言うのであれば、否定的な内容であってもそれは、ふつうに言えば「アドバイス」とか「助言」の類であって、たいてい、それを言っている本人には相手をディスろうという気持ちなどまったくない場合が多いでしょう。

ところが、最近この「ディスる」という言葉が流行したことによって、好意や親密さから軽い気持ちで出たアドバイスや助言の言葉でも、すぐに「ディスり」認定されてしまう傾向にあります。

完璧主義、批判

逆に言うと、他人に対してアドバイスだ、教育だ指導だ……といろいろ言うこと、それ自体に否定的な考えを持つ人が増えているとも言えます

かく言う私自身も、だんだんそういう考えに傾いてきたような気がします。

「聞く人は自ら聞くし」
「聞かない人は何を言っても聞かない」

のだという感覚が以前より大きくなってきました。

……だから、こんなブログを始めたのかもしれないですね(笑)

とは言え、私はすくなくとも、相手が「聞く人」なのか「聞かない人」なのかを、

「一度は試してみてから判断したほうが良い」

という考えです。一般論として、他人の意見や助言に耳を貸さない人が多いと思うからと言って、今目の前にいるその人がそれに当たるかどうかは分かりません

だから、私のやり方は……逆に、一回相手をディスってみるのです

そうすると、相手がそれにどんな反応をする人かがすぐ分かります。その反応を見れば、自分が発言したことが現実的な効果として

① 相手のため

になるかどうか、すぐに判断できます。

「相手のため」という気持ちが、実は自分のためだったりする

一方で、気持ちとしては

① 相手のため

だと思っているが、その心理をよく自省すれば

「相手のためだと思って言っていたけれども、よく考えたらこれは自分自身のエゴだった」

とか、自分のもっと深いところにあった心理や感情に自ら気が付くということもあります。

「相手に精神的に依存している」
「相手を利用しようとしている」
「相手を支配しようとしている」
「相手の成長や、自由意志を制限したいと思っている」
「関係性を固定したい」
「離れたくない、逃がしたくない」
「自分の優位性を強調したい」
「自分が有能であることを周囲に示したい」
「自分の問題点から目を逸らしたい」
「本当の自分を他人に知られたくない」
「自分の無能さをさらけ出したくない」
「自分に価値がないと思われたくない」
「自分は価値がない人間だという気持ちを認めたくない」
「自分自身の課題を先延ばしにしたい」
「自分の価値観を守りたい」

……などなどです。

たぶん、あなた自身もそちらの部類に入るのではないですか?

あなたは、表面上の意識としては「相手のためを思って言ってあげている」と考えていますが、本当のところはただ、自分自身のこんな気持ちを覆い隠すためだけに、そのエサとして他人にいろいろ言っているだけです

怒り、責める

……と言われて、今自分が

「ディスられた!」

と思った人は要注意ですよ。

変なわだかまりや不安がない人は上の文を読んでも、たとえば

「まあ、そういう部分もあるかもしれないね……人間だもんね」

というふうに、おそらく別段感情的になることもなく、ふつうに気軽に読み流せたと思います。

でも、今の文章で妙に感情がざわついたり、責められているように感じた人……つまり

「なんだこの記事は、私をディスってるのか!」

と感じた人ほど、注意が必要です。

いずれにしろ、

① 相手のため

を想っても、相手がそれをどう受け取るかは相手次第です。

自分のために他人をディスる人

さて次に、いつも

② 専ら自分自身のために

他人をディスる人というのは、もちろん自分自身にとってそれが必要であるからディスっています

ディスらずにはいられないのです。

もちろん悪意のない場合がほとんどでしょう。いわゆる近所の噂が好きなおばさんみたいなものです。

また、これは身近な他者に対してだけとは限りません。

たとえば、有名人のゴシップネタが大好きな人。それも、どちらかというと「離婚」だとか「破産」だとか「逮捕された」とか、あるいは事件を起こして「引退」せざるを得なくなったとか……そういうネタについて嬉々として語る人。

あるいは、テレビなどで最近注目され始めた俳優さんや芸人さん、または番組内で取り上げられた人々とかお店とか作品とかを見て、いちいち

「あんなのは、たいしたことない」

とか

「どうせ一発屋だよ……すぐに消えるよ」

とか、ディスらないと気が済まないタイプの人。

何の根拠となる情報があってそんな評価が出てくるのかと、不思議に思うくらい、変な確信じみた口調で周囲を諭すよう語る人……たまにいますけど、コワいですから(笑)

まあ、根拠となる情報をあらゆるメディアからかき集めて、その有名人がいかにダメな、悪いやつなのかをとうとうと論理立てて話す人もコワいですけど(笑)

有名人とは言え、自分にまったく関係ない人のことをよくそこまで詳しくチェックしたり考えたりできるもんだなあ……。

親切か!

「もう、そういう仕事に就いたほうがいいよ」

とディスりたい気持ちでいっぱいです私は。

他人をディスる根本的な理由

で、どうしてそういうのが習慣みたいになっているかというと、その人はなぜ、それを必要とするのかというと、最も根本的なことを言うと

「それは、私は正しいのだということを、自分自身に言い聞かせるため」

です。

人間は、過去に見たこと聞いたこと、集積した知識や経験などをすべて自分なりに解釈し、何らかの定義付けをした上で記憶の中にしまい込んでいます。

ふつうこれを「概念」と呼びますが、それら無数の概念を、それぞれが矛盾したり競合したりしないように調整を施しながら、全体をひとつの「かたまり」として整合性のある状態に保っています。

私はこのことを自分で勝手に

「概念系」

と呼んでいますが、ふつうには「価値観」とか「世界観」とかに近いです。あるいは、人はふつうその全体が「私の考え方」だとか、もっと言えばそれこそ「私自身」であるというふうに認識しています。

ところが、現実にはそれと整合しない、少なくとも自分にとってはそのままでは受け入れがたいことが起きたり、他人がそんな行動をしたりします。

身近な他人のあり得ない行動や、受け入れがたい考えというのもそのひとつです。

あるいは、テレビに出てくる芸能人の日常生活の姿とか?

