自己啓発は気持ち悪いとか、怪しいとか感じている人がたくさんいます。
特に、いわゆる自己啓発セミナーと呼ばれるようなものや、その受講者、参加者に対する世間の目は冷たいように感じます。
むしろ多くの人は
「なんか胡散臭い」
「なんか気持ち悪い」
「洗脳されてるみたい」
……という印象を持っているのではないでしょうか?
常識的感覚
もちろん、これはある意味ではごく常識的な感覚とも言えます。
または、自己啓発じみた話題を熱く語っている人や、自己啓発本をたくさん読んでいることが判明すると、とたんに
「気持ち悪い!」
「ヤバい人!」
というレッテルを貼る人がいます。
それまでふつうに和気あいあいと話していたつもりだったのに「自己啓発」という言葉を聞いたとたんに、相手の視線が気持ち悪いものを見るような冷たいものに変わっている……少し傷付きますよね(笑)
人は「本気すぎること」に違和感を持つ
確かに外側から見るイメージでは、個人向けのセミナーや個別のカウンセリングといったものはしばしば、本人の通常の精神状態や思考を惑わせたり、お客を故意に依存させたりすることによって金を取ろうとしているように見えることがあります。
おそらく、事実そういうのもあるでしょう。
あるいは、決して騙そうとか思っていない善意のセミナーですら、端から見るとそう見えるという場合もあります。
ところで、今は主催者側のことはさておき、とにかくそういったものに通っている人、積極的に参加している人に対して
「そういうものにハマってる、そういった被害にあってる、ということがもう恥ずかしいというか、ちょっと変っていうか?」
……という感覚は正直あります。
ただし、私の感覚ではこれには
「自己啓発というものに対する気持ち悪さ」
「セミナーなどに通っているということの気持ち悪さ」
の両方が含まれているようにも見えます。
たとえば
「英会話スクールに一生けんめい通っている人」
「スポーツジムに足繁く通っている人」
「資格取得のために、会社が終わった後専門学校に通っている人」
……を見た場合でも、人によっては
「そこまでしなくても……」
「超必死だよね……」
というように批判的に、あるいは嘲笑的に見る人は実はけっこういます。
現在ではそれほど抵抗感がなくなっている人も多いかもしれませんが、そういう活動に関心がない人から見ると、そういった人もある意味十分
「変わった人」
なのです。
この違和感というのは、実はその対象の問題だけではなくて、やっている人の
「本気さ加減が度を越しているように見えること」
に対するものです。一つの特定の対象にあまりに本気で、必死で取り組んでいるというそのことに「気持ち悪さ」を抱くわけです。
もちろん、その人が本気でやっている対象が自分にとって馴染みのないものだったり、理解の難しいものだったりすればその気持ち悪さは倍加して見えることになるでしょう。
他人に押し付けようとする感じ
気持ち悪さの原因として次に挙げられるのは、そういった知識や意見を、本人は当然に正しいもの、良いものと思って
「他人にも強く勧めてくる」
傾向があることです。
多くの場合、本人は単に自分の考えを話しているだけだったり、場合によっては善意や好意で他人にも勧めたりするわけですが、聞かされているほうは
「やりたきゃ勝手にやってくれ」
「俺まで巻き込まないでくれ」
という気分になります。
セミナーとかじゃなくても、自己啓発本が好きで乱読している人などにもそんな印象を受けることがあります。
しかも、よくある反論ですが、もし本人が言っている通りだったら
「おまえがすでにもっと立派な人間になってるはずだろ?」
「それが本当ならおまえはとっくに成功してるはずじゃない?」
という話になります。
何らかはっきりした結果なり変化なりがすでに出ている人に言われる話ならまだしも……単に話していることがほとんど明らかに本で読んだことの受け売りだったりすると、相手がそれを強く進めてきたり、押してきたりすると気持ち悪いというか、居心地が悪い感じがするのです。
自分の意思ではないような印象
そのような人の話を聞いていると、本人が話している言葉がなぜか本人の意思で言ってるように思えないんですよね?
