言っときますが、私は自己啓発嫌いな人じゃありませんよ。
でも。
自己啓発や成功哲学などに関する知識を数多く得ているにもかかわらず……。
「なぜ状況はいっこうに変わらないのか?」
思考は現実化するのでは?
思考は現実化すると聞きましたが……。
「長い間いろいろ考えているのに、なぜいっこうに現実化しないのか?」
と思っていませんか?
結局、成功法則だ、自己啓発だなんて言ってるけど
「こんなの、本当は意味ないんだ。嘘なんだ」
って内心どこかで感じていませんか?
この問いに対する答えかたは複数あります。しかし、ここでは一点だけ挙げたいと思います。
その知識、何に使おうとしているのですか?
それは、
「自分が何をしようとしているか決まっていない」
からです。
当たり前のように聞こえるかもしれませんが、これは私の経験上も非常に重要なポイントです。
ある意味で盲点と言えるでしょう。
そして、多くの人がこの状態に陥っている可能性があります。
自己啓発の知識はすべて抽象化、一般化されている
ちょっと横道に逸れるみたいで申し訳ないですが、よく論理学や思考法の話なんかで出てきますが、推論や証明の方法としてよく
「演繹法」
と
「帰納法」
があると言われますよね?
あ、でも……別に細かい論理とかの話をしたいわけではないので難しく考えないでください。ただごく一般的な意味で一応
【演繹法】
一つの事柄から他の事柄へ押しひろめて述べること。【帰納法】
ー Goo辞書
具体的な事例から一般に通用するような原理法則を導き出すこと。
もっと分かりやすくざっくり言うと
「抽象的→具体的」っていう流れは演繹法。
「具体的→抽象的」っていう流れは帰納法。
ですね。要するに考え方の方向を表しているんです。
さて、そこであらためて考えるとおそらくあなたが本やサイトなどで目にするいわゆる自己啓発系の情報……成功哲学、成功法則の類はほとんどの場合
「抽象的」
な話です。
つまり、あなたが何をやるにせよ個別の具体的な事柄や行為の種類によらず
「なるべくどんな状況に当てはめても役立つように一般化されている」
と言い換えてもいいです。
要するにそういうものはすべて「一般論」だということです。
もちろん、ふつうはそうでないと困るわけです。
たとえばですが、お金持ちになりたいと思っている人がいて、そのために「クロールで25メートルを泳ぎ切る方法」も読んでおいたほうがいい……とか思わないですよね?
もしそれが非常に限定された特定の状況にしか当てはまらないような書き方になっていたら、それ以外の人にとっては無意味な本に見えてしまいますよね?
実際には
「お金持ちになる方法」
と
「クロールで25メートルを泳ぎ切る方法」
には共通するテクニックが存在していたとしてもです。
つまり個別の話題になると応用できるノウハウが書いてあったとしても伝わらないですよね。
ですから、ふつう自己啓発本というのはそもそも
「抽象論」
「一般論」
であって当然です。
ノウハウとは本来、帰納的に見いだされるもの
それで、以上を踏まえて私の経験から言えば、実際にはどんなことであれ真摯に長期間続けていれば、それに関するコツとか本質といったものがだんだん分かってくるものですよね?
それはたとえば仕事であれ、趣味であれ、水泳であれ。
そして、そのような多種多様な状況の中でそれぞれの場面でだれかが気が付いたコツとかノウハウとか本質的な考え方とか……そういう知識や情報はどの業界でもどの分野でも次第に蓄積されていくはずです。
そういった事例の蓄積から見出される
「共通性」
が抽出されて、より一般化され収斂されてきたもの。
それがいわゆる
「成功法則」
というもののはずですよね?
理屈で言えば。
一般に成功法と呼ばれるようなもの、あるいは自己啓発系の話題で出てくるような知見や情報というのも本来は現実の事象や過去の先人たちの経験などの中から帰納的に積み上げられて成立してきたものであるはずです。
私が言いたいのは
「現実には、そのほうがふつうだ」
ということです。
つまり、ノウハウとかコツというのは帰納的に得るほうが自然だという意味です。
これは意外に重要なポイントです。
勉強とは何か?