自分の常識では絶対できないと思うような実績を出した人や、優れた成果を出して認められた人や、高い人格を持った人や、努力している人や、前向きな人や、お金持ち、幸せそうな人々……。

そういうものは、ある人の概念系、すなわちその世界観、価値観に照らせば

「解釈不可能な事実」

と見えます。

要するに人は、何か新しい知識や情報、経験などが起こった時には、原則として、すでに自分が保っているその「概念系」と整合性を持ったものでなければ受け入れがたいわけです

でないと全体の整合性が崩れてしまうから。

すでにある概念系を、新しい情報が届いたからと言ってその都度全部組み直すなどと言うことは非常に厄介で大変な作業です。

だったら、その受け入れ難い情報のほうを無理やりにでも今ある概念系に整合するように解釈し、常にそれを補強するほうが楽なのです。

私が思うに、他人の(自分にとって)意味の分からない行動や、あるいは、自分が現実として認識している範囲を超えるような出来事、それを実際にやったという人物などに出会ってしまった場合には、

「とりあえず、その人をディスっておく」

というのは、最も手早く、楽にその事実を「自分の概念系」の中に取り入れるための有力な方法のひとつなのです。

認めがたい事実や、出来事や、人物などに遭遇したら、それをそのままストレートに解釈しては自分の価値観、世界観と整合しない。

なので、その人は相手をディスっている最中、一生懸命それが自分の概念系に合うように解釈し直したり、その解釈をさらに補強するために何度も反芻したりしているわけです。

だから、ディスると言っても、ある場合には非常に感情的になって、言葉の限りを尽くして批判する、というような場合も時にはありますが、それは実はあまり多く見られません。

どちらかというと、私たちが日常よく目にする「ディスり」とは単なる噂話みたいな感じや、ただ友達や周囲の人とふつうに意見を交わしているだけのような感じに見えます。

他人をディスる人にとって、もしその話を聞いて周りの人がその人の意見や解釈に同調してくれたら、もちろんそれは嬉しいです。

それは自分が過去形成してきた概念系が正しいということに賛同してくれているのだから。

でも、もしその場で反論されたり、別の見方を挙げられたりしても別にあまり気にしないかもしれません。だって、基本的にはあくまで自分の中で整合性が保てればそれでいいんですから。

だれかをディスっている人に、後から聞いてみると

「いや、ディスってないよ~」
「え? 別にディスるつもりなんてぜんぜんなかったよ?」

と言うこともよくあるでしょう。

それは、多くの場合ウソではありません。

本人はいわば自分の概念系と話し合っているのであって、実は今ディスっている対象となっている相手のことなんてほとんど関心がないからです

自分の長所短所がすっきり分かる考え方

面接

自分の長所短所が分からない。
自分には長所なんてない。

堂々と他人に説明できる「自分の強み」がない。

……という悩みを持っている人は多いでしょう。

私は、小学生の頃

「自分の長所」

について作文を書けと言われて、大変苦労した記憶があります。

もしかすると、みなさんもそうだったのではないでしょうか?

しかし、就職や転職、または学生時代のアルバイトの面接などでもそうですが、どうしても自分の長所短所を自己分析したり、他人に話したりしなければならない機会が出てきます。

ここでは、面接のときに自分の長所、短所をどのように表現したらよいか? ……というような技術的なことは書きません。

ただ、

「多くの人が、自分の長所短所を明確に自覚できないのはなぜか?」
「ではどうすれば自分の長所、短所を明確に判断することができるか?」

について、その基本的な考え方を書いておこうと思います。

他人と比較すると分からなくなる?

「自分の長所」という作文を書けと言われたとき、私は子供心にこう思いました。

「自分には、取り立てて自慢できるほど抜きん出た長所などない」

……と。

確かに私は内心では、自分でも(周囲の友達よりは)比較的勉強はできるほうだ……とか思っていました。

特に、国語についてはいつも先生に褒められるので、自分ではかなり優秀なのだと自負していたと思います。

でも……それはあくまで周囲の友達との比較レベル。

別に、全国1位とかではない。

あるいは、仮に全国で上位だったとしても……所詮小学生のレベル。

あるいは、私は小学校の頃はけっこう「ひょうきん者」で、おしゃべりが止まらないタイプの子供でしたから、たとえば

「人前で自分の意見を言う」

とか、

「面白いことをして、みんなを笑わせる」

とか、そういう面では少し自信があったと思います。

でも、それは自分が思っているだけのこと。

あるいは、確かにクラスの友達や、身近な人の中ではそう思われているかもしれないけれど……それが、実際に世の中でどの程度のレベルなのか、そんなことは分からない

というより、そんなこと考えたこともない。

……だとすると、自分が胸を張って

「これこそ自分の長所だ!」

と言えるようなことって、ほとんどないような感覚を持ちました。

むしろ、自分の長所って言われて、周りの友達はいったい何と書くのだろうと、近くの席の子の様子をきょろきょろ見回していました。

後ろの女の子が、すました顔でスラスラ作文を書いている様子を見て(何を書いているかまでは見えませんでしたが)

「こいつ、自分で自分の長所なんて……よくスラスラ書けるよな」

と、少し嘲笑混じりに見ていました。

そもそも私は

「だれもが認めるような、明確に平均をはるかに超えたような能力や特技」

でなければ長所とは呼べないんじゃないか……というように思い込んでいたのです。

むしろ、周囲の人から見て、または、実際に他人と比較して、別にそれほどでもないようなことを、臆面もなく自分の長所だと書いてしまうのは、とても恥ずかしいことなのではないか?

……そんなふうに感じて、長い時間何も書けずにいたのです。

謙虚さと凡庸さ、それに客観性?

子供時代だけでなく、私はけっこう大人になっても、本音ではこんなふうに感じていたように思います。

「そもそも凡人に取り立てて長所なんて、あるわけないだろ?」

みたいな。

あるいは、みんなが就職活動なんかを始める時期になると、それなりに自分の適性や、強み弱みの分析などをする……そんな時も

「自分を売り込むために、長所だとか強みだとか……なんだかなあ」

みたいな。

このように、自分の長所が見つからない大きな理由のひとつは、他人と比べてしまうからです

あるいは、他人から見ても明らかに長所だと認められるようなものしか、長所とは呼べないというふうに思い込んでいることです。

すると、自分の長所というのはほとんど挙げることができなくなってしまいます。

長所短所は反転する

次に、自分の性格や行動の傾向などがある程度自覚できているとして、でも、それが

「ある場合には長所ともなり得るし、他の場合には短所ともなり得る」

と考えてしまうと、何をもって長所短所と言うのかが分からなくなってしまいますよね?

「神経質」と言えば短所でも、「几帳面」と言えば長所だし。
「心配性」と言えば短所でも、「思慮深い」と言えば長所とも言える。

「話下手」は短所、けれどそういう人はたいてい「聞き上手」
「社交的でない」のは短所に見えるが「特定の人と深く付き合う」傾向があります。これは長所とも言える。

「マイペース」は長所か? 短所か?

