自信がないと思っている人ほど、
「自信ありげな人」
に憧れたりします。
また成功を掴む人は、最初から根拠のない自信を持っているとも言われます。
というか……少なくとも成功願望が強い人というのはたいてい「根拠のない自信」を持っているか、あるいは過去持っていたはずです。
そうでないと成功願望自体が大きく育たないのでしょう。
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根拠がなくても自信を付けさせたい
実際はさまざまに解釈は別れるのですが、昨今はごく常識的に言って
「自分に自信があったほうが何かと上手くいく」
と考える人のほうが多いでしょう。
特に若い世代の人は自信を持っているということはプラスに評価されるようです。
たとえ根拠がないとしても、自分の内から湧き上がってくるような自信というのが
「意欲や向上心」
「行動力や積極性」
といった有効な資質に結びついているように感じられるのでしょう。
一方で
「何事にも自信が持てないのですが、どうしたらいいのでしょうか?」
といった悩みを持つ人も多いわけです。
「自信のなさ」のデメリット
たしかに、何事にも臆病で自信のない態度、ネガティブ過ぎる考え方……そのほうが良いと思っている人なんて、たぶんいないと思います。
極端な自信のなさは
① 行動や変化を嫌う
② 対人関係がうまく構築できない
③ 自分を責めたりするので精神的に負担が大きい
……というようにデメリットが多いのも事実でしょう。
また、ビジネス上、対人関係上ももちろん不利です。
自信のない態度や姿勢でいると
④ 実績や経験があっても信用してもらえない
⑤ 交渉事やハードな駆け引きが難しい
⑥ リスクを取れない
……というわけで、ふつうは社会人としては(たとえ嘘でも)自信があるように振る舞うことは半ば義務のようなものですよね?
だから多くの人は「根拠のない自信」でもいいから、堂々と自信があるように振る舞いたいと考えるのです。
あるいは、お子さんの教育について語る時も、
「自信を持たせる」
「自信を付けさせる」
というのがひとつの大きなテーマと認識されていますね。
根拠のない自信とは、なんのことか?
ところで、何となく
「根拠のない自信」
という表現を使うことも多いのですが、私たちが「根拠のない自信」と呼んでいるものには実は次のようにいくつかの意味が同時に含まれています。
① たいてい何が起ころうと自分はたぶん大丈夫だという安心感
② 頑張れば自分はたいていどんなこともできるという自己イメージ
③ 自分は周囲の他人よりも優れているという自己評価
たいていの場合、根拠のない自信を持っている人というのは、この3つを同時に持っているから自信があるように見えるのです。
① たいてい何が起ころうと自分はたぶん大丈夫だという安心感
極端なことを言うと、たとえばですが毎日毎日
「自分は今日、事故で死ぬかもしれない……」
とか思っていたら心配過ぎて生きていけませんよね?
あるいは、人前でちょっとでも失敗や粗相をしてしまったら、みんなから石をぶつけられてボコボコにされるかもしれない……などと思っているとしたら、その人はたぶん怖すぎて家から一歩も出れないでしょう。
でも通常、人はそこまで極端な心配症ではありません。
仮に自分がどんな生き方をしようが、どんな選択をしようが、それによってすぐさま致命的な問題ではないと「根拠なく」信じているものです。
もちろん、状況によって多少は損をしたり、恥をかいたり、人から文句を言われたりする場合はあるかもしれないけれど、そうだとしてもそれは「致命的なもの」ではない。
時には、人生全体に影響を及ぼすような大きなダメージを受ける可能性もないとは言えないけど……。
だからって生命まで取られるわけじゃない。
そして、たしかに生命にかかわる偶然というのもあり得るのだけれど……。
「そうなったら、そうなった時だ」
これが通常レベルの、自分はほとんど何をやっても大丈夫だという安心感ですね。
これはよほど特殊な環境で育ったのでない限り原初的にだれもが持っている感覚です。
発達心学者エリクソンによると、この種類の「安心感」「楽観」の源泉は、母親との関係を通してごく幼少期(生後18か月以内)のうちに得られる、また必ず得るべき
「基本的信頼感」
だと言っています。
