外界から入ってくる情報、または頭に浮かんでくる都度さまざまな想念や言葉の中で、直接的に思考という行為の発端となり得る対象をここでは

「気付き」

と呼ぶことにします。

要するに、意識上に現れる情報のうち

「思考の材料となるもの」

のことです。

これを逆から言えば、ふつう思考の契機となり得るのは

「気付き」

あるいは先に述べた

「パッケージ・タスク」

の2つということになるでしょう。

ここで、それがパッケージ・タスクである場合、そこには必ずすでに準備された「解答」があって、それを前提に思考することになるのが特徴でした。

しかし、一般に言う「気付き」というのは、必ずしもそうではありませんね。

単にふと思いついただけ……というような場合でも私たちは「気付き」と呼んで違和感がないかもしれません。

そこで仮に、いわゆる「気付き」というものの場合にも、思考に至るには何らか解答に当たるものがあるべきだと想定してみることにします。

ただしこの場合に想定される解答というのは、テスト問題の回答のような調和的、擬似的なものではなく、実際に自分にとって意味を持つ実用的なものでなければならないでしょう。

実用的な気付き

ところで、自分にとって実用的であるとはどういう意味でしょうか?

言い換えれば思考の目的とも言えますが……。

そう考えると、それは大きく分ければ2つ、つまり

① 行動に反映される選択
② 内面的な変化に反映される命題

のどちらかでなければならにということになるでしょう。

目的のある思考

思考というものを、その結果として何らかの行動や内面的な変化を生むために行う活動だと限定的に位置付けるならば、仮にいったん問題意識を持ったとしても、それが結果的に実際の行動または内面的な変化に至るという自覚がない限りは思考の要件を備えていないものとみなすことにします。

すると、たとえばテレビのクイズ番組を見るときのように娯楽として問題を解くというような場合や、興味に任せて何らかのテーマについて単に思いを巡らせたりする場合などは……厳密にはここで言っている意味での思考とは呼べないことになります。

このような、一般的には思考と呼ばれる中でも結果として実用性が見られない類のものをここでは

「思考遊戯」

と呼ぶことにしましょう。

私たちが一般に言う思考には

① 目的のある思考

② 思考遊戯

の両方が含まれているのです。

「気付き」だけでは行動できない

すると、日常一般的に「気付き」と呼ばれるものの中には、結果的には思考遊戯に終わるだけのものも多く含まれていることに気が付くと思います。

すべての「気付き」が目的ある思考につながるわけではないのです。

むしろ、私たちはおそらく強く意識していなければ日常的に起こる「気付き」のほとんどを思考遊戯に終わらせてしまっているのではないでしょうか?

思考遊戯の必要性

……ただし、だからと言って思考遊戯はまったく無価値だというわけでもありません。

それは学校の勉強と同じようなもので、いわば目的ある思考を実践する以前のシミュレーションのような役割があります。

また同時に、それは単純に娯楽的な要素もあります。

実は、以前の記事で述べた

「純粋な思考」

の流れ、つまり

「認知」

「分析」

「選択」

というこの流れだけで言えば、それには思考遊戯も含まれてしまいます。

ただ、もしあなたが単に思考するだけではなくて、特定の行動に繋げたいとかの「目的」を意識して、そのために思考するというのであれば、ここでの

「選択」

というのは

① 行動に反映される選択
② 内面的な変化に反映される命題

のどちらかであるべきだということになります。

すると思考遊戯と本来的な意味での「目的ある思考」とは、別のことであると明確に切り離しておくことが必要でしょう。