私は、他人を「ディスる」人は、なぜディスるのか? その理由を考えたときに、それはまず大きく2つに分けられると思います。
それは、少なくとも本人の意識の上では
① 相手のため
だと思ってディスっている場合(……言われた方にしてみれば余計なお世話だとしても)です。
それともう一つは、
② 専ら自分自身のために
他人をディスるという行為を習慣にしている場合です。
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「ディスる」とは?
「ディスる」という言葉は一般に
「けなす」
「否定的な評価を言う」
「こき下ろす」
というような意味で使われます。

否定的なニュアンスを含む言葉であるのは間違いないのですが、まだ若いスラングですので人によってさまざまなイメージを持って使われます。
実際どの程度否定的なニュアンスで発言したことを指すのかがはっきり伝わりません。そこが便利なことろでもあるし、誤解を生む原因となりやすいとも言えます。
たとえば
「そういえばこの間、あいつはお前のことディスってたよ」
というように使うことも多い(むしろそのほうが多いかも)のですが、その内容というのは直接的に完全に否定したのか、あるいは暴言や罵詈雑言に近い言われかただったのか?
それとも、ちょっと違和感があるとか、自分とは少し考えが違うとか、気軽な感想を言っただけだったのか?
それは実際に内容を聞いてみないと分かりません。もしかするとそれは単に
「あなたのいないところであなたのことを話してたよ」
という意味に過ぎない場合もあります。
そうすると、それはただ
「噂していた」「あなたのことに言及していた」
という意味にすぎず、実際にはまったく否定的な内容ではないかもしれません。早合点してその相手に反論などしてしまうと、逆にあなたのほうが
「ディスる人」
ということになってしまう……なんてこともしばしばあります。
ディスるなら、面と向かって直接ディスる
さて、少なくともあなたが
① 相手のため
だと思って言うのであれば、それは当然、相手に直接伝える必要がありますよね?
ですから、まずこの場合には上記の例のように
「そういえばこの間、あいつはお前のことディスってたよ」
という状況を引き起こすことが原則あり得ないということになります。
もちろん、人づてに伝わることを予測して意図的に行うというような高度なテクニック(?)もあるにはありますが……それは置いといて。
基本的には、相手のために、相手に直接言うのであれば、否定的な内容であってもそれは、ふつうに言えば「アドバイス」とか「助言」の類であって、たいてい、それを言っている本人には相手をディスろうという気持ちなどまったくない場合が多いでしょう。
ところが、最近この「ディスる」という言葉が流行したことによって、好意や親密さから軽い気持ちで出たアドバイスや助言の言葉でも、すぐに「ディスり」認定されてしまう傾向にあります。

逆に言うと、他人に対してアドバイスだ、教育だ指導だ……といろいろ言うこと、それ自体に否定的な考えを持つ人が増えているとも言えます。
かく言う私自身も、だんだんそういう考えに傾いてきたような気がします。
「聞く人は自ら聞くし」
「聞かない人は何を言っても聞かない」
のだという感覚が以前より大きくなってきました。
……だから、こんなブログを始めたのかもしれないですね(笑)
とは言え、私はすくなくとも、相手が「聞く人」なのか「聞かない人」なのかを、
「一度は試してみてから判断したほうが良い」
という考えです。一般論として、他人の意見や助言に耳を貸さない人が多いと思うからと言って、今目の前にいるその人がそれに当たるかどうかは分かりません。
だから、私のやり方は……逆に、一回相手をディスってみるのです。
そうすると、相手がそれにどんな反応をする人かがすぐ分かります。その反応を見れば、自分が発言したことが現実的な効果として
① 相手のため
になるかどうか、すぐに判断できます。
「相手のため」という気持ちが、実は自分のためだったりする
一方で、気持ちとしては
① 相手のため
だと思っているが、その心理をよく自省すれば
「相手のためだと思って言っていたけれども、よく考えたらこれは自分自身のエゴだった」
とか、自分のもっと深いところにあった心理や感情に自ら気が付くということもあります。
「相手に精神的に依存している」
「相手を利用しようとしている」
「相手を支配しようとしている」
「相手の成長や、自由意志を制限したいと思っている」
「関係性を固定したい」
「離れたくない、逃がしたくない」
「自分の優位性を強調したい」
「自分が有能であることを周囲に示したい」
「自分の問題点から目を逸らしたい」
「本当の自分を他人に知られたくない」
「自分の無能さをさらけ出したくない」
「自分に価値がないと思われたくない」
「自分は価値がない人間だという気持ちを認めたくない」
「自分自身の課題を先延ばしにしたい」
「自分の価値観を守りたい」
……などなどです。
たぶん、あなた自身もそちらの部類に入るのではないですか?
あなたは、表面上の意識としては「相手のためを思って言ってあげている」と考えていますが、本当のところはただ、自分自身のこんな気持ちを覆い隠すためだけに、そのエサとして他人にいろいろ言っているだけです。

