語源というか、まず言葉の意味として

「腑(ふ)」

というのは「内臓」のことで、転じてその人の「心」とか「性根」のような意味で用いられることがあります。

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「腑に落ちる」の意味

そこで「腑に落ちる」の意味は辞書的言うと

納得がいく。合点がいく。

goo辞書

ということになります。

しかし

「納得する」

……それだけだとニュアンスに乏しいですよね?

「ああ、そうなのか~」

という感じ、まさに

「ああ~」

腑に落ちるような感覚が表現できません。

そういうニュアンスで言えば、むしろ

「感服する」
「敬服する」

といった言葉のほうが体感としては近いかもしれませんね。

「腑に落ちる」という言い方は間違いだという話

「腑に落ちる」という言い方は間違いだという解説もあります。

一方で

「腹落ちする」
「腹に落ちる」

という言い方もあり、こちらは肯定形で用いられるのが正規表現という解釈が固定しているので、もしかすると、それとの混乱で「腑に落ちる」という言い方が広まったのではないかという経緯を想像することも可能です。

このような誤用説の典型例でよく引き合いに出される

「汚名挽回」(一般に「汚名返上」が正規表現とされる)

のような感じで、なんとなくイメージが似ていると区別があいまいになって誤用が定着してしまうという流れです。

そう考えると……「腑に落ちる」は間違いだというにおいがしてきますよね?

しかしなあ……私の個人的な感覚では「腑に落ちる」という言い方はぜんぜん違和感ないですし、むしろニュアンス的に「腑」に落ちたほうがしっくりくる気さえします。

……と、そもそも慣用表現なので基本的にその形でしか慣用化されていないという見方も可能で、すると固定的に見れば語法として誤りだとみなすのも間違ってはいません。

……というか、現時点で辞書的には誤用であるという言い方はたしかに可能でしょう。

ただし、これはそもそも慣用表現をどの程度

「正規のものとみなすか?」

という言語学的な、辞書的な観点から考えた場合の話にすぎません。

単に日本語を使っているネイティブスピーカーの感覚としては……そもそも規定の仕方自体が固定的すぎるという見方もできます。

だって言葉の慣用性というもの自体が流動的なものであり、現実に「慣用的に」使われだして、すでに相当広まってしまったものはもはや現実には「慣用表現」として成り立っているとも言えますから。

一般の感覚では、ですね。

むしろ辞書のほうがそれに追いついていないだけだという解釈も成り立つでしょうね。

……個々人がその言い方にどの程度違和感を感じるかという問題も結局それと同じ議論になり、慣用化されているという言い方自体が程度問題だろうという話になってしまうのです。

たぶん、実際の感覚で言うと「腑に落ちる」という言い方の場合は間に「に」という明らかに助詞とみなせる語が含まれているのが大きい。つまりこの言い方はふつう日本語話者の感覚では「文」です。

なので「落ちる」が「落ちない」に変わってもあまり違和感がないのです。

仮に、たとえば「腑甲斐ない」(一般には「不甲斐ない」とも)とか「申し訳ない」というような言葉の場合は、たしかに形だけ取れば「助詞を省略した文」とも解釈できるけれども一般に日本語話者はそのかたまりを一つの

「語(この場合形容詞)」

と見ることが自然なので、その一部を変化させて「不甲斐ある」とか「申し訳ある」とか言えばかなり違和感を持つ確率が上がるわけですね。

実際には「腑に落ちる」とは何のことか?

では、言葉としての議論はさておき……私たちはいったい何をもって

「腑に落ちた」

と言っているのでしょうか?