ところが、仮にそのようにして成立した知識やノウハウなどをだれかに伝えるために……だれかの手によって抽象化、一般化されたとします。
そのまま聞いたり読んだりすると……その場合には自然発生的につかむ場合とは逆の流れ、つまり今度は知識としてそれを先に知ってからそれを具体的な事柄に当てはめるという流れが生じますよね?
これは「演繹的」なわけです。
すると、人によっては、それを知ったのはいいけど、じゃあそれを何に対して当てはめるのかということが「後付け」になってしまう場合があります。
そもそもその知識やノウハウを
「何に使うのか?」
……ここでハタと思考が止まってしまう場合があり得るわけです。
でも、ここまではまだそんなに問題ではありません。ある意味、帰納的に見出すべきものを先回りして得ることができたというだけですから。これをふつうの言葉で言えば
「勉強」
と言います。
いいですか?
勉強というのは実は単なる「先回り」のことなのです。
「勉強」に起こりがちな問題点
勉強すること自体は別に悪いことではありません。
しかし、ある意味厄介なのは、勉強というのは……つまり知識や情報というのは単に習得するだけならばいくらでも延々と、無限に続けることができるという点です。
あるいは、抽象的思考というのは……単に思考するだけならば無限に思考することが可能だということです。
これが誤解のもとなのです。
だから考え続けても現実的には何も出てこないという一見おかしな現象が発生するわけです。
よく言われますよね?
「学校の勉強なんて社会に出てからぜんぜん使わない」
「二次方程式なんて社会に出たら一体何の役に立つんだ?」
でも、仮にそれを問わないままにしておけば、ただ単に勉強するだけなら無限に勉強できますよね?
別に使い道などなくたって。
つまりですね……。
ノウハウコレクターから抜け出すには、自分が具体的に何をやろうとしているのかということが明確に決まっていることが「先に」必要なんです。
あるいは、すでに特定の行為をしている必要があるんですよ。本来の流れで言えば。
本らは……ノウハウやコツというのはこんな感じで得られたら理想的なんですよ。
「あなたはすでに何かに相当期間取り組んでいる」
↓
「それなりに成果もあった」
↓
「レベルアップしている実感もあった」
↓
「でも同時に失敗もあり、課題も見えてくる」
↓
「そこで、ノウハウを勉強して当てはめてみる」
↓
「本来必要なはずの時間や労力を大幅に削減して、ワープ!」
本当なら、そういうときに使うものなんですよ。コツとかノウハウというのは。
ですから、本当はその、すでにやっている「何か」が明確であるほど役に立つものなんですよね。
でも、それがまだ不明確なまま単に成功法則、自己啓発(あるいは他のすべてのノウハウ、スキルやテクニックに関しても同様ですが)といった本ばっかり読んでいると……要はそこから演繹的に考えて当てはめるべき、対象となる「行為」がないまま抽象的な知識や思考だけが増え続けていくことになります。
そして対象がないのに単に抽象的な知識、一般化された情報、あるいは言葉や表現……それだけを単に知識のまま、言葉のままで、ああでもない、こうでもないって
「思考し続けようと思えばいくらでも思考できてしまう」
わけです。
でも、その思考からは……実体としては何も出てくるわけがないんですよ。
対象がなければ法則は意味を成しません
「この人の言っているノウハウは間違っているんじゃないだろうか?」
「この本に書いてあることを信じたら、うまく行くだろうか?」
って思ったりしますよね?
もちろん、だれだってそういう判断が必要な場面はあります。
ただ、実体としての行為や経験がないままにそれを判断しようとしたところで……実は判断のしようがありません。
正しいか間違っているか判断すること自体が不可能なんです。
それを当てはめる「対象」がなければ。
もし宇宙のどこにも物質がなかったら、万有引力の法則があることを証明できますか?
それでは万有引力の法則が正しいか間違っているか? ……と問うことすらできません。
「そんなの……当たり前じゃん」
だから、当たり前のような話なんです。
「自分は何をしているのか」
「何をしようとしているか」
のほうが先に存在するのが自然状態なのです。
じゃないと、知識だけをいくら増やしても深めても何も出てこないし何も起こらないのは当たり前の話なのです。