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蜘蛛の糸(芥川龍之介)の感想が変化する理由

蜘蛛の糸、カンダタ

芥川龍之介の蜘蛛の糸という話の構造というか前提として、ふつうに考えるならばお釈迦様は絶対善であるというのは動かせませんよね?

この話を読んで感想を言おうとすると、せっかくお釈迦様が救いの糸を垂らしてくれてるのに、それをムダにしてしまうカンダタのほうが圧倒的に「悪」だという前提で考えるしかないです。

蜘蛛の糸のあらすじ

大罪人のカンダタという人が地獄の血の池で苦しんでいます。

ちょうどその真上に極楽の池があって、お釈迦様がその池から下を見てカンダタを見つけます。

お釈迦様は、カンダタが一度だけ一匹の蜘蛛を助けたことがあるのを思い出して、助けてやろうと池にいた蜘蛛の糸を取って地獄まで垂らしました。

カンダタがその糸をつたって登ってきます。

ところが、地獄にいた他の罪人たちも糸に気付いて登り始めます。カンダタはそれを見て糸が切れてしまうと心配になり、他の者たちに下りろと叫びます。

その瞬間に糸が切れ、カンダタもろとも全員がもとの地獄に落ちてしまうのでした。

……というお話です。

善悪に対する疑念

だれもが子供のころ一度は読んだり聞いたりしたことある作品。

なので、ほとんどの人がうろ覚えかもしれないけど、この話自体は知っていると思います。

しかも芥川龍之介の多くの作品の中でも、非常に映像的でインパクトがある作品なので、多くの人の心に残りやすいですよね?

ところで……最初の記憶が定かじゃないんですが、私はこの話をたぶん小学校のころ学校放送で聞いたような気がします。あるいはテレビだったかもしれませんがよく覚えていません。

それで、なんか腑に落ちなかった。

それでその後少したってから、おそらく中学生になって以降だったと思いますが図書館で読み直したことがあるんです。

とにかく、子供心に私は思ったんです。

「たった一度、蜘蛛を助けたからと言って、大罪が免除されるなんておかしくない?」

って。

おそらく、この物語を読んだ多くの人に似たような疑問というか、違和感が湧き起ったのではないかと私は推測します。

……考え出すとどんどん疑問が湧いてきます。

「なぜ、カンダタだけを助けるの? 不公平じゃない?」
「どうして蜘蛛の糸などという切れやすいものを使うの?」
「お釈迦様は本当は助ける気がなかったのか?」
「他の人も登ってくるのは当然じゃん」
「糸が切れそうって思うのも当然じゃん」
「それのどこが悪いの?」
「それで助かる機会を失うなんて、おかしくない?」

とか……。

あなたもそんなこと考えませんでしたか?

少なくとも、この話ってなんか変だなあとか感じませんでしたか?

感想文を書くとすれば

ふつうはカンダタというのは、むしろ人間というもの一般を代表するものという前提で読まれる場合が多いでしょう

だから、通常この話は、人間の愚かさや不完全さを自覚するべきだとか、それでもできるだけ善行を積むべきだとか、改悛の機会を逃してはいけないとか……という教訓を含んでいるという感想になるのが一般的です。

つまりは、蜘蛛の糸という話はふつう、あくまで

「人間の側」

の問題を扱ったものとして語られるのです。

たとえば小学生の読書感想文としてならば別にそれはそれでもいいんですけど……というより、たいてい蜘蛛の糸という話の解釈のしかたは年齢とともに変化し複雑化していくことになりますが、仮に子供心に漠然とした疑問が浮かんだとしても……それを文章化するような技量は小学生くらいの子供では持ちようがなく。

結局は、小学生なりのいわば

「模範解答」

のような書き方をするしか書きようがない、と言ったほうがいいかもしれません。

「絶対的な善」という前提

ふつうこれを読む人は最初、お釈迦様(のような、常に絶対的な善の立場にいる存在)がいて、他方に、そうではない側の存在=人間がいる……という構図を想定して読みます。

要するに、最初はたいてい

「善悪二元論」

を前提において感想を考えるのです。

ただし、それはおそらく、別にこの話がそういうふうに誘導してるわけではなく、むしろ多くの人が従前から二元論的な観念を持っているためです

特に、この話を知る時期である小学生くらいの子供たちなどはごく素直にそれを当てはめようとすることになるでしょう。

で……仮にそれはそれとして理解できるとしても、多くの場合、心の中では当然、さきほど上で書いたような疑問が湧いてきます。

要するに

「お釈迦様の行動も何かおかしくないか?」

という点ですよね。

……たぶん、そういう疑念が浮かんでくるほうが自然だと思います。

子供のころは疑問として心に浮かんだだけでしたが今あらためて考えると……この手の疑問というのは結局

「お釈迦様のほうに問題がある」

あるいは、

「そもそも天国と地獄、というシステムに問題がある」

と主張しているのと同じなんですよね。

絶対善への反発

つまり、子供の時には言葉ではっきり言えなかったのですが、結局私は子供心にこう感じていたと思うんですよ。

「お釈迦様のくせに!」
「その力があるくせに!」
「もっとちゃんと助けろよ!」
「これじゃあ、カンダタのほうが被害者じゃないか!
「カンダタの権利が奪われちゃったじゃないか!