生後すぐの、完全に他者に依存せざるを得ない時期に心置きなく本当に完全に依存できたという感覚こそ「根拠のない自信」の土台になっているということです。
ただし、それは確かに根本的にはその通りなのですが、それを踏まえてその人が実際に
「どの程度まで大丈夫だと感じているか」
という点まで含めて考えると、単に基本的信頼感の程度だけではなく、それ以降の周囲の他人との関わりかたや環境、経験にもけっこう影響を受ける気がします。
特に自己啓発分野では、相当の年齢に至った後でも本人が意識的に実践する
「マインドセット」
などによって、この手の心理的拘束を大きく変化させることが可能だという立場のほうが一般的でしょう。
いずれにしろ、基本的信頼感は「根拠のない自信」の根底にもちろん備わっているべきもので、この意味ではもちろん必要なものです。
根拠のない「安心感」の過剰
「何をやっても大丈夫だ」
という信頼感が極端に肥大した場合には弊害も考えられます。
まず、冷静に理性的に考えると明らかに危険なことなのに、気が付かなかったり意に介さなかったり、あえて自ら好んでそういう方向に行動するようなタイプの人。
あるいは、他人にどんな迷惑をかけても、たとえば他人をどんなに追い詰めても自分に危害が及ぶことはないと考えているように見える人。
何をやってもどうせ許されるというような感覚を持ってしまうとしたら、それは問題です。
たとえば
「他人の非をどこまで強い言葉で指摘するか?」
とか、
「けんか相手をどれくらい強く叩いていいか?」
……といったことはエリクソンが言っている「基本的信頼感」とは異なる要素ですが、しかしこういった感覚もおそらく割と年齢の低い時に体得されているものでしょう。
……たいていは、日常的な他人との関りなどを通してこういう調節、手加減や頃合いと言ったものを人はかなり早い段階で学習していかなければなりません。
ところが、昨今はそのやってはいけない「一線」を安易に越えてしまう若者や子供たち(だけじゃなく、いい歳をした大人も含まれますけど)の問題がよく取り沙汰されます。
時には無謀と思えるほどの安心感を持って振る舞っているとしか思えないような人に出会ったりもしますよね?
だから、基本的信頼感は必須のものですが過剰に肥大化すると別の問題を生じる可能性もあるものです。
② 頑張れば自分はたいていどんなこともできるという自己イメージ
学童期で言えば、たとえば子供というのはそれなりに授業を聞いていればテストでもそれなりの点数が取れるだろうという予測があるからこそ勉強する気にもなります。
苦手な教科ができてしまうのは、たいていの場合どこかの単元でのちょっとした躓きによって、
「この教科は自分は一生懸命やっても成果が出ない」
という認識が固まってしまうから起こります。
表面的には担当の先生は嫌いだとか自分には向いていないとかもっともらしいことを言うかもしれませんが、もとをただせばほとんどの場合それが理由だと思います。
つまりこれは客観的な評価とか、他人との相対的な差というよりもほとんど
「自分はこれくらいできる」
「自分がこれくらい努力すれば、この程度の成果には届くはずだ」
という、自分の能力や判断、行動に関する自己イメージです。
心理学では
「自己効力感」
と言います。自己効力感は
① 過去に自ら達成した経験がある場合
には当然非常に強くなりますが、それ以外にも以下の条件下で強くなると考えられています。
② 他人が過去それを達成したという事実を知っている場合
③ その達成を明確に想像できている場合
④ 自分がそれを達成できることを説明された場合
⑤ アルコールや薬物による高揚感によって
これを見ると自己効力感というのはあくまで主観つまり自己イメージ以上のものではないのであって、それが本当にできるということを保証するものではなく、単なる自分自身の期待値です。
上に挙げた条件を見てもたとえば
① 過去に自ら達成した経験がある場合
ですら実際にはそれがどの程度再現性を持つか、またどの程度が自分の能力によるもので、外的環境やタイミングといった別の要因の影響がどの程度あるのか本当のところははっきり分かりません。
当然②~⑤へと下がるに従って根拠としてはさらに希薄になっていきます……つまり「根拠のない自信」に近くなります。
原則として自己効力感が強い人ほど物事を達成する意欲は高まりやすいし、実際に行動を起こすのは容易になる傾向があります。