……歳を取れば取るほど、人間の性格や個性というのが、どれも単純に長所短所と割り切れるものではないことが分かってくる。

しかしこれでは、自分で何が長所で、何が短所なのかをはっきり決めることができません。

確かに、他人に言うときには自分に都合が良いように言えばいい。あるいは、当たり障りない言い方をすればいい。

でもそれは一種の処世術でしかなくて、自分が本音で納得できるかどうか……という意味では、かなり頼りないですよね。

あなたの「目的」に照らして考えれば、すっきりする

さて、ではどう考えたら良いか。

私は、

「あなたがこれから何をやろうとしているのか?」

を先に明確にすることが大切だと考えます。

長所短所、あるいは強み弱みというのは、もちろん状況によって変わってくるものですし、人それぞれの見方によってもさまざまに捉えることができます。

というか、一般論として見る限り、そういうものでしかあり得ないわけです。

しかし、たとえば、あなたがこれから何か具体的な行動をしなければならないとしますよね?

あるいは、何か特に自分が設定した「目標」に向かって、それを達成したいといった状況だったとします。

そして、その手段、方法、具体的に何をどうしたらそれが可能なのかということが、すでに見えているとします。

するとどうでしょう。

もしそれを基準に考えるならば、

今のあなたにとっての長所とは、

「それを行うために使えること」

のことです。

あなたの強みとは、そこでは

「それを行うのに利用できるあなたの能力、資質」

のことです。

逆に、今のあなたにとっての、あなたの短所とは

「それを行うにあたって不足している部分」

のことでしょう。

あなたの弱みは

「それを行う際に、他の何かによって補わなければならない部分」

のことです。

たとえば、あなたが将来大きな成功を夢見ているとします。

すると、あなたが成功を収めることを目的とした場合、長所というのは

「成功する過程で役に立つと思われる自分の能力や個性」

のことを指すのであり、短所とは

「あなたが成功する過程で障害となり得る自分の傾向」

のことを指すわけです。

目的意識を持つ意味(目標設定との違い)

就職や転職の際も、同様に考えることができます。

面接で問われるあなたの長所というのは、端的に言って

「あなたがここで仕事をする場合に、今持っているものの中でそのまま使えそうなものは、何ですか?」

と問われているのに等しい。

短所とは、はっきり言えば

「あなたがウチの会社で働くときに、ネックになりそうなことは何? そして、あなたはそれをどうやってカバーしようと思ってるの?」

と聞かれているわけです。

「嫌な人」に振り回されない生き方

前の記事では「嫌な人」「苦手なタイプの人」に対処する方法を書いたのですが、これらの方法は一般的に有効ではあるものの、あくまで相手に合わせた受け身の方法論とも言えます。

嫌いな人に対処する9つの方法

でも本来を言えば、そもそも嫌な人に振り回されたくないものです。

というか……そもそも嫌な人なんてあなたの周りからいなくなってくれたらどんなに良いでしょう。

よって、今度は

「嫌な人に振り回されない自分になる」

という観点で考えてみましょう。

嫌な人より→自分に目を向けよう

「なんて嫌な奴だ」
「あんな嫌な人と、どう接したらいいの?」

と、多くの場合その相手を避けるとか、やり過ごそうとか、場合によっては無視したり仲間外れにしたりと……。

それらの対処法は、基本的に視線がその相手に向かっていますよね?

でも、嫌いな人に対処する……と言っても

「嫌いだけど、でも良い人間関係を築きたい。それには、どうしたら良いのか?」

という問題意識を持っている人もいるでしょう。そうなると、前述の対処法だけではあまり有効ではありません。

もちろん、同じ職場で働く同僚なら嫌な人でも協力的な関係を維持しなければならないし、なるべくならうまく付き合いたい。

自分の上司だったりしたら余計に重要ですよね?

また取引先の担当者、顧客の中にも苦手なタイプは必ずいます。

だからこそ、相手がどうであろうと、自分自身がなるべく幅広いタイプの人と付き合えるような「許容量」を持つことが重要になってきます

ストライクゾーンを広げるというか。

そこで一度、自分自身のほうに目線を戻して考えてみましょう

すると、もちろん一般にもよく言われるように、

「相手の良い部分を見つける」
「避けないで、むしろ自分から積極的に近付く」
「くよくよ考えない。いつも笑顔でポジティブに」

といった心構えを持つことは非常に有効です。

(けど……そんなことはあなたもたぶん分かってると思うので、今回は、それ以外の方法を考えましょう。)

嫌な人に振り回されなくなる方法

となると私がすぐに思い付くのは、単純に言ってまず

① 人間の心理の動きに詳しくなる

ことを考えるべき、ということです。

人間の行動や、性格形成の「背景」を考える習慣を持つことが非常に有効です。

それには、まず単純に言って多くの人間とある程度の親密さを持って接する経験を増やすこと、また、本を読むことです。

もちろん心理学や社会学に関連する実用書も有効ですが、人間の心理描写の多い小説や文学作品も良いです

また、たとえば映画やドラマなどでもシュミレーションは可能なのですが、その場合には言葉として直接的に心理描写されるわけではなくて、全部が映像や役者さんの台詞によって示されます。

すると、私たちは特に意識しない限り、そこに登場するキャラクターの性格とか、選択する行動についても

「自分の常識や、感情の傾向に沿って」

推察するだけになってしまいがちです。

しかし、当然ですがそれは「唯一の解釈」ではありませんよね?

だから、自分が直感的に浮かべた理由付けとか、人の心理とかについて

「これとはまったく別の見方、解釈ができないだろうか?」

と考えてみることが有効です。友達と話し合ったりしても意外な感じ方の違いを知ることができたりします。

ちなみに、最近の映画やドラマ、アニメや漫画もそうですが、最初は悪役だと思っていた人が実はすごく善人だったり(あるいはその逆)、または、敵対しているどちらの側にも感情移入すべき背景があって、単純に善玉と悪玉という図式では理解できないような作品が多いですよね?