そもそも腑に落ち得るものとはいったいどんなものかと言えば……たとえば本を読んだりテレビを観たり、あるいは友達から聞いたりした

「初めて知った知識」

や、

「だれかの意見」

などですね。

これらはだいたいの場合「言葉」ですね。

言葉というのはいわば「口にするもの」で、しばしば「食べもの」に譬えられたりもします。

ただし、考えるまでもなく明らかなことや、単に聞いても自分にほとんど関係のない単なる客観的な事実だったり……そういったものはそもそも腑に落とす必要性すら感じないでしょう

つまり、裏側から見ると、腑に落としたいものっていうのは最初むしろ

「腑に落ちないようなタイプの知識や意見」

であるということになります。

一見して腑に落ちないもの、意識しなければ腑に落とすことが難しいようなものほど……最終的に

「腑に落ちる」

わけです。

なので、腑に落ちるという感覚が起きる条件として、まず挙げられるのは実は

① 腑に落ちないような「言葉」の提示がある

ということです。

で、次に当然ですけどまずそれが言葉として

「何をいわんとしているか?」

を理解する必要があります。要するに「語義」とか「文脈」を正しく明確に受け取るという段階は当然あります。

ただ、その時点では内容は理解しているものの、本人はそれに疑いなく同意しているというわけでもなく、いわば判断を保留しているような状態にあります。

② それに対する立場を保留している

むしろ最初から「激しく同意」できるようなことならば、今からそれを腑に落とす必要など生じないのです。

では、そうであるにもかかわらず私たちがそれに「同意」する瞬間というのは実際にはどんな時なのでしょうか?

腑に落ちる瞬間

実際に人間がどういう瞬間に「腑に落ちた」と自覚できるのかというと、かんたんに言うとそれは

「それに当てはまる具体例が発見できた時」

です。

ここで、でも仮にたとえば

「明日は雨が降るよ」

と言われて、明日になって本当に雨が降ったとしても私たちはそこで

「腑に落ちる」

ことはありません。

言ってることが本当だったというだけでは必ずしも腑に落ちるという感覚は起こらないわけです。

そうではなくて、腑に落ちるという場合にはそれは

「具体例」

でなければならない。

つまり、腑に落ちた、腑に落ちないという議論が問題になる対象というのは、必ず何かそもそも「抽象的なこと」である場合に限られます

初めから超具体的な事柄について、人は別に腑に落とすような必要もないし「腑に落ちない」こともありません。

そして多くの場合人が腑に落ちないと感じるのは

「その抽象的な主張が実際に当てはまるような具体的事例がすぐに見当たらない」

場合や、

「本人にとってはむしろそれとは逆の事例のほうが多いように感じられる」

ときなのです。

③ それに当てはまる具体例を発見する(体験する)

そして、それにぴったり当てはまる事象や結果を見たり、自分自身がそのような状況を体験したりした時こそ

「ああ、あれはやっぱり本当だったんだ」

とか

「あの人が言っていたことって、こういうことだったんだな」

と自分の中で「つながる」。

このつながった瞬間こそ、まさに「腑に落ちた」と感じるというわけです。

つまり

④ その知識を帰納的に再確認する

その瞬間こそ「腑に落ちる」瞬間なのですね。

より具体的な例から一定の推論を導き出すことを「帰納」「帰納的」とか言います。

個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すこと。「以上の事実から次の結論が帰納される」⇔演繹 (えんえき) 。

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ある知識や情報が言語や概念として先に与えられているとき、それに合致する事実が後から発見されると人はそれを

「本当だ」

と感じ、腑に落ちるという感覚を得ます。

スピリチャル系の表現で言えば

「潜在意識まで到達した」

みたいな感覚を得るわけです。

知識を「腑に落とす」ような体験を

自己啓発的な考え方として言えば、知識や情報はそれを言葉として知っただけではほとんど役に立たないとしばしば指摘されます。

むしろ知識を「腑に落とす」ような、それが概念として「腑に落ちる」ように

「使う」

必要があります。

勉強したり、情報収集したりした結果をすぐ実際の行動や体験として「使う」ように心がけるのです。

あるいは、そもそも自分の行動や成果に直接つながるような勉強や情報収集に集中する。

……これはもちろん大事な考え方だと思いますが、これを一言で表すには、語法として正しいかどうかに関わらず、現時点で私は

「腑に落ちる」
「腑に落とす」

という日本語しかないように感じるのです。