だからその点に限って言えば、根拠がなくても自信がある人のほうが有利であることは確かでしょう。
しかし、そうだからといって実績や正しい現状分析や自己評価などを度外視して、仮に一時的に単に「自己効力感」だけを高めることができたとしても、それは別に現実の物事を達成する力そのものが高まったこととイコールではありません。
逆に、単に自己イメージとして
「自分が本気を出せば、もっとすごいはずだ」
「今はやらないけど、やれば何でもできるんだ」
というふうに思っているだけで何の行動もしないのであれば……ひたすら自己イメージだけを高めることは正当な自己効力感ではなくむしろ単に言い訳癖がついているだけ、または自己イメージが肥大化しているだけということにもなります。
私はそういう子供時代を過ごした人物をひとり知っています(←私のこと)
だから、実は自己効力感だけを取り上げてそれさえ大きければ大きいだけ良いというように単純に考えるのも良くないでしょう。
③ 自分は周囲の他人よりも優れているという自己評価
「根拠のない自信」に含まれる心理的な要素として、他者と比較した場合の相対的な自分の評価の高さというのもあります。
これも一種の自己イメージとも言えるのですが、感じ方としてはたとえば
「あの人でも通用するんだから、私だって大丈夫だろう」
「あの程度で良いのなら、私にだって楽勝だ」
というような感覚ですね。
いわゆる
「優越感」
のことなのですが、実は優越感というのにもいくつか種類があります。
純粋な優越感と不純な優越感
優越感にはまず
「自分が意識的に獲得した能力に対する優越感」
というのが当然あります。
この場合は、これは「根拠のない」ものではないですよね?
それは自分が期待して、自ら意識的な努力などによって得たもの、その結果としての特定の成果や能力について自分自身が
「それを得て良かった」
という気持ちのことです。
ですからこれは他人との比較を直接の原因としたものではありません。
これは正当な自己評価であり、あえて他人に対してひけらかす必要は別にありませんけど、自分はそれについて
「自分自身を誉めてあげたい」
というような気持ちです。これは決して悪い心理状態ではなく、むしろ良好な優越感です。
「純粋な優越感」
と呼んでも良いでしょう。
しかし、優越感という中には
「劣等感を回避するために作った優越感」
もあります。
むしろ、ふつう優越感というとこちらをイメージする人のほうが多いかもしれませんね。
たとえば、特定の相手に対して、ある面では勝てないと分かった時に、それと無関係な別の点で相手が劣っていることを取り上げて相手を蔑もうとする……そのことによって
「勝ったような気になる」
というような場合が典型的です。
これは、本来自分が意識している(重要だと思っている)点において勝てないという心理……つまり本質的な劣等感が動機になっていて、気持ちの上で感じなくて済むように無意識に話をすり替えているだけです。
一種の「防衛機制」です。
さらに、
という本では、もはや特定の場面とか分野ではなく、また相手すら特定せず無限定に他者一般を否定したり劣っていると決め付けることで自分の優越性を確保、維持しようとする「仮想的有能感」という心理傾向について言及されています。
こういう傾向の人が若年層を中心に増えており、こういう人は単に自分だけでそう思っているだけではなくて、他人からの意見や指摘を極端に嫌ったり、寛容さがなかったり、常に攻撃的になったりすると指摘しています。
あるいは心理学者アドラーが広めた
「優越コンプレックス」
という概念も、要するに劣等感を回避するための無意識的な心理操作と言えます。
ところで、そうは言っても人間は多くの場合だいたいどんな面においても自分自身を平均よりも少し上くらいだと自己認識しているのがふつうだということです。これは自然なことで「優越の錯覚」と呼ばれています。
一種の認知バイアス(感じ方の歪み)には違いないのですが、これは健全なもので、むしろあったほうがいいものです。
精神衛生や情緒の安定の面から考えると、あまり極端でない限り自己イメージとして「優越の錯覚」があるくらいのほうが、過剰に劣等感を持ち続けてしまったり、それが転じて「優越コンプレックス」や「仮想的有能感」に陥るよりはデメリットが少ないのです。
「根拠のない自信」は、きっかけに過ぎない
