自己啓発として何かしらの活動を始める前に、あるいは直接に自己啓発的な情報に触れる前に、まず
「自己啓発」
という言葉の混乱を避け、あなた自身にとって自己啓発という言葉が意味するものを自分なりにはっきり定義しておくことをは有益です。
これは強い問題意識や願望を強く意識している人ほど必要になります。
あなたにとっての自己啓発、が大切です
ふだんはあまり考えませんが、
「自己啓発とは何か?」
つまり、自己啓発という語が
「自分にとって」
何を意味するかということをじっくり考えてみましょう。
こう、あらためて問われると意外に困るものです。
前に書いたように、自己啓発と名の付くさまざまなものの中には、確かに少し危うい部分も含まれることは確かなんです。
かといって、自己啓発と名の付くものは全部嫌! 全部ダメ!
……というのも変な話ですよね?
自己啓発とは、自己がすること
「あなたにとって自己啓発とは?」
その意味が曖昧なままだと羅針盤のないまま船をこぎ出すようなものです。
ここでは一般的な説明に加えて私の視点も含めますが、でも結局のところ自己啓発とは
「自己を啓発すること」
なのですから、
「あなたにとっての」
というのが大切です。
一般的な自己啓発の定義
まず、ごく一般的な意味では自己啓発という言葉は
「自己学習」
「スキルアップ」
といった言葉とほぼ同じ意味で使われていますよね?
特に社内研修の一環として紹介されるような場合には当然のように仕事に直結する内容が重視されることになります。まるで、学校に「部活」が存在するのと同じ感覚で、会社には「自己啓発活動」がある、といったイメージを持っている人が多いかもしれません。
あるいは、自己啓発本コーナーにあるような本を手に取るのも、その動機の多くは「問題解決」か、または「スキルアップ」が動機である場合がほとんどでしょう。
しかし、Wikipediaによれば自己啓発とは
「自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為」
となっています。
では、ここで言う
「高い段階」
って何ですか?
とにかく、若干、ニュアンスが違いますね?
啓発とは?
今ひとつしっくりこないので、じゃあそもそも
「啓発」
とはなんだ……と思って調べてみると、辞書には
「無知の人を教え導き、その目をひらいて、物事を明らかにさせること」
とあります。
そもそも啓発という語は論語にある
「憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず」
という句から取った熟語なので、この句はどういう意味なのかと考えると
「意欲や情熱があり、自分で考え抜くことのないような人には、教えてあげないよ」
というようなことです。
なので、この意を汲むとすれば啓発という言葉は単に何かを詳しく教えることとか学習すること……に留まらない、その先が問題だというようにイメージできるでしょう。
経験や学習を積み重ねるところから、ある種の
「飛躍」
が起こって、どちらかというと一気に視野が開けるような意味での
「気付き」
が起こるということです。
それを与えることを「啓発」と呼んでいるわけです。
自己啓発の「自己」とは言うまでもなく自分ですが、さっきの論語の意を汲むなら
「自分の意思で」
「自ら主体性をもって」
啓発を得ようとすることを自己啓発と表現するのが良いかもしれません。
以上のようなことを含めれば、Wikipediaにある自己啓発の定義
「自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為」
にもぴったり合致してくるわけですね。
個人におけるパラダイムシフト
私の感覚で少し言葉を加えるなら、啓発とは視点や認識や考え方の
「次元を上昇させようとする行為」
と表現できます。
または、もっと現代風に言うなら、
「個人レベルにおけるパラダイムシフトのこと」
という表現が良いかもしれません。
パラダイムシフトとは、端的に言うと
「発想の転換」
のようなことです。今まで当然と思っていた考え方とか価値観が、まるで革命でも起こったかのように劇的に変わることを意味します。
ふつうパラダイムという言葉は、特定の業界内にある既存の観念とか、あるいはその時代の社会通念といった「全体に流れているもの」について使うことが多いと思いますが、自己啓発という行為を通して個人の内面で起こっていることはまさにそれと同じようなものです。
ですから、自己啓発というのは
「自分の意志で自己の内面にパラダイムシフトを起こすこと」
です。
私はこのようにイメージしています。
啓発とは「シフトする」ということ
自己啓発というのは、個人レベルにおけるパラダイムシフトのことです。
でも、そうすると定義の上で重要になるのはむしろ
「シフト」
の部分です。
「シフト」というのは、日本語で言えば「移行」「転換」というくらいの意味ですね。
もう少し詳しく言えば、目的や対象が変わったときに、その変化に合わせて今まであった配置や体制、枠組みやルールなどを組み替えるという感じです。
パラダイムシフトという場合にも、それはどんなパラダイムから、他のどんなパラダイムへとシフトしたのかという「内容」は定義上はあまり関係ないということになりますよね?