言ってしまえば当たり前ですが……世の中には、自分とはまったく別の価値観や、境遇や、背景を持った人々が存在します。それらを複眼的に予測、推察する力があると、結果的に

「嫌うべき人のタイプ」

というのが消去法的に少なくなっていきます。

するとその分、別に避けたり、変に相手に合わせたりする必要性そのものがなくなっていくのです。

② 嫌いな人より上の立場に立つ

次に、これは身もふたもない言い方かもしれませんが……もし特定の嫌いな人がいるとして、

「自分のほうがその人より圧倒的に立場が上」

だったら、けっこうどうにでも対応できますし、そもそも好きか嫌いかとか、そういう視点で相手を見ることすらなかったかもしれません

ところが、特にその嫌な相手が直属の上司や、会社の偉い人だったり、先生とか、自分を指導してくれる立場の人だったり……。

つまり、嫌いなんだけれどもその相手に依存せざるを得ない状態だったりするからこそ……相手の嫌な部分がより増幅されて映ります。

さらに嫌なのは、それに耐えなければならない自分自身が許せなくなることです。にもストレスが蓄積され、自信を失ったり自己卑下したり、自分を責める気持ちが出てきたりと、ダメージが大きくなってしまいます。

人が特定の他人を「嫌いだ」と感じる理由というのは、相手の特性や行動パターンそのものよりも、実は相手との立場の違いや指示命令系統のような関係の構造的な問題が大きいです。

ですから、嫌いな人とうまく付き合うには、少なくともその相手より自分のほうが立場が上になれば良い。これは理屈で言えば非常に分かりやすい単純な解決方法と言えます。

ただし……もちろん分かります。

「それができれば苦労はない」

ですよね?

もちろん、会社の中で嫌いな課長さんをいきなり追い抜いて、あなたがすぐに部長に慣れるかというと、もちろんそんなことはあまり想定できないかもしれません。

ただ、もう少し長期的な視点に立って、考慮すべきことはあります。

仕事の進め方を見直して、相手との接触度合いや連携のしかたを変更できないか?

自分のスキルを向上することで、少しづつ関係のしかたを変化させることはできないだろうか?

「ECRS(イクルス)」を個人レベルの改善にどう当てはめるか

短期的には難しいとしても、少なくとも、

「その嫌いな相手にどう対処するか?」

ということに日々頭を悩ませているくらいだったら

「今より少しでも自分が成長して、相手に対する依存度を下げる方法はないか?」

に取り組むことに時間を使ったほうが、自分にとって有意義だと思いませんか?

③ 自分の周りに「好きな人」を増やす

今度は、自分の主観的な感じ方を変化させることができないかと考えてみると、仮に、その特定の相手との関係自体はまったく変えられないとしても、

「あなた自身を取り巻く人間関係の全体像」

が変化すれば、その中にあって嫌な人との関係の重要度や、心に占める割合は違ってくると考えられます。

私が特におすすめしたいのは、いったん、嫌いな人のことは放っておいて

「自分の周囲に、好ましい人物や、好感の持てる相手を増やしていく」

ことに力を注いでみることです。

④ 嫌いな人と関わる必要性をなくす

さて、長期的に見れば、そもそも

「嫌な人とは付き合わない」

ときっぱり言えたら……理想ですよね?

たとえば、会社にしろ取引先にしろ、お客様にしろ、相手に依存せざるを得ない状態自体を解消していけば、言い換えると

「こちらが選択できる立場になればなるほど」

自分を取り巻く人間関係を主体的に選択できるようになるはずです。

もちろん、それを実現するのはそれなりにハードルが高いですが。

しかし、不可能というわけでもありません。

性急に判断すべきことではありませんが、視野に入れておくのも悪くないでしょう?

何より、そのような大きな目標や希望に目線を移すことで、今悩んでいることがあまり気にならなくなるかも。

自立とは、戦略的依存である

⑤ 目的意識のフェーズを上げる

もちろん、会社に嫌な人がいるから、独立、起業したい……とか(別にそれも悪い考えとは思いませんが)短絡的に決める必要はありません。

どんな形にせよ、あなた自身の問題意識や、目的意識と言ったものを今より一段、二段と上げることに集中するならば、それに伴って

「今目の前にいる嫌な人」

に対する感じ方も大きく変わります。

「嫌な人がいつも気になって仕方がない」
「あの人のせいで私はいつもストレスを感じる」

根本的なことを言えば、あなたは今、その嫌な相手と同じ土俵にいるからその人のことが嫌いなのではないでしょうか?

人生の意味は変わる、だから自己啓発にはタイミングがある

嫌いな人に対処する9つの方法

この記事では、嫌いな人に対する対処法をお伝えしますが、嫌いな人に対処すると言っても、たとえば

「たまたま参加した飲み会や、その場限りのお付き合いの場において、嫌な感じの、あなたが嫌いなタイプ人が近付いてきた時に、それと分からないようにうまく切り抜けるにはどんな態度を取ったらよいのだろう?」

……という場合もありますし、そうではなく、その嫌いな人というのが職場の直属の上司だったり、取引先の担当者や顧客であったりして、

「嫌でも何とかして良い人間関係を構築しなければならないが、どう対処するのが最善か?」

……という悩みもあり得ますよね?

そこで、まずここでは前者について挙げたいと思います。

嫌いなタイプの人をなるべく回避する方法

まず、嫌いな人と相対した時にその場をどう乗り切るか、という点から考えていきます。

もちろん学校や職場にいる時にもそういう場面は起こりますが、他には、たとえば飲み会やパーティーに出席した際にたまたま近付いてくる人があなたの嫌いなタイプの人だったりすることもあります。

大まかに言うと、たいていそういう人というのは(少なくともあなたから見ると)

「公衆道徳を守らない人」
「常識をわきまえないタイプの人」
「失礼な人」

または

「空気が読めない人」
「馴れ馴れしすぎる人」
「あなたをぞんざいに扱う人」
「あなたを軽視する人」

などですよね?

さて、ここであなたがまず選択しなければならないことは、その嫌な相手に対して、

「あなたはその人を撃退したいのか、それとも回避したいのか?」

という点です。

相手の非を指摘して、自覚させ、場合によってはきちんとした謝罪や反省を求める。

あるいは、相手に思い知らせたやりたい。

少し違う側面から言うと、あなたはその人の悪い点を直してあげたいと思っているのでしょうか?

それとも、そこにはタッチせず、単に自分が不利益を被ったり不愉快な思いをしたりすることがないようになれば良いのか?

