単純に、

「甘えてる人」「甘ったれている人」

を見ると、特に自分に関係ないとしても、何となく嫌悪感を抱きますよね?

逆に、自分はそんなつもりは全然ないとしても

「甘ったれるんじゃない!」
「お前は、甘えてるだけだ!」

とか言われたら、それだけで耐えられないほどショックや怒りを覚えますよね?

自立したい、自立しようという気持ちが強い人ほど、

「甘え」

に対して敏感に反応するのです。

依存という問題を考える時、頭の中だけでいろいろ考えを巡らせていると、ともすると変な方向に偏って思考してしまいます。

前の記事でも触れましたが、依存的であるかどうかは、決して本人が自覚している心理の面だけでは語れないのです

結局、単なる気持ちの問題では済まないのですね。

本人の心理の傾向から見て依存的であるという場合と、客観的な状態として明らかに依存しているという場合と、現実には両方あるような気がします。

よく言われることですが、客観的に見ると依存体質に見える人ほど、自分が何かに依存しているなんてことは夢にも思ってないんです。

だから「依存」を

「内面的なものか?」
「外的な状態のことか?」

というふうに区別しようとすることは難しいように思えます。

じゃあ「依存」ってなんなんだ?

……と、あらためて考えたとき、私の印象だけで一番しっくりくる言葉を選ぶなら

「甘ったれている」

という表現が一番近いと思います。

その、何かに甘ったれている心理、もしくは、本人が自覚していないにもかかわらず発生している現に甘ったれた状態のこと。

この両方が「依存」なのです。

そして、もしそうであれば対義語は「自立」でいいわけですよね?

つまり、自立とは

「甘ったれてないこと」

なのです。

それが物的なものであれ、金銭的なもの、経済的なものであれ、精神的、心理的なものであれ。

繰り返しますが、依存というものを「甘ったれ」だとすれば、たとえば単純な事実として

「親などから仕送りをもらっていること」
「就職して会社に属していること」
「顧客や取引先に支えられていること」

などが、単にその事実をもって即「依存」だとは言えないということになります。

依存は、別に「親」のせいでもなければ「会社」のせいでもないし「顧客や取引先」のせいでもないんです。

つまりそれは対象の種類によってではなく、その個別の対象に関係している自分が、

「甘ったれているかどうか」

が唯一の問題なわけです。

すると、もちろん自然界や、社会制度や、他者一般についても、当然にその必要性に従ってそれらを利用したり、互いに助け合ったりしている……この事実をもって「依存している」というのはおかしいということになります。

たとえば、前に出した例のように

「人間は、その命の維持を水や空気に依存している」

という言い方は(言葉の使い方としては)できるとしても、それは特定の人が水や空気というものに

「甘ったれている」

わけではありません。

何にしろ、それとの関係のしかたや使用のしかたが

「甘ったれているかどうか」

ということが基準となるのだと思います。

ただし、今度はこの

「依存=甘ったれていること」

がどんな場合でも常に悪いのか?

……という点も議論の余地があると思います。

自立とは「甘ったれない依存」である

自立とは依存の反対です。

自立とは、自分ひとりで立つことです。

……だから多くの人は自立しなければと考え始めると、たいていは最初に

「自分が何かに依存している」

という仮定を置いて考えることになります。

そして、特に内省的な人や規範意識の強い人ほど、どんどん依存している対象を見つけてそれらを排除しようとするでしょう。

しかし、まずこれは間違いです。

錯誤です。

Piggyback

たとえば

「親から自立しなければ」
「会社から自立しなければ」
「他人に頼ったり、助けを求めたりしないようにしなければ」

と言って対象から遠ざかろうとするわけですよね

それは自立しているのではなくて、要するに、実は孤立しようとしているだけなのです。

孤立とは何でしょう?

孤立とは実は、特定の「何か」だけに依存度を集中しようとする行為、です。

つまり依存先を絞り込むという意味です。

それを客観的に見ると、やはり

「甘ったれている」

ようにしか見えないのです。

依存というのは対象そのものに問題があるわけではありません。

依存というのはその依存している対象との関係において自分が

「甘ったれているかどうか」

という問題なのです。

「甘ったれかた」を変えても依存が深まるだけ

たとえばですが、親から自立しようとして、実家を離れ、ロクに連絡もせず、援助も断って、親の忠告や意見を否定して反発したりしたところで……そうやって無理しながら生活が乱れたり健康を害したり、あるいは余計に親に心配をかけていたりするならば、それは、自立したことにはならないでしょう。