実は私もある年齢に達するまでは、少なくとも表面上の自意識としては「根拠のない自信」に満ち溢れていたのです。
そんな自身の経験(経験っていうか……単なる黒歴史)を踏まえて考えてみれば
「根拠のない自信があるということは、別にそれほど取り立てて良いことではありませんよ」
と言いたいです。
むしろ、年齢が上がれば上がるほど……根拠のない自信なんてものは何の関係もなくなります。
むしろ、いつまでもそれに頼っていたらほとんどの場合結果的に損をします。それは明らかに不利な面があります。
「根拠のない自信」はいわばナマモノ
根拠のない自信というのは何もせず放っておけば必ず腐る「生モノ」みたいなものです。
つまりそれは賞味期限が過ぎれば必ず
「劣等感を回避するために作った優越感」
に変質せざるを得ないものだと私は思っています。
最初の段階で根拠のない自信があろうとなかろうと……そこから進んでゆく過程はどちらも同じであって、結果的にはあまり大きな問題ではありません。
「自信がない」と悩んでいる人へ
「自信が持てない」という人は……自分を客観的に見てやはり自信を持てるような強みや特徴がないと思うのであれば、これからその強みなり特徴なりを一から作っていけばよいことです。
「自信が持てないから何もできない?」
もし劣等感に阻まれて、いつも他人を怖れていたり、どんな行動についても臆病になったり気力が出なかったりするというような人がいたら……私の経験から言わせてもらえれば、まず、その状態というのは
「変な優越感に浸って何もしない人よりは数段マシ」
だということをしっかり認識したほうがいいと思います。
変な優越感というのは、上で言った「優越コンプレックス」や「仮想的有能感」のような
「劣等感を回避するために作った優越感」
のことです。
あなたは少なくともそのようなムダな鎧をいったん脱ぐという作業をする必要がない。それだけでスタートが相当有利です。
そして、もうひとつは、劣等感でも優越感でもこれは同じことですが、そういうのは、いずれにしろ「感」なのであって、本人の内面的な問題です。
それは
「実際に、あなたが何に秀でていて、何が劣っているのか?」
という客観的事実とはほとんど関係ないということを早く思い知ったほうがいい。
そもそも、あなたが感じているのは「純粋な劣等感」ですか?
仮に純粋な劣等感というものが存在するのだとすれば、それは他人との比較とか、身近なだれかにちょっと言われたこととか、そんなものとはまったく関係ない。
純粋な劣等感とは
「自分がこうありたいという欲望と、今そうではないという現実認識とのギャップ」
そのもの。それしかないのですから。
だから、どうせ劣等感で苛まれている自分がいるのなら、その劣等感をもっと
「純化」
すべきだと、私は思います。
「根拠のない自信」だけがある人へ
あなたがもし、今のところ何の実績も、継続的な努力も有意義な経験も手ごたえもなく、ただ自分の内面だけで
「根拠のない自信」
だけが渦巻いているというのなら、私は言いたい。
その「自信」なるものに甘んじている自分……何の根拠もないのに、自分の内面だけで勝手に「自信」なるものに縋っている自分自身の姿に、そのか弱さに、醜さに、一刻も早く気付くべきだ。
これは自省も込めて。
すべきことは、その根拠のない自信に、こうなったら後付けでもいいから、少しずつ根拠を与えていくこと。
それしかない。
そして、もうひとつ。
これは、
の中できわめて明確に証言されている事実だけれども、人間の能力というのは資質、天性のものであって、初めから差があって固定的なものだという観念(「硬直マインドセット」)を持っているとロクなことはないよ、と言いたい。
あなたのその「根拠のない自信」がどこから湧いて出てくるのかは知らないけれど、人間の能力というのは、その時の環境とか教育や学習方法、その他諸々の体験や、吸収した知識や情報、その解釈や扱い方によって……将来的にはいくらでも向上する可能性がある。
いや、可能性というより必然的に大きく変化するものだと。
そして、そもそも人の能力なんていくらでも成長、進歩できるのだという観念(著書中では
「しなやかマインドセット」
と呼んでいる)のほうが客観的な研究結果にも合致しているだけでなく……。
結局、「しなやかマインドセット」を持っている人のほうが実際に伸びるんだってさ。