という感じ方です。

あるいは、

「そんなことするのなら、初めから地獄なんて作らなきゃいいじゃん!」
「だれだって一度くらい善いことしてるだろ!」
「ルールがおかしいじゃん!」

という心の声なわけです。

もっとはっきり言うと、人間のほうを部分的にでも正当化して、お釈迦様のほうにも非があるということにしたい……という意味になります。

これはつまり、無自覚にしろ、善悪という観念について二元論を崩して相対論に移行しようと試みているということなのです。

子供のころの私は、いわば

「善の絶対性を否定して、それを相対論に持っていこうとしていた」

わけです。

このように、蜘蛛の糸に対する感想や解釈が年齢とともに変わっていくというのは、
善悪という観念自体が変化していくというのとリンクしているように思います。

善悪の観念からの離脱

まず、とりあえず前提条件としてお釈迦様は「絶対善」であるということを固定して考えるとします。

……蜘蛛の糸などという危うく脆いものを使ってカンダタを助けようとした(……というより、助かるかもね? という感じでちょっとチャンスをくれた)ことも、それ自体がまったく瑕疵のない「完全な善」であると仮定しましょう。

他方、カンダタは?

まあ、こいつは常識的な意味で言ってもどう考えても「悪人」として描かれています。

でも、すでに述べた通り

「善悪二元論」

を前提にすれば、カンダタというのは

「すべての人間の代表」

であって、どうやっても善になり切れない部分が含まれているのは他の人間だって同じだ……というふうに、ふつうは自然に解釈することになるのです。

ところが……たいていだれでも、どこかの時点でこの前提自体が必ずしも正しくないということに自然に気付くわけです

お釈迦様という存在を前提にすれば、お釈迦様以外の人間たちは自動的に「悪」ってことになる……と考えるから二元論になるわけで、実はこの立場がすべてではないのです。

私個人の印象としては、お釈迦様のような絶対的な圧倒的な善が想定されるならば、むしろ、それ以外のものを自動的にすべて悪とすることのほうに無理があるというか、抵抗を感じます。

「だって無理に決まってるじゃん!」

……って言いたいです。

これはたぶん蜘蛛の糸という作品の中だけの話ではなくて、多くの人がいわゆる「宗教」や、一部の古典的「哲学」などに対して感じる抵抗や反発と同じ種類のものです。

ここでもちろん、絶対的な善とか悪といったものは

「そもそも存在しない」

という結論に持っていくことも可能です。

これがいわゆる

「相対論」

ですね。

「万物は流転する」
「諸行無常」

といった観念と相通じるところもあり、ある意味でより仏教的な感覚に近いということもできます。

世の中の物事のほとんどは善でも悪でもない

ただし、今の時点では私はそれとはまた別の観念を持っています。

というのは……実は、絶対的な善といったものが存在することを特に否定する必要すらないのです。

なぜなら、仮にそれがあったとしてもそれは単に

「絶対的に善だと言えるような事物の領域が存在するだけ」

だから。

そして、絶対善は善でいいのだけれども、また絶対悪というものが存在するならそれは悪でもいいのだけれども、そんなこととは無関係に、人間の行為というのは大部分が

「そのどっちでもないもの」

なのだ……と考えることもできるからです。

そして、実際にはそのほうが人間にとって自然なわけです。

これをあえて名付けるなら

「ふつう」

と呼ぶのがいいかもしれませんけど。

でも、あえて「ふつう」とか言って、名付けたり範囲を区切ったりするというのは善とか悪という領域を念頭に置いた言い方であって、実はそれ自体がほとんど意味のない概念であるというのが私の感じ方です。

「善とか悪とか」から離脱する

私が今問題にしたいのは、何が善で何が悪なのか……といったことよりも、そもそも

「自分の思考や判断に常に善悪の観念を持ち込むという習慣」

についてです。

これって、しばしば自分の行動や、あるいはその前段階として具体的に何かを思考することを

「止めている」

ことがあるんですよ。

すなわち

「メンタルブロック」

というヤツです。

具体的な内容以前に、そもそも自明だと思っている前提的な観念として、物事は善いことと悪いことに分かれるって感じを持っていること

それはつまり、自分が何をするにせよ

「これは善いことなのか?」
「これは正しいのか?」

ってまず考える。それが自分の中である程度納得できないと先に進めない。

このこと自体がメンタルブロックだと私は言いたいわけです。

もちろん、自分なりに考えて

「悪いことだ」

と思っていながら行うのは論外です。

しかし、そうではないのにいつだって、別にどこが問題だとも思わないのに、それでも

「これは本当は悪いことなのではないか?」
「これは本当に悪い面が含まれていないか?」

ってよくよく吟味しないと心配でならない……そして

「そんなことは絶対ない。これはだれがどう考えたって善いことのはず。間違ってなんかいない」

……って、いちいち自分を納得させなければならない傾向、これ自体がすでにメンタルブロックなのだと言っているわけです。

少なくとも私は自分で振り返って、いつもそういう思考の傾向があったように感じるんです。

この点を私にはっきり気付かせてくれたものこそ芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品だったんですね。

何度か読み返す機会がありましたが、その都度まったく異なる次元の新しい発見をくれる不思議な作品だなと感じます。

実はメンタルブロックを外す作品である

芥川龍之介の作品というのは、蜘蛛の糸に限らず……一見古典風で、伝統的な価値観に沿っているように見えるけど、考えを深めていくと実はそこに鋭い「否定」や「懐疑」が見て取れるというようなところが時々見られる気がします。

そういう意味で言うと、いわば

「自己啓発的な?」

イメージがあります。私だけかもしれませんけど。

【武田鉄矢】芥川龍之介のスゴすぎる話
「蜘蛛の糸」― 武田鉄矢さんの見解がおもしろい。

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