今、思考という側面から考えてきたわけですが、一例として
「会社などで、上司の指示を受ける」
という場面のことを考えてみたいと思います。
パッケージ・タスクの場合
会社で上司から指示されて行うような業務というのは、そもそもが
「パッケージ・タスク」
です。
それは上司から与えられている「問い」であって、その目的も大まかな手段についても上司がすでに想定しているはずだからです。
自分自身が立てた「問い」ではないからです。
そこで求められていることは上司の想定通りにそれを行って、結果を提出、報告することです。
純粋な思考
もちろん、指示通りの結果に至るためには、自分で調べたり考えたりする必要は生じます。
ただ、そこで行うべき調査や思考とは、与えられた指示をこなすための方法を見出して、最善のもの(それはたいていの場合、すでに上司が想定している内容に沿ったもののこと)を選択するために行うにすぎません。
つまりそこで必要なのは本来は「純粋な思考」つまり
「認知」
↓
「分析」
↓
「選択」
だけです。原則として。
あとはそれに沿って実行するだけです。
そうなると実はポイントははっきりしています。
まず問題の「認知」については、上司の意向を明確に把握することに尽きます。
たいていの場合、他人から指示される内容というのは試験問題の「問い」ほど正確性が担保されているわけではないし、受け取りようによってずれが生じる可能性があります。
次に「分析」に進みますが、その業務を進めるにあたって自分が考えている手段、方法が上司の想定した範囲のものであるかどうかを確認する必要があるでしょう。
これは進捗を都度報告することとは少し違います。
繰り返し行っている慣れた作業ならほとんど気にしなくても大きく外すことはないでしょうが、不慣れなものについては実行に着手する前にまず
「自分が挙げ得る手段、手順」
を調べるなり聞くなり考えるなりしてすべて検討したのちに、それが上司の考えているものと一致しているかどうかを確認するという一種の「手続き」を入れることがポイントです。
これは実行する直前にです。
正解は「内容」に関するだけではない
……ただし、あまり厳密にやろうとすると
「それくらい自分で考えろ」
などと突き放されたりすることもあり得ます。
これは実は上司の意向を完全には汲み取れていないからです。
こういう時、おそらく上司はこのように想定しているのです。
「それにはなるべく時間をかけたくない」
「結果についてもクオリティを要求しない」
「それよりスピード優先だ」
……とかね。
たとえば、結果についてそんなに気にする問題ではないというのもひとつの「意向」です。
そっちが正解だったわけです。
最初に指示を受けた時点で、そこを認識できていないと、わざわざ確認しに行ったのに追い返されるというような状況が起こるわけです。
パッケージ・タスクでない場合
ただし、上司から指示されることがパッケージ・タスクではない場合もあり得ます。
たとえば社内や部署内で、前例のない問題や課題が発生し、その解決を一任されたときや、上司自身がそれに対する具体的な策や解決方法を想定できていない時などです。
このような場合には、自らそれをパッケージ・タスク化する必要が生じます。
恣意性の入り込む余地
今直面している問題が他者から与えられたパッケージ・タスクかどうかという点は意識すべきです。
多く見られるのは、パッケージ・タスクとして提示されたにもかかわらず、そこに
「恣意性」
つまり自分の意向や指向を過剰に反映したいという衝動に駆られやすいということです。
これは一種の錯誤とみなすことができます。
もちろん、そういう場合でも若干裁量は残されているかもしれないけれども、基本的にもともと他者の意思に基づいて解決すべきパッケージ・タスクだったら恣意性の入り込む余地はあまりないのです。
むしろ実は、上で述べた「上司の意向」というのには、上司自身の恣意性が含まれています。
学校で行われる試験の問題との一番大きな違いは実はその点にあって、それを把握できないと自分では指示通り着実に行ったつもりなのに評価されないといった事態にハマりがちです。
仕事に慣れないうちは結果や内容の正しさのみが「正解」だと考えてしまいがちですが、実社会では純粋に理論上の正解だけが求められるわけではありません。
事実上の正解は、顧客やステークホルダーといった相手の「恣意性」を汲み取り、満たせるかどうかという点のほうにある場合も多いわけで……問題は往々にして
「恣意性の衝突」
にあるわけです。