線の思考

さて物事の関連付けというのはイメージとしては2つの点を線で結ぶような作業として捉えられます。

鎖の論法では関連付けの条件を

「理由」

というものに限定していたが線の思考に現れる関連付けの条件は他にもあり得ます。

線の思考とは関連付けの発見であるとも言えます。

私たちはとにかく何かと何かを関連付けることによってはじめて、いわゆる「思考」を行うことができます。

島と橋

ところで数学でいうところのいわゆる「点」や「線」には面積という概念はありません。

というか……点の連続こそ線なわけで、それには「領域」という概念がありません。

けれども、私たちが一般に想起する言葉や概念というのは、もともとからしてある領域を持ったものとイメージされます。

言葉を区別するために、ここで単独のひとつの概念(考え)のまとまりのことを

「島」

そして、それらを関連付けようとする、たとえば「理由」などのことを

「橋」

と呼ぶことにしてみます。

これに合わせて言えば……線の思考とは「島」と「島」とを順次「橋」でつないでいくようなイメージになります。

まあ、もしかすると線と言っても橋と言っても同じだと感じるかもしれませんが

「橋」

というのは個別の島と島を結ぶつながり一つひとつのことを指します。

これに対して

「線」

と言った場合は、島と橋が次々に連なっている経路の全体をイメージすることもできるので区別して語を使うことにします。

つなぐものとは何か

前に述べた「鎖の論法」というのは線の思考の一形態です。

けれども、そこでは島と橋という分解は想定しませんでした。

鎖の論法は言ってみれば「理由」という装置を使って島から島へポーンポーンと飛んで行くようなやりかたなのです。

けれども、線の思考について詳しく論じようとすると必然的に今度はそもそもこの島と橋の区別ということに目を向けざるを得なくなるでしょう。

たとえば言葉というのは思考の主力となるツールだけれども、単語や文をひとつの島とみなすほうがよいのか、場合によってはそこに橋を内包しているとみなすべきなのか、とか。

単語と文

ふつうに考えて、単語というのはそれ自体がひとつの意味を表すものなのだから「島」的であると感じるでしょう。

たしかに会話や文章の中の一つひとつの単語というのはある領域を持つ概念の固まりに対応しています。

私たちはこれをふつうその語の「意味」と言っています。

そして単純には、「文」というのは特定の語を文法という一定のルールに基づいて結び付けることで成り立っています。

ちなみに、私たちは他人と会話をするときには当然単語をひとつずつ順番に提示することしかできません。

これは、一般的には文字で書いた文章についても同じです。

特に図表や特殊な表現を用いない、いわゆる「テキスト」だけを考えれば、それを口頭で音声で伝えるときと同じ順番です。

だから、その意味では私たちが言葉を用いるならばそれは原則としてまず線の思考が馴染みやすいのです。

このことから「文」というのはそもそも線の思考を内包しているように思われます。

学校で習ったように私たちが当たり前のように使っている文というのはふつう

「主語+述語」

を骨格として構成されると考えられています。

するとこの単純な結び付きの中にすでに「橋」が存在しているというのは間違いではないでしょう。

例外的な場合について

けれども混乱しやすいのは一概にそうとは言えない場合もあるということです。

つまり、実際にはひとつの「文」そのものを島とみなすことができる場合があります。

まず、次のような提示的表現は「橋」を表しているとは言えないのではないでしょうか?

つまり文全体をひとつの島とみなすべきなのではないでしょうか?

「これは石ころだ」

もちろん文法的に言えば、「これ」が主語で「石ころだ」が述語です。でもこの文そのものが別の概念や情報を新たに結びつけたものではありません。

だから、この分だけでは何の思考にもなっていなくて、単にひとつの概念というか、ひとつの事実を示したというだけですよね?

すると、これは文ですが「島」です。

同様に

「私が乗っている電車は黄色い」‌
「この文は肯定文だ」

など、提示的な分というのはすべて「島」的です。

次に、では

「私は20歳である」‌
「東京は日本の首都である」

といった文ならどうでしょう。

これらは、 その主語について もともと議論の余地のない事実や備わっている属性を説明しているだけの文と言えます。

あるいは、あらかじめ明示的に決められた周知の約束事を再度述べているだけです。

ただし、提示的ではありますが最初のほうの例と違うところは……その知識を持っている人にとっては自明ですが、それを知らない人からすると自明ではない、ということです。

要は、聞かれれば説明を要する可能性があるということです。

これは言っている事柄そのものをその場で見て確認できないためです。

もしそれが未知である場合

「ああ、確かにあなたは(免許証の生年月日を見たところ)20歳だ」

とか

‌「東京は(本や地図などで確認したところ)確かに日本の首都だ」

といった何らかの根拠を得る必要性があるのです。

主観的には知らないということは不確かであることと同じです。

この場合……それは、間にもう一つ「島」を挟むことを意味します。それを聞いた人からすればそれは橋を内包した文ということになります。

実は文法的な結び付きそのものが単純に橋を表しているわけでもないのです。

思考が「島」を作る

次にたとえば

「私は社交的だ」

という文はどうでしょうか?