それはただ「甘ったれかた」を変えただけです

単にその対象から物理的に離れれば自立しているというわけではないのです。

離れよう、離れようと思っている、そのこと自体が逆にどんどん依存度を深めていきます。

あるいは……今依存しているものから離れるために、なにか別のもの、もっと依存できるものを見つけようとしています。

孤立しようとすることはつまり

「もっと依存できる何か」

を探しているだけなのです。

自立している人のイメージ

自立を求めているつもりが、単に「孤立」するように行動してしまうことがあります。これは勘違いです。

試しに、イメージとして、いわゆる

「ちゃんと自立している人」

を想像してみてください。すると、私などがイメージするのは、むしろ

たくさんの信頼できる仲間がいて
それぞれに良い関係を築いて
互いに助け合ったり、励まし合ったりして
多くの人に支えられて
感謝しながら自由に生きている

……というような感じです。

しかし、自立というのを

「孤立することだ」

と思っている人からすれば上のような状態も

「ほら、やっぱり依存しているじゃないか」

というふうに解釈してしまうのです。

これは「依存」という言葉を混同しているのです。

つまり、自立している人は別に、何にも頼らず、何も必要とせず、何とも関係を持たない……のではありません

むしろ、多くのものを他者に依存(もしそう呼ぶなら)することによって結果的に自立した心理と状態を得ているわけです。

自立してこそ他者と関係できる

また、もう一つ言えることは、自立した人というのは別に「他者に無関心」であるわけではありません。「否定」することもありません。

むしろ、多くの人と関わったり、好意を寄せたり、信頼関係を築いたり、愛し合ったり……しているでしょう。

他人に対して積極的に関わったり、感情を表に出したり、率直に好意を伝えたり、感謝したりするのは、

「甘ったれている」

ということとはイコールではありませんから。

甘ったれている人ほど

他人と積極的に関わるのを避けたり
感情を押し殺して無関心を装ったり
他人を信用しないようにしたり
必要な支援や助力を求めることをためらったり

するのではないでしょうか?

本人は、そのように依存を排除するのが自立する方法だと勘違いしているからです。

たとえば親や子、兄弟などはかけがえのない、つまり決して替えの利かない唯一無二の存在です。他の相手でも同じですが、そういった身近な他者への自然な情愛や良好な関係を「依存」と考えるのは本当はおかしな話です。

さらに言えば、仮に資金的に、経済的に援助を受けていたとしてもです。

それが「甘ったれている」結果としてそうなっているのか?

それとも、ごく妥当な判断から、当然の必要性から生じているのか?

……これは個別の事情や当事者の状況、目的などによって判断すべきものであって、

「お金貰ってるから依存」

と十羽一絡げに区別するのはかなり雑な議論だと思います。

また、これは親など、依存されている側について言えることですが……たとえば、お子さんを早く自立させようと促したり援助を早々に断ち切ったりすることが結果的に本人の自立につながるかどうかは慎重に見極める必要があります。

だって極端に言えば、小学生未満の子供に

「自分の食事くらい自分で作りなさい」

と言ったとしたら、その子はそれによって自立すると考えられるでしょうか?

確かに、単なる現象としてその瞬間だけを見ると、たとえば小学生が自分の食事を自炊して自分で賄っているのをみたら、

「偉いね、一人でできるんだねー」

と見えるかも知れません。

でもそれは、その子が将来的に自立した大人になることに貢献するのかどうかはかなり疑問です。

むしろマイナスに働く危険性があるのではないか?

……と感じます。

状況に依りますが、今当然の必要性を満たすためにしているのをすべて依存と捉えるのはおかしいです。

また、もちろん子供は精神的にも最初は親に依存して当然の存在です。

どういうタイミングで、どういう状況の場合に「自立」を強調するべきかは慎重に選択すべき問題です。

むしろ今必要な助力や信頼関係を断ってしまうと将来的に本人が自立することを妨げる場合すら考えられます。

期待=依存、ではない

他人に対して、あるいは社会とか環境といったものに対して、つまり自分以外の何かに対して

「期待する態度」

は依存的だと……今までは私もそう考えていました。

「ああいう人に期待しちゃダメ」
「会社に期待してもムダ」
「国に期待してもムダ」

といった言い方をよく聞きますが、よく考えてみると自立している人だって物事に期待するということは、だれでもごくふつうに行っているのであり、それ自体は別に依存的ではありません。

だって本当に文字通り何にも期待してないっていうのは……単なる絶望じゃないですか?

自立している人だって、何かに期待して努力したり、他人に期待して協力したり、何かを依頼したり……そんなのは当たり前にやっているはずで、それがダメとなったらほとんど何もできないということになってしまいます。

たとえば周囲の環境がこれからも維持されること、治安が良く安全に住めること、適切な法律や行政があって社会活動の基盤がさらに整備されていくこと……これらに期待できると信じているからこそ、自分のするべき活動に安心して専念できるわけですよね?

それは、(依存という言葉を使っても間違いではないですが)今言っている意味での「依存」ではありません。

実は、精神的に自立するには、とにかく依存する対象を排除しようと考えるのではなく、自分が今の時点で何に期待し、何に依存しようとしているのかを戦略的に捉える観点が必要で、その意味では自立するには、自ら必要なものに積極的に