……ということです。

ここがあいまいだと状況依存的になってしまい予期せぬ大ごとになったりする危険性もあります。

つまり、嫌いな人への対処法として、私がまず挙げたいのは

① 相手と関係する自分の立ち位置をはっきり定める

ということ。これが大切です。

これは当然その相手によって都度変わります。人間関係において悩みがちな人の特徴のひとつは、どんな相手であろうと分け隔てせず、均しく公平に接しなければならない……というように思い込んでいることです。

さて、特に相手が「嫌いなタイプ」「苦手なタイプ」だと感じると、人によってはなるべく接触を断ちたいと感じます。

嫌いは人とは話したくないに決まってます。ですから口数がいつもより少なくなってしまったり、興味なさげに黙って頷くだけになってしまったりするのは自然なことです。

たとえばこういう態度をあえて(しかし、あくまでさりげなく)取ることは、相手が善意である場合には効果があります。つまり、相手が嫌がっているという認識がなく、悪気がなくやってしまっている場合には、単にさりげなく

② こちらが困っている、嫌がっているということを、仕草や態度で示す

だけで、それを察して修正してくれる可能性は高いです。

私たちはふつう日常的にはあまり意識せずともお互いが察し合い、場の空気を読み合うことで人間関係を調整しています。

ただし、これは相手が自発的に修正することを期待する方法ですから、相手が気にしなければ効果はありません。

だいたいが、嫌われやすい人というのはいわゆる「察しが悪い」人です。

また、中にはむしろ相手が困った表情や嫌がる素振りを示すと、喜んで余計調子に乗るようなタイプの人も少なくありません。

よく考えると……先ほど言った

② こちらが困っている、嫌がっているということを、仕草や態度で示す

って、それだけで、それを察して修正してくれる人というのは実際のところ、そんなに嫌な人でもないですよね?

つまり、たいていの人が思っている「嫌いな人」「嫌な奴」というのは、そもそもふつうの対処では通じないような人だから困っているわけです

ここで、ひとつ大原則です。

「嫌いな人というのは、避けると余計に近付いてくる」

という性質があるのを覚えておきましょう。

つまり、単に避けるだけではうまくいかない場合も多いということです。

もちろん基本的に避けたいわけですが、避けたいからこそ一時的にこっちからアプローチする必要が生じるわけです。

そして、そのアプローチの方法ですが、

そういう相手に対処するには、できることならば

③ あなたがその場の雰囲気や会話のリーダーシップを取ってしまう

のがうまいやり方です。その嫌な相手に会話のイニシアティブを奪われないように誘導するのです。

社交的なタイプの人や、話し上手な人を観察していると気が付くと思いますが、そういう人というのは、たとえ相手が職務上は上司だったり、目上の人だったとしても(もちろん言葉遣いや礼儀などは欠かさないままで)会話の主導権を取ったり、話の流れをコントロールしたりできますよね?

気分は乗らないかもしれませんが……嫌いなタイプの相手に対してこそこれは有効な対処法になります。

しかし、あなたはもしかすると、そういうことが苦手かもしれません。どうしても聞き手、受け手に回りやすい性格だったり、初対面の人と話したりすることにストレスを感じやすいのかもしれません。

すると、内心では苦々しい思いをしつつも、無理に相手に合わせて会話したり、ずっと黙ってニコニコしていなければなりません……これはけっこう苦痛ですね。

こういう時には、少なくとも内面で、つまり心理的に相手の風上に立つようにしましょう。と言っても、内心で相手を蔑んだり憎んだりするのは良策ではありません。

よく言われるのは、

④ 嫌な相手の心理分析をしてみる

という方法です。

相手の無意識的な欲求や、潜在的なフラストレーションの原因は何なのかを想像して仮説を立てます。

まるで心理学の権威か、そうでなければ小学生を相手にする担任の先生のような気持で。

それに応じて実践的な対処ができれば最善ですが、そうでなくても単に一歩引いて分析してみるだけでも気分的にはかなり楽になり、余裕を持てることが分かるでしょう。

それに、直接言わなくても、あなたが内心でそう思っているだけで多少は雰囲気や言動から気持ちは洩れますから、相手も、次第にあなたに対する態度を変えてくる可能性はあります。

もし、これらの方法でどうにもうまくいかない時には、

⑤ とりあえずその場を中座する

という方法もあります。可能な状況ならばさっさと帰ってしまえばいいのです。

あるいは、どうしてもその場を動けない状況、たとえば電車の中だったり、同じイベントなどに参加している最中だったり……それでも、いったん会話の流れを切るために席を立ちます。

要はその場の雰囲気や会話の流れを断ち切ってしまえばいいわけですから、電話でも手洗いでも何でもいいので、何かしらの理由を付けて一度その場を立ち去ってしまえばいいのです。

