人は「言葉」で考える
通常、思考に用いられるのは圧倒的に「言葉」です。
もちろん、数字や表、図形、イメージといったものも思考を支えるものではあります。
ただしそれらは使用場面が限られており、また使ったとしても結局はそれを言葉に置き換えることが多いです。
思考は言葉に付随して行われ、他の面も含めてたいてい言葉によって包括されるのです。
言葉の両面性
ところで、思考に用いられるものを比較してみると、数字というのは凡そ理性、理論と結びつきやすく、定理や証明に基づく
「絶対性」
「必然性」
を保証してくれる側面があります。
ふつう、数学的に導き出された結果には曖昧な点や例外などは想定されません。
一方で、いわゆる右脳的なもの
「イメージ」
といったものは感性や感情に結びつけやすいもので、あいまいですが広がりのあるようなものと言えますね?
そこにはむしろ
「正しい」
「誤り」
……という基準が入り込めない領域とも言えます。
そしておそらく、言葉というのはその中間に位置するものと考えられます。
言い換えれば、言葉というのは使いかたによってどちらにも機能できる汎用性があるのです。
言葉はその定義付けなどを極端に厳密にすれば数字のような正確性を保つことができるものです。
逆に極端に拡散的に扱えばイメージに近い広がりを含めることも可能です。
……ただし、裏を返せば言葉というのはそのどちらの面をとっても完全ではなく、限界もあるものです。
完全な思考は存在するか?
ふだん私たちはたとえば
「3+5=8」
だということを確認するのに取り立てて神経を使うことはありません。
なぜかというとそれは絶対そうだからです。
けれども、言葉で表される「命題」というのは
「絶対に正しい」
と言えるようなものを想定するほうがむしろ難しいでしょう。
試しに何か言ってみましょう。
「例外なく絶対そうだ」
と思えるような事柄を想像してみてください。
「スポーツはたくさん練習したほうが試合で勝つ」
「人を殺すと罪になる」
「路上駐車すると駐車違反になる」
……とか?
とにかく何でもよいのですが、何を言ったとしてもそこには必ず
「そうとは言えない場合」
つまり「例外」が発見できるのではないでしょうか?
命題とは単純に言えば「文」ですが、どんな文を考えても何かしら必ずそうとは言い切れない場合が含まれてしまうことが分かります。
もしあり得るとすれば
「観察した結果をそのまま提示するようなタイプの文」
しかありません。
たとえば
「これは石ころだ」
「私が乗っている電車は黄色い」
「この文は肯定文だ」
と言うような場合です。
これらの文は、今目の前にある物や今起こっている事象そのものについて単にそれを言葉に置き換えているだけなので、通常の意味では疑いを差し挟む余地がありません。
……ただし、それぞれの語の意味自体を問い始めると話が違ってきますけど、それは今言っている意味での「例外の存在」というのとは異なる問題です。
「文」そのものの絶対性、必然性という点から言うと、これらの文は明らかに正しさが担保されているということは言えます。
だって、今目の前で起きているんですから。
けれども、今
「何かを思考する」
ということを前提にあらためてこのようなタイプの文を見ていると、実はこの文だけでは言葉による思考はまったく進まないことが分かります。
つまりこれらの文は単に対象を提示しているだけなので、それ自体が思考にはなっていないからです。
言葉に求められるのは「蓋然性」
実は、これは言葉によって思考しても完全な必然性を求めることはできないということを表しています。
言葉とは、数字のように絶対的な答えを求め得るツールではないからです。
そして、私たちが主に言葉を用いることによって思考する限り、そもそも思考というもの自体がそもそも完全性を求められるような代物ではないということにもなります。
では、私たちが思考によって得るものとはいったい何なのでしょうか?
それは、完全さではなくて
「蓋然性」
です。
【蓋然性】
―goo辞書
ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。これを数量化したものが確率。
つまり、言葉による思考はその使い方に注意すれば
「確からしさ」
をより向上することは可能なのですが、一方でそれは決して100%にはならないという前提的な認識を持つ必要もあるということです。