「依存する意思」

が大切になってくるのです。

自立している人ほど、自分が何に依存しているのかを冷静に分析しているのです。そして、むしろ意識的に自分がそれに依存しているという事実を認めているはずなのです。

自立と依存の心理の根本にある1つの観念

最後に、自立と依存の心理に関して重要な視点だと感じることがあります。

それは、自分の根本的な観念として、感覚として

「世界はまだ完成されていない」

というイメージを持っているかどうか、です。

地球

おそらく、根本的に自立型の人の心理の前提には、この世界とか、人間社会の制度や枠組みといったものが

「まだぜんぜん完成されていない」

という感覚があるように思えます。

そして、その前提だからこそ

「自分自身がさらにそこに関与する意味がある」
「自分自身もさらに変化し、成長する価値と必要性がある」

という意識が整合性をもってごく自然に受け入れられるのです。

逆に、自分自身の中にある依存的な心理をどんどん掘り下げていくと、そもそも

「この世界、あるいは人間の社会はすでに、きちんとでき上がっているはずだ」

という思い込みが残っていることを発見します。

もちろん、表面的な意識や思考の上で明確にそう認識しているわけではありません。

というか、意識的に考えてみればそんなこと、あるわけがないんですよね?

しかし、振り返って掘り下げてみたとき、自分がそもそもそういう前提に立ったうえで、すでにそれを土台にしてさまざまな物事の解釈や、規範や行動基準を構築しているという部分が相当程度にあると想像することはできます。

そして、この前提で言うと当然の帰結として

「これ以上自分が世界に対して何かする意味は、根本的には存在しない」

という認識が発生せざるを得ないことになります。

子供のころ、周りの大人たちは完全な人に見えた

たとえば私は、子供のころ私に接する大人たちはみんな、物事をよく分かっていて、だから自信を持って正しいことを子供に教えているのだと思っていました。

子供は、ある意味では何の前提もなくそう感じるしかない環境で育ちます。少なくとも最初は。

幼い日にはだれでも、何事も私が生まれる前から先に決められた仕組みとか、他人が作り上げたシステムやルールが完備されているものと受け止めるしかないんです。

もちろん、成長するにつれて表面的には矛盾や改善点が現れる場面に出くわします。でも、それは表面的な現象であって、その大枠はもう固定されていて根本的にはこれ以上変わることはあり得ない……という前提で周囲の環境や、接する大人の人たちの行動や発言を解釈し、消化していく人もいるでしょう。

あるいは、場合によってはそれを

「世界に適合していない自分のほうの問題」

と受け止める可能性もあります。

ところが、自分自身が大人になってみれば当たり前ですけど、現実はそれとはまったく異なるわけです。

だから、遅かれ早かれどこかでその固定観念を捨てなければならない。

自分の、身の回りに起こる問題や人間関係、現実に起こる事件や情報などを目の当たりにして、

「世の中の仕組みなんて非常に未整理で、脆いものだ」

というように認識を変えなければならない。

もちろん、特に意識しなくても多くの場合は自然に身をもって理解されていくでしょう。

あるいは、いわゆる思春期とか、反抗期と言われるような時期にそれを自己発見する機会を持つことができた人はある意味幸運です。

しかし、そのような経験や機会を得られないまま成長する場合もあり得ます。

また、自分の意識の上では変化したものの、それ以前にすでに、現在のあなたの認識とはまったく異なる土台の上にある認識や価値観、または行動パターンなどがすでに内面化してずっと固持されているかもしれません。

すると、表面的な自己認識や価値観と、その自分でも知らない間に自分の中に築かれた観念や価値観とが、内面で衝突してしまうことになります。

人が夢や願望を想起する瞬間

もちろん、こんなことは日常生活の範囲ではほとんど問題になる場面はありません。

ただ、人がたとえば自分の将来を思い描いたり、目標を考えたりするといった瞬間にはかなり重要な点として浮かび上がることがあるのです。

つまり、成功を夢見たり、自分の願望に意識を向けたりする場面では、人間は少し現実を離れていわゆる

「理想」

を前提に想像力を働かせようとします。

私たちはそれを身近な現実の出来事と切り離して考えるがゆえに、そもそも自分が内面に持っている価値観とか世界観といったような根本的な認識を思考に反映しやすいのです。

依存的な心理を持つ人は達成イメージを固定したがる

たとえば、金持ちになったら……プロトタイプな「金持ち」のイメージ通りの生活や行動をしなければならない。

たとえば、憧れのあの職業に就くことができたら、こういう面で困難や苦労があるはず。こういう点は嫌でも受け入れないといけないはず。

あるいは、成功者というのは内面的にはこうでなければならない、こういう信念を貫かなければならない。その言動はこうで、生活態度はこうで……というように、まだ実際に起こってもいない未来の状態について良い面も悪い面も先にイメージを固定してしまいます

また、その状態に至る過程についても。

たとえば、必ずこういう努力を続けなければならない。こういう困難をひとりで乗り越えなければならない。

自分が成功する過程で、こういう(できれば避けたい)感情が起こるはずだ、でも我慢して乗り越えなければならない。

……実はそれ自体が想像にすぎません

そして、おそらく実際にはそんな決まりきった過程と、決まりきった達成状態が出現するわけではありません。

逆に言うと、そのように固定的な

「結果のイメージ」

を守らなければならないと思い込んでいるから、自らを

「でなければならない」
「しなければならない」

という形で規定し、その状態に近付くために努力し続けてしまう。

……そういう心理の前提があると、思考も行動も結果的に

「依存的」

にならざるを得ないのだと私は思います。