流れがつかめなかったりして、うまくいかなかった場合でも、こうしていったん仕切り直して冷静になれば、今度はうまくいく可能性が高くなります。

あるいは、これが少しコツみたいなことですが、自分の席などに戻った時には

「まるでそれまでの流れを忘れてしまったかのようにふるまっても構いません」

まるで別人格になったかのように、あるいは、その瞬間が相手と初対面であるかのようにです。

遠慮がちな人や、気の小さい人はこれがなかなかできません。

でも、安心してください。

ほとんどの場合……それは取り越し苦労です。

基本的には、そのような状況で相手がどう感じるか、そんなあなたの行動をどう解釈するかといったことに気を使う必要はぜんぜんありません。

そもそも、嫌な人の多くはまったく悪意なく、ただ気が付かずにやっている場合が多いです。なので、あなたがどうしてそのような行動を取るのか理解できません。

相手の行動が理解できない時、多くの人間はどう解釈するかというと……相手はおそらくまったく見当はずれな別の理由を思い浮かべて勝手に納得するだけですから。

「あれ、もう話し終わったと思ってるのかな……」

とか

「雑談ばっかりしてる場合じゃないもんな」

とか。

あるいは、あなたが何かを気にして、わざと自分から離れたのだと察しても、それであなたを責める権利は相手にはありません。

と言うか……それで実際何か言ってくる人はほとんどいません。

いずれにしろ勝手に思わせておけばいいです。

嫌いな人を撃退する方法

さて、上記の対処法は多くの場合有効ですが……中にはこんな対応策などかんたんに突破してくる筋金入りの「嫌な奴」も世の中には大勢います。

なので、上記のようないわゆる回避策、基本的に波風立てず、受けに回るやり方ですね……これだけでは対応しきれない場合が出てきます。

そこで大切なことは、

⑥ 越えさせてはならない一線をあらかじめしっかり考えておく

ことです。

つまり、このラインを超えたら(これはあなたの基準でけっこうです)対応方法を変える、という具体的な一線をふだんから考えておくこと。

「これ以上やったら対応方法を変えるぞ」

という脳内シュミレーションをあらかじめしておくことです。

【許せない人と、許せないこと】

これは別に特定の相手を想定しなくても、自分の価値観、ポリシーとして明確にしておけばいいです。

ただし、もしあなたの頭の中で、今すでに特定の「嫌いな人」が思い浮かんでいる場合……この場合はですね、よくありがちなのが

「この前は、思わずあいまいな態度を取ってしまったけど……今度同じことをしたら、決して相手のペースにならないように……」

というふうに考えがちなことです。

これ、現実の場面ではなかなか実行できないと思います

だってすでに一回許しちゃってるから。

相手から見ても、自分で考えても、整合性がないので自信を持って行動しにくいのです。

ですから、

「今すでに受けている迷惑、嫌なこと」

……これはいったん甘んじて受け止めるという知恵も必要です。

しかし、それ以上の、より迷惑な行為、より悪質だと思う、あなたにとって許せないこと……そこにあなたの一線を決め、しっかり胸に刻んでおきましょう。

いわば、防衛ラインを下げるということです。

外堀はすでに侵入されているので、いったん兵を引いて内堀を死守するしかない……みたいな感覚です。

話を戻しますけど、なんとかその場をうまく取り繕おうとあなたが配慮しているにもかかわらず相手が頭に乗って、越えてはならない一線を越えてきてしまった場合。

または、最初から相手を懲らしめたいとか、はっきり意思を伝えて撃退したいという意図がある場合。

こうなると当然あなたも考え方を切り替えなければなりません。

この前提だと、方法論としては

⑦ 相手を物理的に排除する

ということになります。

物理的な排除とは、

「上位者(上司や先生など)にチクる」
「無視する」
「いっしょに行動しない」
「グループから外す」
「仲間外れにする」

といった方法です。

はっきり言って……いわゆる「いじめ」ってやつに近いですね。

私は別にいじめ肯定論者ではありません。

でもですね……嫌いな奴との接し方で悩むということは、その時点ですでに相手のほうがある意味であなたをいじめてるのです

正当防衛というか、これは対抗措置です。

仮に、手法としては同じでも目的が違います。

当然、これは上で言ったような通常の対処法が効かない相手だからです。

あるいは、例外的に自分でも本来良くないことだと分かっているのに、あえて迷惑な行為や、配慮に欠けた言動をしてくる人もいますよね?

そういう人には、こういう実力行使が有効なことがままあります。

それでも気が進みませんか?

悪に悪で対抗するのは愚かなことだと?

では、

⑧ 相手の非をはっきり伝える

ことにしましょう。

あなたは相手のどんな行動で困っているか。
どんな迷惑を被っているのか。
どんな点が嫌いなのか。

……正々堂々、とっくり説教してあげましょう。

相手が聞く耳を持たないなら、聞かざるを得ないように「ブチ切れて」もいいです。

殴っちゃダメですけど。

しかしひとつ注意点というか、ここでもコツみたいなものがあります。

⑦ 相手を物理的に排除する
⑧ 相手の非をはっきり伝える

このような手段を取るべき相手というのは、たいてい善意で「嫌な感じ」のことをしてくるというようなタイプの人ではなくて、むしろ「悪意(故意)」にそういうことをしている人です。

完全にわざとじゃないとしても、そういう人は、そのようにして今までも無理を通して道理を引っ込めさせてきたのです

相手がそのようなタイプだからこそ、この手の手法を用いることになるわけですが……しかし、そういう人というのは逆にあなたの態度や言葉尻を捕まえて、あなたのほうが悪いというような展開に持って行こうとする可能性がけっこうあります。

本来の正論を言えば自分のほうが悪いということをある程度分かっているから、逃げ道を準備しておくくらいのワザは持っているのです。

今までもそうしてきたから、どちらかと言えば悪いことだとしても、自分のそんな行為や態度はこれまでも許されてきたんだから、これからも許されるという妙な確信を持っているのです。

そういう人の場合は少し注意が必要です。

まるで有罪の被告人を無理やり無罪に持ち込む悪徳弁護士のような狡猾さを兼ね備えているわけです。

多くの人は、嫌なタイプの人に相対すると、真っ先にその相手がどう感じるか、どう反応するか……という面に神経を奪われます。これはもちろん人間の当たり前の反応なのですが、実はそれを考えてもほとんど効果はありません。それどころか逆に相手の術中にハマります。

そこで、こういう場面で大事なのは、その相手そのものでなく、周囲であなたと相手のやりとりを見ている第三者です。つまり、周りにいる直接的には関係ない人。

これらの人を、こちらの味方に付けるということが肝要です。

つまり

⑨ 自分の側を多数派にする

という一種の策略と言うか、権謀術数が有効です。

相手が悪徳弁護士のようなタイプなら、それに打ち勝つには先に陪審員をこちら側に引き寄せておくことです。周囲の多くの人を味方に付ければ「多勢に無勢」です。

とはいえ、状況が推移するとあなた自身の感情も変化していることがあります。それによって、あなた自身が嫌な奴にならないように注意してくださいね

一番最初に言ったポイントを思い出してください。

① 相手と関係する自分の立ち位置をはっきり定める

これは大原則です。

【「嫌いな人」との上手な付き合い方】

お金の歴史で、ちょっと違うと思うこと

お金(貨幣)の歴史というと、社会科の教科書などではふつう

「最初は物々交換であったけれども、物々交換というのは何かと不便なので、貨幣を使うようになった」

ことがお金の起源であると説明されます。

何が不便なのかというと、たとえば

「なま物や食品だと、腐りやすく保管がきかない」
「現物をいちいち移動するのが面倒」
「手持ち量の差などで、都合よく交換できない場合がある」

……といった点が挙げられます。

ちょっと変に思う点

まあ、そうなのかもしれません。

私は別にそれを詳しく研究しているわけではないし……そんな大昔のこと、実際のところは分かりません。

しかし、上の説明を聞いて、私が前からちょっとだけ違和感のある部分は、

① あげればいいじゃん!

まず、太古とは言え、人間って基本的には「群れ」で暮らしていたと思うんですよ。

たぶん、たいてい血縁関係にある複数の家族が集まったような、ごく親しい集団だったはずです。

すると、少なくともその群れの内部では、別に「物々交換」っていう感覚ではなくて、各自がそれなりの役割を持っていて、食べ物でも何でも、ほとんど共有されていたと思うんですよね。


「たとえば、Aさんは肉をたくさん持っています。それで、その一部を魚と交換したいと思い、漁の得意なBさんのところに行きました。

しかし、今日は魚があまり獲れなかったので物々交換できません。

そこで、魚の代わりに貝殻をBさんから受け取りました。

……これが貨幣の始まりです」


……ホントかいなと。

ここで例として出てくるAさん、Bさんって……どんだけ個人行動だよと。孤独か!