意味的には、何であるにせよ「何らかシフトした」というところが重要なわけです。
つまり、啓発というのはパラダイムの内容や種類を問題にしているのではなく、それが別のものに
「シフトするという現象」
に焦点を当てた概念なのだと私は理解しています。
すると、非常にすっきりと理解しやすいのではないでしょうか?
啓発の原因を特定することはできない
では実際にそれが何によって引き起こされるか?
つまり、何をすれば自己啓発になるのか?
何が自分にとってのパラダイムシフトを引き起こすのか?
……ということがより重要で、それを知りたいと考えるわけですが、実は、これをあらかじめ予測することはほとんど不可能です。
啓発されるパラダイムは内容を問わないのです。同時に、シフトを引き起こす要因もまた、あらかじめ特定することは原理的には不可能なのです。
たとえば、学童期または学生時代、学校で習うことはある意味ではすべて自己の成長に役立つことですよね?
もちろん、クラブやサークルといった課外活動もそうですし、自由に遊んでいる中でも学んだことはたくさんありますよね?
……後から振り返ればこれは明らかです。
実はそれらの記憶や体験はすべて啓発の材料となる可能性があり、それをあらかじめ特定したうえで準備するなどということは教育や指導を行う側にとっても相当難しいことでしょう。
ましてや自分自身が過去に知ったこと学んだことの中で、どれがあなたにとって決定的な啓発の要因となったのかを正確に言い当てることはほぼ不可能です。
もちろん、自分の記憶の中では非常に重要だと思っている言葉やエピソードがいくつか特定できるかもしれません。
しかし、自覚できるのはおそらくごく一部でしょう。
また、それが本当にあなたにとって決定的なものだったのか?
自覚できていない別の理由や背景が存在したのではないか?
本当にそれ以外にはなかったのか?
……となると、もはや意識の届く範囲ではなく知る由もありません。
どれがシフトを引き起こす原因になったのかを厳密に割り出すことはかなり困難なのです。となると、仮に過去に経験したことであってさえ、それを活かしてもう一度繰り返す、応用するというような扱い方をすることも、ごく部分的、不完全にしかできないということです。
つまり「啓発」という行為は再現性が著しく低いのです。
仮に意識的にやるとしても事実上はかなり当てずっぽうにならざるを得ないものです。
あなたはおそらくこれからも、仕事を通して、人間関係をを通して、あるいは余暇や趣味を通して、そして世にあるたくさんの情報に触れることでも、何かしらの「気付き」や「学び」を得ることができるでしょう。
つまり広く取ろうと思えば自分が行ったことすべて、経験したことすべてがあなたを啓発する可能性を含んでいるのですが、それをピンポイントで
「狙い撃ち」
するのは非常に困難だということです。
ですから、どんなことを覚えたから啓発だと言うこともできないし、こんなことは自己啓発とは無関係だと切り捨てることもできません。知らないうちに啓発されているかもしれません。
実際、啓発が起こる確率は、自己が意識的に行ったよりも圧倒的に、それとは知らず他人からもたらされる例のほうが多いでしょう。