思考の橋を検証する

知識や情報そのものの正誤は別として、ここで典型的な

「思考に現われる関連付けの間違い」

を3つ挙げますね。

それは

① 思い込み
② 通説のトラップ
③ 不確かな推論

の3つです。

まず、ちょっとした関連付けの誤解が固定化して思い込みとして長く残ることがあります

人間は常に推論を思考の動力として用いているので、多少おかしくても関連付けられるものは手当たり次第に関連付けようとする傾向があります。

これは一面では人間らしい感覚や、発想や創造性といった望ましい能力の前提になっているものでもありますが、一方では、それに無自覚なままだとエラーを多く含むことを免れないのです。

人間はすべてについてよく思考した上で頭の中にインプットするわけではありません。

むしろ人間の記憶は大部分が無自覚、無意識なままに行われています。

意識的に思考している場合でも、十分な知識がないとか意識がそちらに向いていなかったといったさまざまな理由から、無理な類推や推論の流れが往々にして起こり得ます。

「橋」は自分が持っている島に向かってしか架けられないですから……だれでも情報が不足しているときには無理にでも何らかを結論付けようとして強引な推論によってどれかの島に橋を架ける傾向があるわけです。

そうして推論のアクセルを踏み続けてしまうのです。

ところが、いったんそうしてしまえば、既存の橋は長期間安定すると意識せずとも集約されてしまうのです。良く意識して考え直せば間違いかもしれないとしても、自分の中でいったん橋が成立すればそれは「島」として扱われるようになります。

意識的に分析する機会があったり、偶然その橋を崩すような新たな知識が入力されたりしない限り……この誤解はなかなか修正しにくいものです。

これを日常的には

① 思い込み

と表現します。

通説のトラップ

② 通説のトラップ

と私は名付けていますが……これは端的に言えば、自前の思考によらないて一般に流通する既製品のような意見や見方をまるごと受け入れることを指します。

一般的に言えば

「鵜呑みにする」
「受け売り」

……というのに近いでしょう。

場合によって

「プロトタイプな思考」

とか

「同調圧力」

といった用語と絡めて説明されることもあります。

つまりこれは厳密に言えば「思考している」というより「だれかの思考の結果をそのまま受け取る」ような行為と言えますね。

これは一般にしばしば起こり得るものですが、たとえば自分では意識的に自分で特定の問題について独自に思考している過程でも、それについて必要な情報を調べたり他者の意見を吟味したりするういちに、自分の思考そのものがジャックされたような状態ですり替わってしまうことはあり得ます。

人間は似たようなものは同じものとして認識する傾向があるから、そもそも考えていたこととの軽微な差は無視してしまうのです。

このようにして独自の問題意識に端を発していたものが結果的にはどこかで聞いたことがあるような論に落ち着いてしまう……これは意識していてもそうなってしまう場合があり得ます。

また、たとえばよく他の人が話しているのを聞いて

「それ自分も同じ事考えていたんだよ!」

と感じたり、テレビなどで紹介されている新しい技術やサービスを見たときに

「これは俺が先に考えていたアイディアだ!」

と驚いたりしたことはないでしょうか?

……こういう時、人は直感的に

「自分の考えと同じだ」

とみなしてしまうものですが、これを

「線の思考」

という過程を踏まえて見ると、うかつにまったく同じだとも言えないことが分かります。

なぜなら、仮に内容が類似していると感じてもほとんどの場合それはいわば特定の

「島」

がたまたま結果的にひとつだけ一致しているように見えるだけだからです。

つまり、その島に至るまでの、そしてそこから発展するための「橋の架けかた」がたいていぜんぜん違うのです。

よって、その意見なりアイディアなりの意味合いや位置付けが異なります。

重要性や確信の度合いなどもまったく違います。

だから一点が一致しているだけで、それを含む思考の全体はまったく違うものである可能性が高い……これをもって

「同じことを考えていたんだ!」

と本当に主張できるでしょうか?

論理的誤謬について

ところで、私たちはそもそも論理的な整合性のない関連付けをしてしまうことがあります

感覚的には正しいと思われがちですが実は誤謬となります。

論理学的な誤謬のパターンは数多くあり、もし関心があれば詳しい専門書もあると思いますが、ここでは日常ひんぱんに問題になり得る典型的なものを少しだけ挙げます。

たとえば論理学的には

「逆は真でない」

のですが、これはしばしば人間の日常的な感覚と相容れないように感じることがあります。

これは

「AならばBである」

ということが本当だったとしても、それで

「BならばAだ」

ということにはなりません……という意味です。後件肯定という誤謬の典型的なパターンで、こうやって示されればだれの目にも明らかです。

例を挙げると

「人間は雑食の動物である」

というのは真、しかしこれをひっくり返して

「雑食の動物は人間である」

というのは真ではないということ。

……もちろんこのような典型的な説明なら誤解することもありません。

ちょっと違う例だと

「日本ではすべての人間が法の下に一定の権利を保障されている」

というのは正しいがこれをひっくり返して

「日本では法の下に一定の権利を保障されているのは人間である」

というのは実は正しくありません。

権利を保障されているのは企業などの法人もだからですね。

……ただ、これは単なる知識の問題とも言えますね?

