私は小学校くらいの頃には国語は好きでしたし、自分で得意教科だと思っていました。

でも、特に困ったことが2回あったのを記憶しています。

それは作文です。

作文でもたいていのことならスラスラと書けるんですが、私が困ってしまったテーマのひとつは

「私の長所」

という作文を書くときでした。そして、もうひとつ私が最も困ったのは

「私の夢」

という作文です。

「夢などない」とは書けなかった

「私の長所」

については何を書いたかもう忘れてしまいました。

しかし、

「私の夢」

については今でもよく覚えています。

恥ずかしすぎるためここに具体的には書きませんが(笑)

……私は子供心に初めて意識的に「ウソ」を書きました。

創作といってもいいです。

「私の夢」

あなたも子供の頃、こんな作文を書かされた覚えがあるかもしれません。

そして正直困ったのではありませんか?

おそらく、それほど迷わずに書けた子はごくわずかでしょう。

だって私も含めて多くの子供たちは、ただその日その日を精一杯生きているだけで、将来の夢どころか、明日のことさえほとんど考えていないんですから。

「私の夢」を書けと言われた子供たちは、ごく自然に、今まで自分が経験したことの中から、比較的記憶に残っているものを思い出してみるでしょう。

その結果、たとえば、週末に少年野球のチーム練習に参加した子は野球選手になりたいと書くことになります。

あるいは、母親がいつも買い物の時、花屋さんの前で立ち話するのを見ている子は、お花屋さんになりたいと書くのです。

テレビばかり見ている子は芸能人になりたいと書き、ゲームばかりしている子はゲームソフト会社に入ってクリエイターになりたいなどと書きます。

いずれにしろそれは思い付きにすぎません。他に何も思い浮かばなかったのです。

それは、作文のための、書くために絞り出した夢です。

あるいは、幼い頃からたびたび

「○○ちゃんは、大人になったら何になりたい?」

と聞かれたことがあったでしょう。

「お前はこういう仕事が向いてるんじゃないか?」

などと、周囲の大人たちに言われたこともあるでしょう。

そのような時に一度使ったネタを再利用して、作文を書くこともできます。

何割かの子供は、おそらく他人から聞かれたり、作文に書くために使う

「私の夢」

をすでに持っています。

いずれにしろ、それはその子にとって本当に夢なのではありません。

たぶん、多くの子供たちの本心はこうです。

「私には夢などない」

もちろん、開き直ってこれをそのまま書ける子はなかなかいないでしょう。

夢を聞かれた時のために、答えを用意する

もちろん、多くの子供たちは、次の日になれば、昨日書いた作文のことなんてすっかり忘れてしまいます。

しかし、どちらにしろ、それから先も私たちは常に

「夢を描きなさい」
「目標を持ちなさい」

と言われ続けることになります。

周囲の身近な大人から。

メディアから。

漫画や、映画や、本から。

ですから、あたかもそれが正しいことだと、それが自然なことだと思うようになります。

だれもが、半ば仕方なくそれを探すようになります。

必要に迫られて。

また、成功法とか自己啓発といった話が好きな人なら、成功するために最初にすることは

「ビジョンを明確に思い描くこと」
「ゴールを決めること」
「夢を叶えている自分の姿をイメージすること」

と言われているのを知っているでしょう。

これは、子供の頃から聞かされてきた情報と整合性があります。

なので一見もっともな主張に見えるはずです。

何を始めるにせよ、最初にある特定の事柄を自分の成功の姿として選び取らなければならないと考えるのです。

そしてそれを無理にでも絶対視して、それと相反する欲求を排除すべきものと考えます。

目標は思考と行動を規定する

多くの人は、目標設定は行動の、あるいは何かを達成するための第一前提だと考えています。

私たちはそのように考えるように教えられてきたからです。

確かに、目標を設定することは自分の思考や行動をその目標に合わせて規定する力を持っています

つまり、自分をその目標に最適化する方向へと導く強力な推進力となる場面があります。

見えない目標地点

ですが、実はそれは「私の夢を書きなさい」と言われた子供の立場に似ています。

本当に夢がはっきり決まっている場合には、それはたいして何でもないことです。

ただ確認するという意味でしかないから。

