一種の処世術、世渡り術としていわゆる
「本音と建前」
を使い分けるという考え方があります。
先ほどの話からすると
「本質的思考……本音に近い思考」
「処理的思考……建前に近い思考」
というふうなイメージを持ったかもしれません。
本音と建前を考える前に
しかし、それはホンネとタテマエという区別の仕方とは少し違うと思います。
処理的思考というのは別にタテマエ的な態度のことをいうのではありません。
まず一般に処世術としてホンネとタテマエを使い分けるというのはあくまで
「態度」
「行動」
について言っているのであって、自分が内面で行う思考という行為そのものについてホンネとタテマエというような区別で捉えようとすることは、むしろスムーズな思考を阻害するように私は思います。
自分本位
ホンネとタテマエというのは、表面的な態度が違うだけでその実質はどちらも
「自分本位」
ではないでしょうか?
別の言いかたをするなら、その考え方は本来処理的思考によって対処すべき事柄にまで無制限に自分の恣意性を反映しようという考え方なのです。
タテマエというのは、事実上
「自分は本当はこう思うんだけど……」
という意識を担保したまま、表面の行動や態度あるいは発言の内容だけを変えるわけですよね?
しかし、ここで言っている処理的思考というのは、もともと自分の恣意性をそれに反映する必要性が薄い対象だから処理的に思考できるわけで……その、そもそも自分の感情や意図、欲求などと結び付けて考えるべき問題ではないという点に着目すべきなのではないでしょうか?
そう考えるなら、思考はそれほど複雑怪奇なものにはなりません。
不満が鬱積する理由もないし、悩みの種も減るわけです。
だれの問題か?
アドラー心理学では
「課題の分離」
という問題が心理学的なテーマとして挙げられていますが、思考について検討する際にも
「そもそも、それはだれにとっての問題なのか?」
という視点を持つことは非常に有効です。
おそらく、私たちが日常直面する思考の対象というのはそのほとんどが実は自分自身でないだれかにとっての問題だとみなせるものではないでしょうか?
あるいは、逆に言うと私たちは日頃から常に、何にでも
「自分」
というものを持ち込みすぎるのです。
ひとたびそれは自分自身にとっての問題ではないと自覚することができたならば……それは
「そもそも自分が思考する必要のない問題」
か、または
「処理的思考手順によって思考すれば足りる問題」
のどちらかにすぎません。
そうであればそれはすでに
「ホンネを通すべきか?」
「タテマエで行くべきか?」
……という判断をする問題ですらないわけです。
むしろ
「自分にとって真に重要な問題は何なのか?」
を的確に見分ける力を得たいものです。