……と言われて、今自分が
「ディスられた!」
と思った人は要注意ですよ。
変なわだかまりや不安がない人は上の文を読んでも、たとえば
「まあ、そういう部分もあるかもしれないね……人間だもんね」
というふうに、おそらく別段感情的になることもなく、ふつうに気軽に読み流せたと思います。
でも、今の文章で妙に感情がざわついたり、責められているように感じた人……つまり
「なんだこの記事は、私をディスってるのか!」
と感じた人ほど、注意が必要です。
いずれにしろ、
① 相手のため
を想っても、相手がそれをどう受け取るかは相手次第ですからね?
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自分のために他人をディスる人
さて次に、いつも
② 専ら自分自身のために
他人をディスる人というのは、もちろん自分自身にとってそれが必要であるからディスっています。
ディスらずにはいられないのです。
もちろん悪意のない場合がほとんどでしょう。いわゆる近所の噂が好きなおばさんみたいなものです。
また、これは身近な他者に対してだけとは限りません。
たとえば、有名人のゴシップネタが大好きな人。それも、どちらかというと「離婚」だとか「破産」だとか「逮捕された」とか、あるいは事件を起こして「引退」せざるを得なくなったとか……そういうネタについて嬉々として語る人。
あるいは、テレビなどで最近注目され始めた俳優さんや芸人さん、または番組内で取り上げられた人々とかお店とか作品とかを見て、いちいち
「あんなのは、たいしたことない」
とか
「どうせ一発屋だよ……すぐに消えるよ」
とか、ディスらないと気が済まないタイプの人。
何の根拠となる情報があってそんな評価が出てくるのかと、不思議に思うくらい、変な確信じみた口調で周囲を諭すよう語る人……たまにいますけど、コワいですから(笑)
まあ、根拠となる情報をあらゆるメディアからかき集めて、その有名人がいかにダメな、悪いやつなのかをとうとうと論理立てて話す人もコワいですけど(笑)
有名人とは言え、自分にまったく関係ない人のことをよくそこまで詳しくチェックしたり考えたりできるもんだなあ……。
親切か!
「もう、そういう仕事に就いたほうがいいよ」
とディスりたい気持ちでいっぱいです私は。
他人をディスる根本的な理由
で、どうしてそういうのが習慣みたいになっているかというと、その人はなぜ、それを必要とするのかというと、最も根本的なことを言うと
「それは、私は正しいのだということを、自分自身に言い聞かせるため」
です。
人間は、過去に見たこと聞いたこと、集積した知識や経験などをすべて自分なりに解釈し、何らかの定義付けをした上で記憶の中にしまい込んでいます。
ふつうこれを「概念」と呼びますが、それら無数の概念を、それぞれが矛盾したり競合したりしないように調整を施しながら、全体をひとつの「かたまり」として整合性のある状態に保っています。
私はこのことを自分で勝手に
「概念系」
と呼んでいますが、ふつうには「価値観」とか「世界観」とかに近いです。あるいは、人はふつうその全体が「私の考え方」だとか、もっと言えばそれこそ「私自身」であるというふうに認識しています。
ところが、現実にはそれと整合しない、少なくとも自分にとってはそのままでは受け入れがたいことが起きたり、他人がそんな行動をしたりします。
身近な他人のあり得ない行動や、受け入れがたい考えというのもそのひとつです。
あるいは、テレビに出てくる芸能人の日常生活の姿とか?
自分の常識では絶対できないと思うような実績を出した人や、優れた成果を出して認められた人や、高い人格を持った人や、努力している人や、前向きな人や、お金持ち、幸せそうな人々……。
そういうものは、ある人の概念系、すなわちその世界観、価値観に照らせば
「解釈不可能な事実」
と見えます。
要するに人は、何か新しい知識や情報、経験などが起こった時には、原則として、すでに自分が保っているその「概念系」と整合性を持ったものでなければ受け入れがたいわけです。
でないと全体の整合性が崩れてしまうから。
すでにある概念系を、新しい情報が届いたからと言ってその都度全部組み直すなどと言うことは非常に厄介で大変な作業です。
だったら、その受け入れ難い情報のほうを無理やりにでも今ある概念系に整合するように解釈し、常にそれを補強するほうが楽なのです。
私が思うに、他人の(自分にとって)意味の分からない行動や、あるいは、自分が現実として認識している範囲を超えるような出来事、それを実際にやったという人物などに出会ってしまった場合には、
「とりあえず、その人をディスっておく」
というのは、最も手早く、楽にその事実を「自分の概念系」の中に取り入れるための有力な方法のひとつなのです。
認めがたい事実や、出来事や、人物などに遭遇したら、それをそのままストレートに解釈しては自分の価値観、世界観と整合しない。
なので、その人は相手をディスっている最中、一生懸命それが自分の概念系に合うように解釈し直したり、その解釈をさらに補強するために何度も反芻したりしているわけです。
だから、ディスると言っても、ある場合には非常に感情的になって、言葉の限りを尽くして批判する、というような場合も時にはありますが、それは実はあまり多く見られません。
どちらかというと、私たちが日常よく目にする「ディスり」とは単なる噂話みたいな感じや、ただ友達や周囲の人とふつうに意見を交わしているだけのような感じに見えます。
他人をディスる人にとって、もしその話を聞いて周りの人がその人の意見や解釈に同調してくれたら、もちろんそれは嬉しいです。
それは自分が過去形成してきた概念系が正しいということに賛同してくれているのだから。
でも、もしその場で反論されたり、別の見方を挙げられたりしても別にあまり気にしないかもしれません。だって、基本的にはあくまで自分の中で整合性が保てればそれでいいんですから。
だれかをディスっている人に、後から聞いてみると
「いや、ディスってないよ~」
「え? 別にディスるつもりなんてぜんぜんなかったよ?」
と言うこともよくあるでしょう。
それは、多くの場合ウソではありません。
本人はいわば自分の概念系と話し合っているのであって、実は今ディスっている対象となっている相手のことなんてほとんど関心がないからです。