人間はだれでも、
「絶対的な真実」
みたいなものを知りたいという欲求を持っていると思います。
あるいは、今悩んでいる事柄とか、これからやろうと思っている事柄について
「絶対に間違いのない最善の方法」
をあらかじめ知りたいという気持ちが起こります。
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しかし、現実にはもしそういうことを求め始めると自分の思考そのものがどんどん頼りないものに感じられてしまうでしょう。
人間が基本的に言葉によって思考している限り、その結果に絶対的な完全さを求めることは原理的に不可能だからです。
完全さを求めるのは他者依存の表れ
別の面から言うと、実は「完全な答え」とか「唯一の正解」とか、そういうものを執拗に求めてしまう心理は
「他者依存」
から出てくるものとも考えられます。
たとえば、問題に直面したときすぐに他者からの助力を求める気持ちが出てきます。
他者依存の傾向が強い人は、むしろ他人の助力を得られるのは当然の権利のように感じていることも少なくありません。
十分な助力が得られないと、何か自分が
「不当に扱われている」
「軽んじられている」
……というふうに感じてしまうのです。
さらに、仮にだれかの助力を得られた場合に、その助力に対して
「完全さ」
を求めてしまいます。
相手があなたのためにしてくれたことに多少とも不備があったり、期待に沿わない部分があったりするとそれをことさらに取り上げて相手を責めたりします。
あるいは、あなたが困っているのでだれかがその解決策を教えてくれたとすると、もしその通りにやって上手くいかなかった時には、それを教示した相手に非があると考えて強く非難したりします。
完全な答えには到達し得ない
思考によって「完全な正解」「究極の真実」といったものに到達できると考えるのは不毛です。
それを他人に求めるのは無意味ですし、それを自分自身に課すことも無意味です。
なぜなら、人は思考によってそのようなものを見い出すことが無理だからです。
もっと言うと、もし完全な答えというようなものがどこかにあるなら、人間がいちいちそれについて思考する意味が存在しないことになります。
つまりそれだと思考が必要なくなるのです。
もちろん、
「現在選びうる最も妥当な選択肢」
「理論上最も確率の高い推測」
とか、いわゆる
「最適解」
「納得解」
……といったものを求めることならもちろんできます。
そして、それを自ら選び、その自分の選択について責任を持つことならもちろんできます。
つまり思考するという行為はその対象がどんなものであれ常に
「自分のこと」
であって、そこにだれかが介入しているときには必ず依存しているということになります。