私のイメージ……


「肉をたくさん持っているAさん。

『今日は天候が悪かったから、Bさんはあまり魚が取れなかっただろう』
『そうね、あなた(妻)』
『うちの肉を少し持ってってやったらどうだろう』
『そうね、それがいいわ』

『Bさん。これもし良かったら、今日の食事の足しにしてくれ』
『やあ、ありがとう。いつも悪いね、助かるよ』
『何言ってるんだ……お互い様じゃないか。はっはっは』


……ってなるんじゃないかと。

だから、

「なま物や食品だと、腐りやすく保管がきかない」

という説は却下します。(勝手に)

とは言え……群れがどんどん大きくなってきたり、他の集落に住む別の群れと接触するようになってくれば、必ずしもこのような家族的な関係だけではなくなってくるかもしれません。

いわゆる「赤の他人」と取引するという機会が出てくるようになります。

しかし……たぶん、正式な取引は基本的に群れ単位で行うでしょう。互いに警戒心がありますし、群れ内部の統制や掟みたいなものもあるかもしれません。

だから、それぞれの群れの代表者が話し合って、取引する。

② 個人どうしが自由に交換する機会は少ない

と言えます。そして、そうなるとやはり基本的に物々交換だったはずです

だって、このような形で未知の人々と物品を交換するのに「信用」なんてあり得ないからです。

この前提だと、そもそも貨幣を持ち込む理由がないのです。

それに、このような機会はそうそう日常的に頻繁にあるわけでもありません。

逆に言うと、そもそも、かさばる物とか重い物は、そういう機会でなければそうそう日常的な交換の対象にならなかったと思います。

すると

「現物をいちいち移動するのが面倒」

だから貨幣を用いるようになったという説はどうなんでしょう?

却下します!(勝手に)

実は、お金の起源って「借用証」だったのではないか?

最後に残った、

「手持ち量の差などで、都合よく交換できない場合がある」

という説ですが……これは、一理あります。

却下しません!

でも、これはたぶん

「肉をたくさん持っているAさん」

の話ではないように思います。

つまり、自分が肉が余ってるから、他の物と交換したいAさん……この人は実は「貨幣」がなくてもそんなに困りません

そうではなくて、実は困っているのは食料や必需品が不足してしまった人たちのほうです

生活に困窮した人々は、もはや差し出すべき物品を持っていません。

じゃあどうするかというと、たぶん懇願するしかないです。

「今はないけど……あの人のケガさえ治ればまた、いくらでも働けますから」
「春になれば、また収穫できますから」
「あの子がもう少し大きくなれば……」

……とか、あくまで想像ですけど、そのように言って今は食べ物なりなんなり分けてもらうしかない。

温情厚い人もいたでしょう。タダでくれます。

しかし、そうでない人々はどうするかというと、

「じゃあ、この石ころに、肉2切れ(絵だけど)を描いておく。春になったら、これを持ってお前の所に行くから、その時には……お前の家も子供も全部もらうからな!」

みたいな(空想……)。

つまりこれは今の言葉で言うと「借用証」あるいは「手形」ということになります。

あと、もう一つ考えられるのは、すごく貴重な品物や、大きな仕事(たとえば家を作ってもらうとか)に対する見返りとして、たとえばそれをAさんが「肉」で御礼したいと思った場合……。

一気に大量の肉を渡すことはできないし、そんなことされても相手だって困るから……

「じゃあ、向こう1年分の肉をあげよう」

というのが良いですね。

これはつまり月賦。ローンですよね。

……と、このように。

お金の起源は「交換の道具」というのは、ちょっと違和感があるのです。

そうじゃなくて、

③ お金の起源、その本質は「負債」だ

と、私はそう言いたいわけです。

「今年の目標は?」「や、別に」

一年の計は元旦にあり、と言いますが、正月に立てた

「今年の目標」

がちゃんと守られた年は何回あったでしょうか?

ここ何年か、私はいわゆる「新年の抱負」「新年の目標」の立てていません。

でも、その代わりに意識して必ずしていることがあります。

いったい、何をしているのでしょうか?

1年スパンの「抱負」は要らない!

もしかすると年齢によって変化するのかもしれませんが……少なくとも私の経験上の肌感覚では、目標とか計画を(個人レベルで)立てて、実行するという作業、作業というかこれは実際には「循環」のようなものなのですが、

「1年=12か月=約52週=365日」

という時間の区切り方は、この循環にとって最適な区切り方ではないような感覚があります

……もちろん、会社など組織全体としての循環、あるいは世間一般の区切り方としては良いのですが、個人が

「目標→計画→実行→結果(検証)」

つまり「PDCAサイクル」を想定する場合には、1年というのは何とも中途半端な期間のように思えてなりません

「帯に短し襷(たすき)に長し」

といった感じです。

とは言え、一方では……別に自らそうしようと意図せずとも、誰でも新年というのは

① 人生の節目を感じ
② いきおい自分の過去や現状を振り返る気持ちになり
③ 新しい事柄や将来の展望や期待を膨らませ
④ 自動的にモチベーションが上がる

という意味では「またとない機会」です。

これをあえてスルーするのはもったいない。この力を活かさない手はありません。

「お正月」という特殊な状況

また、年末年始から、年明け、つまり1月上旬くらいの時期というのは、ある意味では非常に特殊な時期とも言えます。

端的に言うと、この時期というのは、すべての人に均しく「非日常」の状況が許される時期です。

要するに、年間の中で唯一、ほとんど全員が日常的な活動から完全に開放されます。

「いや、俺は年末年始も仕事だよ……ったく」

という人も確かにいるでしょうが。

しかし、おそらくほとんどの企業や機関が通常とは異なる「年末年始仕様」の営業時間、営業スタイルになりますから、
たとえ出勤であっても、 そこですることは通常の業務とは大きく異なることでしょう。

いつもの出勤時間じゃない。
いつもの業務内容じゃない。
いつもの客数じゃない。
そして、関わる人の気分が違う。

だから、直近の目標を再認識し、ダッシュで取り掛かる!

