知識や情報というのは、お弁当のおかずのように一番おいしいものを最後まで取っておくのは逆効果です。
結局のところ
「いずれ使うかもしれない」
というのは
「今使わない」
ということであり、私たちは
「今使わない情報は不要だ」
というある種の覚悟みたいなものを持つ必要があるのではないでしょうか?
記録の意味
ところで、ふつう
「記録をとる」
というのはそのことを忘れないためにする行為だと考えられています。
もちろん間違っていないのですが、実は逆に
「いかに不要な情報を捨てるか」
という意味でも記録することは有益な方法論なのです。
つまり、忘れるための記録です。
たとえば今すぐに扱う理由がない情報やアイディアなどをノートか何かに書いたりしてから意図的に放置します。
備忘ではなく、書き残すことによって自分の意識の表層に置き続ける必要性をなくしてしまうわけです。
この、書いて忘れるという方法は慣れるとけっこう有効だと思うのでおすすめします。
記録とは、一面では「記憶の処分」のことなのです。
メモを探したくなる心理
ただし、しばしばこんな場面があり得ます。
「あれ、確かメモしたはずなんだけど、どこだったろう?」
だれでも、一度手に入れた情報や、思い付いたアイディアなどがあると、その情報に依存しようとする傾向があるのです。
たとえば、ちょっと気になった話をその辺の紙片にメモして引き出しに入れたとします。
何日かたって、だれかと話しているときにそれと似たような話題になったら
「あ、ちょっと待って」
とそれを思い出す可能性は高いです。
前にそのことについて聞いたような気がする、というだけの理由で執拗にそのメモを探し出そうとした経験がありませんか?
……ですが、そういうときに自分では関連があるメモだったはずだと思っていますが、必死に探して見つけたところであらためて見ればそれはたいてい単に話題のひとつという以上の実質的な意味を持たないものである場合のほうが多いのではないですか?
でも、とにかく探し出してもう一度見たいという衝動に駆られてしまうのですね?
人間はこのように、過去知った情報を捨てるということがなかなかできないものなのです。
情報のごみ箱
書いて忘れるとは、今書いたその情報は基本的にもう使わないということを自分に分からせることです。
万が一必要になったとしても、その場合にはその記録したものを探すのではなくて、その情報の入手先をもう一度当たってみるほうが有意義です。
むしろ必要なのは情報そのものを保管しておくことではなく、適切な情報の入手先を自分なりに確保しておくことです。
たいてい、今度使おうとする時には自分が保管しておいた情報よりも、すでに更新されたより新しい情報のほうが有益なはずです。
入手先が分かっていれば結果的により新鮮で有用な情報が目の前に現れるのです。
自分が過去に見た、聞いた、考えた、という記憶があると人はそこに戻ろうとするのですが、戻ったところでそこにはもう生きた情報はなく、ただ懐かしい気分が発見されるだけです。
つまり、大事に書き留めておいた古い情報に戻るのは思考よりも「耽り」につながりやすいのです。
ところで、私たちは忘れるべき記録と、備忘のための記録を同じ場所に一緒くたに保管しがちです。
意識の表層をクリアにしておく……と考えると、後で使うと思われる記録のストック自体を最小限に整理して、忘れるための記録として区別したほうが分かりやすいでしょう。
この辺りの心理を踏まえて自分のメモ術、ノート術を再構築してみるのも良いかもしれません。