一種のなぞなぞみたいな例にすぎませんが、このように少しずつ複雑にしていくと間違う可能性も増加していきます。

では、たとえばこんなのはどうですか?

「あるAがBであることが分かっている」

という状態で

「CがAである」

これが真のとき、ならば

「CもBである」

と言えますか?

……これも、単純に示されれば誤りだとすぐに気が付くでしょう。

でも、日常私たちはたとえば

「結婚している人は結婚指輪をしているものだ」
‌↓
「斉藤さんは結婚している」

「だから斉藤さんは結婚指輪をしている(はずだ)」

といった推測をしませんか?

これは推論の結果が事実として正しいかどうかという問題ではなくて、論理として正しいかどうかを問題にするなら……誤っていますよね?

でも、実際に斉藤さんは結婚指輪をしているかもしれません。結果的に当たってる可能性もけっこうあるわけです。

けれども、それにかかわらずこの例では推論そのものに誤謬が含まれていることが問題なのです。

ただ、これは現実には単なる言い方、言葉のあやだとも言えます。

「だから斉藤さんは結婚指輪をしている可能性がある」‌

とか

「だから斉藤さんは結婚指輪をしていてもおかしくない」

と言えば間違いではなくなりますよね?

結果を確かめない推論

論理的誤謬というのは、実は日常的な、身近な問題について言えば……本当はそれほど大きな間違いにつながる例は多くありません。

しかし、なぜそれほど問題にならないかというと……実はそれこそが本当の問題で、それは日常的な問題というのはたいてい

「すぐに結果が確かめられるから」

なのです。

ところが、私たちがまさに真剣に

「思考しなければならない」

と感じているような場面で起こり得ることは何かというと

「かもしれない」

と思ったことを、事実を確かめることなくそのまま次の橋をどんどんかけていってしまうということなのです。

③ 不確かな推論

とは、仮定を条件として思考を進めてしまうことを指します。

そうすると、いつの間にかそもそも仮定だったのか確認済みの事実だったのか……があやふやになります。

その思考の結果が自分にとって好ましいものであればあるほど、単なる可能性としての話が

「絶対そうあるべきだ」

という願望に置き換えられてしまったり。

果ては

「いや確かそう聞いた」
「確認したはずだ」

と信じ込んでしまうことさえ往々にして起こります。

論理学的誤謬の本当の問題はそこにあります。

論理学的反射神経?

ここでの論旨に即して言えば、論理学とは思考の流れを線的に追う場合のそのパターンについて明らかにすることを目指しています。

つまり橋の架けかたを検証して物事のつながりかたが間違っていないかどうかを探ることを目標としているものと言えます。

ただ、記号や典型的な例を挙げればたいてい容易に理解できるけれども日常の文脈の中で思考するときにはつい誤謬に陥りやすいものです。

それは、当然ですが日常

「これは論理的誤謬の例ですよ」

とか、そんなことをだれも考えないからです。

だから論理学そのものをより深く学習するのも無益とは言えないけれど、それよりも

「もしかしてこれは論理学的誤謬では?」

疑ってみる反射神経というか体感を身に付けることのほうがあなたの思考にとっては有効です。

もちろん、その意味で基本的な誤謬の型を覚えておくことも有効だと思います。

線の思考は私たちにとって自然だから

線の思考は私たちにとってあまりに日常的でありきたりなものです。

それだけに、何かを考える都度逐一厳密に検証しようとする意識もあまりないでしょう。

また、そんな必要もないでしょう。

ただ、以上のような雛形

① 思い込み
② 通説のトラップ
③ 不確かな推論

といったような、思考の過程で誤解や誤謬を招きやすい経路には一定のパターンがあります。

それについて条件反射のように自覚できるようになれば十分だと思います。

線の思考は普遍的

さて、昨今は特に思考法発想法がブームのようです。

教育分野では知識偏重への批判から

「考える力を付ける」

というのは大きなテーマとみなされています。

ビジネスシーンでもMBA流の問題解決手法やシステム考察といった概念が浸透してきました。構造主義とか。

けれども、仮に新しい思考法や発想法が登場したからといって、それによって以前用いていた思考法の存在理由がなくなるというような性質のものではありません。

今話してきた線の思考は人間の思考のもっとも自然な型で、それ自体が変わることはたぶんずっとないでしょう。

それはおそらく人間が思考するときに最も中心的な働きをするのが言葉であり、言葉自体が線構造を内包しているからです。

多くの場合、新たに紹介される方法論やきわめて高度に見える思考技術もこれを踏襲しています。

また、どんな思考法やフレームワークを利用するにしても、それらを統合したり整理したりする過程では必ず線の思考が含まれることになります。