ですから……私は「新年」つまり「正月休み」の期間はですね。

「今年1年の抱負」

とか

「新年の目標」

とか言って、その時に「何か今までと違ったことを取り入れよう」とするんじゃなくてですね。

むしろ、もともとあった、もっと長期的な展望(たとえば、自分の究極的な目標とか、いつか実現したいこととか)を再認識した上で、

「じゃあ今、とりあえず今すべきこと」

つまり

「直近の計画、行動目標」

を把握し直し(すでに日常から取り組んでいる場合)……。

あるいは、現実的にはまったく何も動き出せていないなあと気が付いたというならば、新たに

「今すぐ始めるべき活動、行動」

を特定して……。

「よし、今年はこれをやるぞー!」

……じゃなくて、お正月休みのうちに、とりあえずそれを開始しておくってことが良いんじゃないかと思っているわけです。

繰り返しますが……この時期というのは、またとない「非日常」期間です。

「非日常的な状態で思いついた夢や抱負や長期目標は……日常に戻れば速攻で忘れます

「日常、やろうと思っていたのにできなかったことを、非日常である今こそ、一気に進めるのです
そして、直近でとりあえず開始した、とりあえず今までより進んだ……という、その成果をそのままあなたの日常に持って帰るのです

私は、ここ何年かはこのようにしています。なので、他の人から

「今年の目標は何ですか?」

とか聞かれるとちょっと困るのですが。(そういう時は「いや、取り立てて別にありません……」とか答えます)

しかし、実効性の面から言うと、こちらのほうが断然高いです。

新春を寿ぎ……ご挨拶に代えさせていただきます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

子供の学力は親御さんが持っているイメージで決まる(と思う)

よく、子供の学力は親の年収や経済力と相関関係があるとか?

母親側の遺伝によるとか?

……いろいろな分析がありますが。

それらもまったく関係なくもないのでしょうが、私は……それよりもっと直接的に影響するものがあると思います。

それは、親が持っている、その子に対する「イメージ」です。

子供

自分で言うのもアレですが……私は子供の頃は自分が頭が良いと思っていました。特に勉強頑張った記憶もないけど、優等生扱いされていたと思います。

(断っておきますが、小学生の頃の話であって、しかも地方の片田舎レベルの話です……)

家で予習復習とか、そんな習慣もありませんでしたけど、 特に苦手教科もなく、基本的に学校で先生の授業を聞いているだけでほとんど理解できたと思います。

しかし、苦手意識はなかったのですが、振り返ってみると、自覚がなかっただけで、実はけっこう、細かく見るとやはり得意な部分と、不得意な部分というのがはっきりしていた……しかしこれは、子供の当時は自分ではなかなか気が付くことができません

子供は与えられたとおりの自己イメージを持つ

つまり、子供が持っている自己イメージというのは、ほとんど何の客観性も基準もないものです。そもそも子供が自分自身の学力とか、あるいは個性や適性とか……そんなものを自分で掴めるはずがない。

そんなこと思ってもいない。

しかし、はっきり言って、まだ自我が調っていない小学生くらいの段階では、友達や学校の先生、親や親戚や近所のおじさん、おばさんなどから植え付けられた

「自己イメージ」

のほうが子供の心を大きく占めています。

子供は親が思っている通りの子供になる

今、お子さんの成績を上げたかったら、親御さんは絶対、お子さんのことを

「この子は頭が良い」

思い込むようにしたほうがいいと思います

特にわざとらしく誉めたりすかしたりする必要はありません。ただ、この子はもう成績優秀、優等生、神童なのだと思い込むことです。

だれだって、そう思っていれば「それなりに、その前提で」その子に接しますよね?

そのつもりで日常から接していれば……その子はたいてい本当に頭が良くなります。成績も必ず伸びます。

別にデータとかないですが、私は自分の経験から絶対そうだと信じてます。

子供をけなすとその通りの子供になる

逆に言うと、自分の子供が「頭が悪い」「勉強できない」とか、そういうふうに親がイメージしていると……その子はかなりの高確率で本当に勉強しなくなります。

あるいは、学校の成績だけではないかもしれません。

「言うことを素直に聞かない子」
「忘れっぽい子」
「おっちょこちょい」
「人見知り」

……こういう、多くの人が持つ自己イメージが、そもそも子供の頃に

「あなたはそういう子」

と周囲の人から与えられたイメージである可能性は極めて高いでしょう。

つまり、学童期くらいまでは、その子の自己イメージは

「親や周りの人がその子に持っているイメージ」

をそのまま受け取っているに過ぎません。

ですから、よく公共の場でも、お子さん連れの方が子供を大声で叱ったり、世話をやいたりしている場面を見ることがありますが、そういうときに、たとえば

「もう! ダメだって言ってるでしょ! どうしてあんたはいつもそうなの?」

とか言ってますけど、それは親御さんが、その子はそういう子だとイメージしているからです……って横から口出ししたい衝動にかられます。

「もう、あんたは本当にダメな子ね」
「もう、ほんっとにバカなんだから……」

などと、がっかりしたように呟けば、その子はそのイメージに合わせようとして、本当にそういう子を演じ、演じているうちに立派にそういう子に育つでしょう。

かわいそうに思います。

同じ注意するにしても叱るにしても、仮にあなたのお子さんが近所で評判の優等生だったら、叱るセリフも態度もまったく違ってくるはずです。

(これは私自身の親などのことを思い出しても、そう思います。別に愛情の差があったりするわけではありませんが、やっぱり私(長男)に対する接し方と、弟や妹に対する接し方には差がありました……これは、単に生まれた順番の問題とかもありますけど、それ以外に、やはり、親自身が持っている「その子のイメージ」が強く反映されていると感じます)

傍から見た印象では、自分のお子さんをきつい言葉でむげに叱ったりしている親御さんは、心の中で

「この子は、このように言われても仕方のない子なのだ」
「どうせこの子は、これくらいしたって平気だ」

……みたいな勝手な基準を作っているのです。

もちろん、自分で修正は可能

とは言え、これはどっちみち、学童期を過ぎる頃くらいまでの話にすぎません。

人間はその後、思春期以降は自分で自我を構築していきます。

そして、自分のことを客観的に見る力も得て、世の中の多くの情報から学んでいくことになります。

はっきり言って、自己イメージとか、もちろん実際の自分の実力というのもいくらでも向上、変化、進化させていくことができます。

それ以前の自己イメージというのは、ざっくり言えば、最初に与えられた「舞台設定」というか、プラットフォームみたいなものに過ぎません。

もし嫌なら上書きすればいいだけのことですし、仮に嫌じゃなくても、それはそれで好ましいものであったとしても、どうせ、いつまでもそれに甘んじていて良いというものでもないのです。