最新の記事
pickup
思考の次元
人間は視聴覚などによって感受した外界の事象を、おそらく最初はなんら関連性や脈絡を持たない「点」として認識するはずです……が、主に言葉による概念化や既存の知識との関連付けがそれとほぼ同時に瞬間的に、無自覚に行われるために、
「点的な認知」
はごく速やかに
「線の思考」
に移行するのだろうと推測します。
よって、前に述べた「点の思考」については、むしろごく意識的に行わなければ難しいのだろうと感じます。
人間の最も自然な思考は線の思考であり、それによって人間は概念と概念を結びつけること……つまり
「抽象的思考」
をごく自然に用いることができます。
そして、今度はおそらく後天的な学習によっ「平面的思考」を覚えます。
それによってより精緻な分析や、正確な判断や、客観性の共有といったより高度な思考形態を持つに至ります。
……今まで話した内容をいったんまとめるとこんな感じです。
立体・空間
そこで話の流れとして次には
「平面」
↓
「立体・空間的なもの」
へとさらに高次化していきたいところなのですが……。
けれども実は
「三次元的な思考」
となるとその実用性はかなり限定されてしまうように思います。
もしかすると人によっては可能なのかもしれない……ただ、おそらく私を含めて多くの人は立体とか空間といったものを
「思考の場」
として扱うということ自体がほとんどイメージできないのではないでしょうか?
もちろん、単に
「立体や空間を頭の中で想起すること」
はさほど難しくありません。
けれど、それをたとえば理論立てとか分析とか……いわゆる思考を進める手段として有効に使う方法と考えた場合、わたしはそれをほとんど想像できません。
せいぜい3つの座標を取ってその各パラメータを立体的に表すというような手法の意味を理解できる程度です。
……ただそれだっておそらく平面的思考の延長にすぎないと思います。単に理屈の上でパラメータをもう一つ追加することで、平面的思考を立体に置き換えただけのように感じるからです。
3次元の特殊性
ところで、「点」「線」「平面」といったもの自体がそもそもバーチャルなものと言えますよね?
すなわちそれらはすべて「概念」です。
何というか……地球上に、実際に
「点(大きさがない)」
「線(幅がない)」
「平面(厚さがない)」
……というよな「物」は存在しませんよね?
それは人間がある意味勝手にそのように把握しているというだけのものです。
ところが……これに対して
「立体」
あるいは
「空間」
というのは、私たちにとってはある意味でのリアリティがあります。
実際に私たちの周囲に存在している「物」はまさにすべてが立体であり、空間だからです。
……もしかすると、これが3次元という概念の特殊性なのかもしれません。それが逆にそれが人間の思考にぴったり来ない理由なのかもしれませんね。単なる想像ですけど。
AmazonPrime(30日間試用あり)なら映画、音楽、Kindle本から対象作品が無料で利用できますよ。
私たちは3次元をどのように把握しているのか
けれども、外界の空間がリアルなものなのか否かにかかわらず……人間が得る
「認識としての立体や空間」
というのに限れば、実はやはりバーチャルでしかあり得ないという話もあります。
それほど専門的なことは知りませんが、ふつうに考えてみても、私たちは空間をそのまま実体として見ているように思っていますが、実際にはたとえば視覚というのは空間を認識するときに
「網膜に映った複数の像を多重に捉えた結果を、脳の中で3次元として置き換えて認識している」
……らしいですね。
要は、眼が2つあってそれぞれが見た「ズレ」を解析して、あらためて立体にするということです。
言うまでもなく、網膜に映った像そのものは立体ではありません。映画のスクリーンと同じでそれ自体は平面的です。
つまり私たちが見ている外界は、実は脳が経験と学習によって再構築したものです。
……おそらく、思考というのも同じような構造を持っていると私はイメージしています。
結果的に三次元的に表示することは可能だとしても、その形成過程はたいてい
「平面的に理解したものをあらためて空間的なものに置き換えて表示する」
ことにすぎないのではないかなと。
……で、これでは空間的な場を思考自体に用いたとは言えない気がするわけです。
おそらく統合することはできる
ただし……これは本論の定義の範疇でいうところの思考に限定した場合の話です。
実際、私たちは空間とか立体というのを体感することもできるしイメージもできます。
同列に扱うことはできないけれども、イメージとかひらめきとか、いわゆる右脳的な発想というようなものを思考の定義に含めれば別です。
ただ、そうなってくるとおそらくそもそも次元によって分けるということ自体が意味を成さないことになり、そもそも概念とか意識とかは無次元的なものであって構造を提示すること自体が難しいという話になってしまうと思いますが。
ただ、おそらく
「総合的思考」
というものを想定する段階ではこれらの議論は再考に値するだろうと思います。
そこではむしろ、いわゆる論理、ロジックだけを思考だと「枠」をはめるように考えるほうがデメリットが多くなってくるという感覚はありますね。