しかし、私がいつも気にするのは

「目標設定はなぜ必要か?」

ということよりも

「目標設定はいつ必要か?」

ということのほうなのです。

夢を尋ねることは目標設定を強要する

無理に目標設定を急がないほうがよい場合もあるのです。

たとえ、最初は本心でなかった場合でも、一度書いてしまうと、あるいは一度想定してしまうと、それに沿って思考し行動しなければならないような気がしてきます。

つまり、それを起点に自らを規定してしまう可能性があるのです。

しかし、たとえばその目標を意識するタイミングが悪かった場合、あるいは、その目標そのものが自分の本位でない場合や、他の願望や欲求と拮抗している場合などには、その「規定」する力はむしろじゃまになってしまうことがあります。

もちろん、長い目で見れば、たいていの場合いつか、それが本心ではなかったのだと気が付く日が来るでしょう。

しかし、それに縛られている間、人によってはかなり長期間がある意味でムダになります。

いい大人でもそうなのですからまだ自意識や自我の確立していない子供さんの場合は余計に注意が必要ではないでしょうか?

本当は、ひとりの人の中にも多様な意思や欲求が同時にあります。

私自身だって、時には崇高な理想や美しい夢を思い描いてみたりするし、かと思うと今度はきわめて卑近な欲求や、下劣ともいえる欲望を抱いていることがあったりします。

自分でも本当は何を望んでいるのか、そうかんたんに自覚できるものではありません。

というか、もともと人間の感情や意思というのはそれほど単純に規定できるものではないのです。

「成功したい」

と言うのは嘘ではないのだけれども、人はふつう成功のためだけに生きているのではありません。

「夢を叶えたい」

という気持ちは本当だけど、あとはどうなっても良いというわけでもありません。

人間はふつうさまざまな現実の状況と折り合いながら、そして時には矛盾する欲求や願望と、一方では理性や常識と折り合いを付けながら生きているのです。

これは実は当たり前のことです。

なのに自分が望んでいるタイミングでもないのに外部から

「目標設定しなさい」

と言われると、多くの人は

「そうだ……こんなことではいけない」

と考えるのです。

自分の夢を具体的にしなければならない。

期限を設け、それに集中しなければいけない。

夢、願望、ゴール、目標……呼び方は何でもいいのですが、最初にそれを明確にするというのは多くの人にとってむしろきわめて不自然かつ不自由な行為であるにもかかわらず唯一の正しい方法論だと思われているようです。

繰り返しになりますが、ある特定の状況下では目標を持つことが非常に有利である場面があるというのは事実なのです。

ただし、それには適切な段階、タイミングというものがあります。

逆に言うと、ある状況では無理に目標を設定しようと考えないほうが有利に働く場面もあるわけです。

目標設定というのは成功や達成の「万能薬」とは言えません。

「将来の夢」を書くなら

もし、私がもし子供たちの前に立つ先生で、授業の内容を自由に決めて良いなら

「私の夢」

というテーマよりもむしろ、

「今一番楽しいこと」

というようなテーマで作文を書いてもらいたいです。

まあ、指導要領に沿ってないのかもしれませんけど。

これは、すでに心の中に自分の夢らしきものが芽生えている子にとっては「夢を書け」と言われた場合と内容的に同じことになるかもしれません。

自分の夢や目標を自覚しつつある子供たちの場合は、それで良いのです。

一方で、夢とか目標などという言葉を突然言われると頭が真っ白になってしまうような子供にとっては

「今一番楽しいこと」

を思い出すのは夢を書くよりずっとかんたんなことです。

基本的には、単に今一番楽しいことを書くのであれば、少なくともその子はウソを書く必要がありません。

また、今一番……というのは意味としてはあくまで相対的に、ということです。つまり、それがいずれ「一番楽しいこと」でなくなったとしても一向に構わないわけです。

ましてや、その子たちにとっては、それが将来につながるか、何らかの夢や目標に結びつくものかどうかなんて、まだ知ったこっちゃありません。

往々にして将来の夢や目標につながる可能性もあるのですが、そんなことは今考える必要がないのです。

それで十分な気がします。

そしてこれは……別に子供じゃなくても実は多くの大人の場合でも同様に当てはまるような気がするのです。