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「何が正しいのか」を語る前に共有したい前提

ルール違反、逸脱

標準化されているルールや手法、手順というのは、たいてい、職場のすべての人に適用されるように意図されているものです

だから、あなたがその標準的なレベル、スタンダードを大きく超える仕事や成果を得ようと思うならば、実際の行動レベルにおいて各論的には一見ルールに反している、または標準的な方法論から見ると矛盾したように見える場面が出てくるでしょう。

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「何が正しいのか」を語る前に共有したい前提

仕事などに限りませんが、人の判断や行動の「正しさ」についての理解の仕方は大きく分けると次の2つがあります。

ひとつは、

① ルールや決められた手順に従っていること

です。

しかし、もう一つは

② 目的に合致していること

です。

職場で、またほかの場面でも多くの場合

「何が正しいのか」
「どっちの主張が正しいのか」

を語るときには、①の立場から語る人と②の立場の人が両方いるために

「結局どっちが正しいのか分からない」

ということになりがちだと思うのです。

② 目的に合致していること

を「正しさ」の基準だと理解している立場では、

「ルールから逸脱すべき状況」

というのが当然あるということになるわけですが、それは①を「正しさ」だと思っている人から見ればありえない考えだということになってしまいます。

もちろん、②だとしても

「ルールも規則も、全部不要だー」
「俺様は自由なんだー」

……とか思っているわけではありません。

(そういう立場もあるでしょうけど、ややこしくなるのでここでは触れません)

逸脱するからこそ「何が正しいのか」が問われる

悪いタイプの逸脱をすれば単に

「違反」
「反則」

だと非難されても反論のしようがないですが、人は時に

「こちらのほうが絶対正しい」

という確信をもって、既存のルールや枠組みをあえて逸脱するという場合もあるわけで、むしろ良い逸脱ができるというのは大きな価値であり才能であるとも言えます。

そして、いずれはそれが新しいルールや枠組みを作っていく……ということにもなります。

その意味で、良い逸脱とは

「更新」
「進歩」

と呼ぶこともできるのです。

ただ、逸脱が発生した瞬間には必ず

「何が正しいのか」

が問われることになります。

つまり良い逸脱とは、あらかじめその問いに答えることができるようなタイプのものでなければならないわけです

「目的は何か」に集中する

何が正しいのかを問う時、そもそも

① ルールや決められた手順に従っていること

を唯一の基準として考えていれば、ある意味手堅いとも言えますが

「更新」
「進歩」

は生まれません。

また、たとえば会社とか組織の中で今一応の形式が整っている標準化とか、ルール化というのは、それなりに合目的的ではあるけれども、それはあくまで

「全体を効率化する手段」

だという側面もあります。

つまり、それはあなた自身の能力や可能性にとって最適化されているわけではない、ということです。

本来を言えば規則やルールというのは

「より良い仕事を制限するものであってはならない」
「結果に対する責任の回避や判断の放棄に用いるべきではない」

のですが、そこまで細密に、完全に作られたルール、規則……なんてものが現実には存在しないというのも周知の事実ですよね?

だから常に「逸脱」が起こります。

例外処理が発生します。

……むしろ、逸脱や例外的対応を避けてばかりいながら

① ルールや決められた手順に従っていること

を「盾」にして、自分の正当性を確保しようというほうが、ひどく保守的で消極的な態度に見えます。

たとえば、スポーツやゲームだったら前提的に確固としたルールがあります。

もちろん、それを順守してプレーしなければ反則です。ペナルティを課されたりもします。

でも、考えてみてください。

だれも、ルールを順守するためにそのスポーツやゲームをするわけではないのです

「ルールを守った人が勝ち」

などというゲームも存在しません。

みんな、勝つことを目的にゲームするわけで、そっちが目的です。

仕事とか、他の活動でも同じことが言えますよね?