「それ、絶対自分で考えたんじゃないだろ?」
という感じがします。
要するに、洗脳されたんだか、自分からハマってしまったのか分かりませんが、どちらにしても言っていることがその人自身の考えではなくて
「言わされている感」
があるんですよね?
それはまず、使っている単語に日常的な使い方とずれた特殊な意味を持たせたり、表現の仕方が他人からすると妙に作りものっぽかったり大げさだったりするからです。
しかも、本人がそれを一生懸命に伝えようとして熱心に話せば話すほど
「何か別のものに憑りつかれてしゃべらされてるんじゃないか?」
……というような印象になります。
たとえ、いくら良いことを言ってても、というか言っている内容とかよりも先に、
「それって、君の本心なの?」
というような気持ち悪さがあるとほとんどの人は内容以前にシャットアウトしてしまうので、結果としていくら話しても理解してもらうことはできません。
しばしば自己啓発セミナーと新興宗教とは一緒くたに語られますが、確かにこの部分では共通するところがあります。
そして、この意味での気持ち悪さというのは、私も妥当な感じ方だと思います。
しかし、私自身は、こういう相手には、あまり反感を抱きません。むしろ、
「ボクのこと心配してくれてるの? ありがとう」
という気持ちになるでしょう。
つまり、その人はきっと悪意があるのではなくて、むしろ好意を持って言ってくれているのであって、その人を責める気にはなれないのです。
しかし、それを言っている人の気持ちや感情のことと、その言っている内容をどう解釈し、判断するかというのは実はまったく別の問題ですね。
全員が「自分がふつうだ」と思っている
一方で、すぐに
「気持ち悪!」
という人の中には、単に
「ふつうの人と違う」
「自分や、自分の身近にいる人の感じ方と違う」
という印象だけで言っている人もいるかもしれません。
そうなるとちょっと注意が必要です。
単に自分の考え方や感じ方と違うというだけで彼らを気持ち悪がっている人がいるとすれば、そういう短絡的な物言いをする人を客観的に見ると、実はその人も気持ち悪いです。
人は経験や背景のない事象に怖れを抱く
人間はふつう、たとえ科学的にははっきり確定していない事柄でも、長きに渡って多くの人々に信じられていることってあまり違和感なく受け入れられますよね?
世の中には、最近になって覆されたいわゆる「迷信」というのもたくさんあります。
でも、たとえそれが事実としては間違いであっても、ほとんどの人がそれに対して別段
「気持ち悪い」
「怪しい」
といった強い拒絶を示すことがありません。
なぜかというと、おそらくそれがすでに長い歴史や伝統に支えられて人々の中に定着してきたものだからです。
しかし、自己啓発の情報というのはその性質上、むしろ過去多くの共感を得ているような知識や常識を否定するところにその価値があるものです。ある意味、そのことを「啓発」と言うわけですから。
自己啓発の情報は必然的に一般的な考えからすると非常識な主張になりがちだし、それまでの常識から見ると受け入れないものになる傾向を最初から持っています。
このことが、気持ち悪い感じや怖さを抱かせるのです。
つまり歴史や慣習、あるいは多数による共通認識とか、そういう地盤となるような前提がないことが、それを忌避する心理を生み、それを「気持ち悪い」と表現しているわけです。
もしこの場合であれば、これは結局
「現状の認識が破壊される」
あるいは
「現状の身近な人間関係や枠組み」
「特定の身近な人の人格」
などが変化することについての原初的な怖れにすぎません。
もしその意味で気持ち悪いと言っているとすれば、これはつまりは
「現状維持的思考」
「自己保身的思考」
の吐露ということになります。
要するに逸脱が怖いわけです。
これは、私から見ればあまり良い考え方とは思えません。
あるいは、その感じ方、考え方の是非は置いたとしても、そもそもそういった考え方は「自己啓発そのもの」と馴染まないもので、いわば的外れな指摘に見えます。