大枠の考え方として、
「総合的思考」
を意識的に検討しようとする時には、処理的思考においてあえて切り離して排除したものをあらためて意図的に取り入れるような流れになるでしょう。
すでに述べましたが、たとえば処理的思考においては純粋な思考とは呼べないものとして
「耽り」
というのを挙げました。
耽りというのは具体的な「解答」とか「結果」とかを想定しなくても成立するものですから、処理的思考の範囲では排除すべきものとみなしました。
ただし、今度
「総合的思考」
の場合には、こういった精神活動も思考に含まれるものとみなす、あるいは思考と密接に関係する行為としてその役割を明確にした上で位置付け直すというような操作が有効になります。
耽りと思考
比喩的に、思考が仕事のようなものだとすると、耽りはいわば趣味に近いものです。
思考そのものは実用性が重視されるもので、耽りのほうは主観的な満足、享楽が重視される……と表現してもいいです。
で、通常は分けて考えますが、けれども長期的に見れば、あるいは自分の生活や人生全体といったところから俯瞰すれば両者がまったく関係ないものとは言えないことは明らかです。
実際、趣味が高じて仕事になることもあり得るし、趣味で得た知識や情報が仕事に活かせる場面も少なくはないでしょう。
仕事と趣味はしばしば相乗効果があり、長期的には互換性もあるものです。
耽りと気付き、また耽りと思考といったそれぞれの内面的行為、活動というのも同様に、互いにうまく関係付ければ今より活かすことができます。
特に、これから総合的思考について自覚的に検討したり、最初からじっくりと構築していこうとする段階では「耽り」はむしろそれに大きな影響を及ぼす可能性があります。
耽りの対象は、たとえばあなたが大切に思っている人だったり、大事なものだったり、自分にとって価値のある記憶だったりするでしょう。たいていあなたの情緒や欲求などと密接に結びついたものであることが多いでしょう。
また、耽りというのは自分自身でも自覚しきれていない無意識から発せられるシグナルを含んでいるものとも言えます。
いわゆる
「心の発露」
だったりします。
耽りは直接的、意識的ではないけれども、長期的には何らかの内面の変化をもたらす契機を含んでいるかもしれないし、あなたが自分の気持ちや価値観の再考などを図る上でも大切な役割を担うことがあります。
このように、総合的思考については、今まであえて除外してきたさまざまな内面的な活動をあらためて吟味することがひつようになるでしょう。
無目的な思考
たとえば、気の合った仲間や友人とあえて抽象的な議論を楽しむというような経験があるでしょう。
ひとりじっくりと時間をとってリラックスし、物思いに耽るということもあるでしょう。
あるいは、過去の記憶や、特に使わないで置いた気付きについてもう一度思い巡らせてみる。
……こういった行為は思考に至らないものとして処理的思考の範囲では切り捨てたものです。
それにこういう行為は通常
「思考法」
とか
「フレームワーク」
とは呼びませんね。
しかし、総合的思考手順というものを想定した場合には、それらについての方法論とか知見などがむしろ立派に「思考法」の要素として成り立ち得るはずです。
心身の関係性
また、そもそも人の思考というのは他の精神活動と関連があるというばかりでなく、実はその人の肉体的な状態とか生理的な機能の働き具合……といったものとも深く関係があるはずです。
そういった面に関する働きかけも、それ自体は思考法とか呼びませんが、結局は自分の思考のあり方や思考力の程度にかなり影響を与えるものです。
思考の問題を扱うとき、私たちはどうしても知識や情報、あるいは思考法などの方法論のことばかり気にしますが……総合的思考という範囲になるとむしろその思考を支える前提条件からアプローチすることに視点を移さなければならないでしょう。
自己啓発の分野でよく出てくる言葉、たとえば
「メンタル」
「マインド」
「潜在意識」
「スピリチャル」
……といったものとか。
あるいは
「右脳的思考」
「イメージング」
「創造性の開発」
……とか。
総合的思考はこれらをも含んだ、あなたの思考の全体をその範囲に含むべきものでしょう。
ただし、繰り返しになりますがこういった幅広い観点や方法論について検討する余地が生まれるのはむしろ処理的思考手順の実践を通して
「そもそも思考に関するメタ的な理解と体感が深まった段階」
にならないと本格的な意義や効果を見ることが難しいと推測されます。
つまり総合的思考というのはいわば、今まであいまいに自然発生的に構成されてきた思考という活動の全容を、いったん切り分けた上で今度は意識的、意図的に結び付け直すという作業……だと私は考えています。
それは自分にとっての
「思考の再構築」
なのであり、高度にメタ的な操作を伴うものだと言えるでしょう。