「ルールや手順を守っています」

というのは、確かに喜ばしいことではありますが、それ自体は目的ではありません

もし、あなたの仕事の価値を他から逸脱するくらいに高めたいと思うなら

「あなたに求められている役割」
「仕事の意味、目的を達成する」

こと自体が第一義であって、そのことは、標準化されたやり方、原則的なルールやマナー、それに一般的な常識や予測される平均的な他人の反応や評価……などよりも優先されるべきだという意識や行動が必要な場面が出てくるはずです。

この考えからすると、もはや

「私はルール通りやったんだから正しい」
「私はマニュアルに従っただけで、結果については知らない」
「教えられたとおりにやったんだから、責任はない」

と言うような言い訳がいかに稚拙であるかわかるでしょう。

良い逸脱の条件

職場や業界において一般的に定められているルールや作業ルーチン、定型化された手順や暗黙の共通認識……これらを意識的に逸脱して行う場合には、次のような条件を満たしているかどうか確認しましょう。

① 原則的にはルールを前提としている必要がある

逸脱というと、言葉の響きから単にルールを無視することと考えがちですが、それは単なる「違反」であって、良い逸脱というのは実はそうではありません。

もちろん、あえて逸脱する理由が必要です。

しかも、ただ

「こういう理由で、こうしました」

と説明するだけでは不足です。

それだけでは関連性が希薄な、自分の勝手な都合を述べているだけで、的外れになります。

ですから、意識してこのような順序で理論付ける必要があるのです。

① ~というルールが原則としてある
② このルールの意図は、~である
③ ただしこのルールは、~という状況を想定していない
④ だから、例外として私はこのように実行し
⑤ 結果としてこのルールの意図は達成されたのである

良い逸脱ができる人は、あらかじめこの文脈で説明できるから意識的に逸脱できるわけです。

つまり良い意味での逸脱というのは、実は、本来はあらかじめルールに盛り込まれているべき例外対応の一種なのです。

しかし、何らかの理由でそれがまだ明文化できない、共有されていないということなのです

「何らかの理由」というのは、たとえば、

「過去にその状況を想定した人がいなかった」
「その対応や処理を全員に求めるのは難しすぎる」
「ルール自体が未整備」
「修正や更新が間に合っていない」

といったもの。

だから、今あるルールとの関連性と、納得できる論拠が伴っていないといけないのです。

もちろん、このような逸脱を実現するためには、人一倍ルールを熟知していなければなりません。これは単に理解不足で「違反」するのとはわけが違うからです。

次に、当然ですが

② その結果は、逸脱しない場合より明らかに良い

ということにならなければならない。

たとえば、結果がたいして変わらないのなら、そこでわざわざ例外的なことをした意味が薄くなります。

さらに言えば、自分なりに考えたときに結果が良いと思えるだけでなく、同時に

③ 周囲の他人に対する影響が良い

ことも必須です。

もし、あなたが自分で良かれと思って行動した場合であっても、他の人から見たときにそれがどう映るか……それは立場や認識によって変わってくるかもしれません。

少なくとも、聞かれて説明に困るような行動ならすべきではないし、本当は、説明するまでもなく周囲の人たちがはっきりと「あなたのその判断は良かった」と理解できる手法であることが望ましいのです。

理想的なことを言えば、むしろ自分の放つ雰囲気やふるまいが仲間に自然に伝わること、それは周囲の人たちの意欲や感情、行動を左右することになることを利用して、全体をより良い方向へ導くために他人の反応を予測して行動するというくらいの「計算」があって、逸脱するのです。

最後に、これも当たり前と言えますが

④ 逸脱する動機と目的が合致している

かどうかを自問自答します。

繰り返しになりますが、今存在するルールや手順、常識や共通認識というのは、そもそもはすべてそれなりの目的や意図があるから存在しているものです。

目的や意図が合致しているからこそ、良い逸脱は本来ルールに含まれる例外措置だと主張できるわけで、意図や目的が明確でない逸脱は、たいていが自分の認識や努力不足などからくる悪い逸脱です。

そして、目的に合っているだけでなく、そもそもあなた自身の動機が正しいかどうかも自省しなければなりません。

「あなたが行ったその行動は、だれのための行動か」
「それは、あなたの仕事の価値を高めるものか」
「その真意はどこにあるのか」

これらの面で、間違いはないと胸を張って言えるなら、もう逸脱を怖れる必要はありません。

それでも、一部の人はあなたを批判するかもしれません。

「自分勝手な解釈だ」
「屁理屈だ」
「スタンドプレーだ」

って。

でも、あなた自身が自分の行為、行動の

「正しさに確信があるならば」

過度に恐れる理由などないわけです。

ルールは活用するためにあるのです。ルールに守られているのではありません。

むしろルールの陰に隠れながら大きな成果を求めることなどできないのです。