もちろんその本人をよく知っている人にすれば容易に判断し得るかもしれません。ただ一般的には自明とまでは言えないでしょう。

ふつうはこういう発言をすればたいてい何らかのエピソードなどを示してそれを証明するような補足が期待されますよね?

さらに、たとえば

「東京は本来首都として適さない」

……と、もしいきなりこう言われたら、たいていの人は「なぜ?」と反射的に尋ねたくなるに違いありません。

このような文は当然に補足的な説明を要します

さらにその説明が例外なく受け入れられるとも限らないのです。

するとこの文は、その妥当性があることをあらためて明示しなければ相手に通じない文であるということができます。

その場合この文は明らかに「橋」を含むということになります。

けれども……上のような例もすでにそれについて意見が固まっている人たちどうしが話している場面ならもはや議論する必要のない自明の文とみなされるでしょう。

実はひとつの文を島とみなすか橋が内在しているとみなすかというのは論旨の正誤や蓋然性といった基準でも明確に区別できないということになります。

ある人にとってすでに明確と思えることも、知らない人には

「なんでそんなことが言えるの?」

と感じられます。

これはいわば橋を要求しているのであって、ある文を島とみなすかそれとも橋によって島と島を結び付けたものとみなすかは……その人が持っている知識とその人が過去行った思考の蓄積によって決まることになるのです。

だからこの区別は実は客観的な基準があるわけではなくて、人によって都度異なるものにならざるを得ないのです。

……ある文や、文章全体とかでもほぼ同じことが言えますが、それを

「島=ひとかたまりの概念」

として認めるかどうかは結局のところ、それが本来内包している「橋」を本人が意識するかしないかによるわけです。

アンカーによるチェック

前の記事で定義した鎖の論法における4つの

「アンカー」

ですが……他人と共有できるかどうかは別として自分自身の思考や観念が何を島と認識しているかを確認するときにも用いることができます。

たとえば

「私は20歳である」

という例の場合そこで

「私はなぜ20歳なのか?」

形式的に設問化を試みます

するとこの場合おそらく

「だってそうだから」

というような答えしか出てこないでしょう?

これは先に述べた「拡散的アンカー」の形をしています。

だとすればそれ以上設問化する意味がないということになります。

このような場合、この文は少なくとも自分の思考の中で島としてひと括りにできるものあるいは無意識に島と認識してしまっているものだということが確認できます。

これは外界の事象についても同じで

「東京は日本の首都である」

という文も通常の文脈では

「だってそう決まっているから」

としか思わないのであれば「島」とみなせます。

さらに

「東京は本来首都として適さない」

という命題さえ、言っている本人が

「それはもう絶対そうだと思っているから」

ということならば島として扱っても特に問題はないことになります。

他人が同意するかどうかは別ですけど。

ではもしアンカーが発生しないとしたらどういうことでしょう。

それは

「本当は論拠や説明が抜けている思考」

であることを示しています。言い換えれば、必要な橋が明示されていない観念であるということです。

自分は無意識に島と認識してしまっている事柄の中でも、あらためてよく分析すると「橋」が必要であったこと気が付いたりします。

その人が持つ観念、概念というのは、このようにして自分にとってより確かだと思われる島と橋を作ったり壊したりを繰り返すことによって高度化していきます。

原則、ある関連付けがすでに自分の中で確定した島になっていることは思考全体の作業量を削減します

その内にあるべき橋をいちいち再検討する必要がなくなるからです。

つまり、思考の結果を蓄積することは軽量化に貢献します。

けれども先に述べたようにこれは必ずしも客観的に確実だと言えるものではありません。これは自分の意見を蓄積していると言っても同じです。

当然、既存の知識そのものの誤謬が訂正されたり意味が変質したり、新たに有用な情報が付加されたりということも日常的に起こります。

また、それとは別に知識や情報どうしの関連付けかた……つまり橋のほうに修正や更新が起こることもあります。

だからいったん形成された「島」も決して永続的なものではなく新たな思考によって破壊され再構築される余地があるということも忘れてはいけません。

そしてこれをチェックするのがメタ思考の大きな役割のひとつと言えるでしょう。