さて、前の話に戻るのですが、思考を高速化するという観点から言った場合
「恣意性」
をどう扱うかというのがひとつのポイントなのですが……。
自分のポリシーといったもの、あるいは何かを決定する時の「原則」とか、演繹的に考えるための前提となる命題といったものをあらかじめ決めておくというのは、ある意味で都度の自由な発想や、自分の自由な選択を制限するものなのではないか……と懸念する人もいるかもしれません。
ゼロベース思考というフレームワークも、そういったものをむしろ排除しようとする考え方です。
日常的な気分で考えても、自分で決めたこととは言え、あらかじめ決められたルールとかポリシーみたいなものを常に守るということは
「その瞬間の自由な思考を阻害するもの」
に見えるのではないでしょうか?
個別の状況からの自由
けれども実はある側面から見ると一概にそうは言えません。
たとえば、一見すると強いこだわりとか主義主張を持たない姿勢というのは
「ナチュラル」
「束縛されない」
「無為自然」
「自由な心」
……みたいなイメージなのかもしれませんが、それって逆に言うと
「都度起こる個々の状況に常に影響される」
ということでもあるわけです。
言い換えると、その人は何か個別に必要性が生じたときにしか思考しない、判断しないと言っているようなものですが、本来は
「個別の、特定の対象に付随せずに思考するとき」
のほうがより自由だ、とも言えるのです。
先に思考すべき「対象」があって、その条件下で考えなければならないということがすでに一種の「枠」とも言えるのであり、その思考は対象の中に入り込んだ思考になります。
事例は問題そのものではない
もちろん、より一般的な、抽象的な思考をする場合でも、その過程では何らかの事例や実際的な場面を想起せざるを得ないのだけれども、
「単なる例」
として想起する場合と
「その特定の問題について考えなければならない」
という状況下で思考する場合とではその意味が違ってくるように思えます。
また、ふつうに考えれば、特に制約のない冷静な精神状態で思考したほうが自由でしょう。
実際に問題や課題が発生している状況下では、精神的にも緊張度が高まるはずだし感情のコントロールも必要になる……それだけでも何もない間に考えているよりも不自由です。
このように、すでに問題に直面しているときというのはどうしてもその事柄によって思考が制限されます。
恣意性についての選択というのはメタ思考
自分の価値観とか、判断の規準や方向性について考えるというのは、何か具体的な問題について思考するという次元と比較するとメタ思考に当たります。
私は、純粋な思考をする場面で同時にメタ思考することが、思考の負荷を増加させて問題をややこしく見せる原因だと思っています。
前に言った例のように、数学のテスト中にその問題を解く意義とか価値とかを考えてしまうのと同じようなもので、その思考のやり方は少なくとも今直面しているその問題の解決にとってはノイズということもできます。