「メタ(meta)」というのは「より高次の」とか「超」というような意味の接頭語です。
たとえば、一見バラバラなものにある共通性を見い出したり、それより高い次元から見下ろすように見て整理したり、全体を意味付けしたりすることも一般に「メタ化」と言ったりもしますが、本来「メタ」という語は、単にいろいろなものを寄せ集めてまとめるということではなくて、
「そのまとまりについて、何らかの新しい意味付け(レッテル)を発見する」
というニュアンスを含むところが特徴です。
メタ認知とは?
「メタ認知」
と言うと、それは自分の(あるいは特定の相手の)認知のしかたについて認知するという意味になります。
メタ認知の例は、日常的にも無数に挙げることができるでしょう。
実は、人間は思考する際、常に同時にメタ認知しています。これは本当は意識しなくても勝手に起こる、いわば脳の生理的な働きなのです。
ただし、ふつうは自らあえて意識して捉え直さなければ、自分がメタ認知し続けていることを意識することができません。
そもそも
「自分は今、メタ認知している」
と気が付くこと自体が、メタ認知を前提にしているからです。
一例ですが、昔ソクラテスは
「無知の知」
を唱えたと言われますよね?
でもこの、無知の「知」と言っている部分は、無知なソクラテスが言ってるんじゃないですよね?
メタ認知のイメージ
ソクラテスは、自分のことをメタ的に見たときに、
「自分が無知である」
ということを知っている……と言っているわけですよね。
こういう認知のことを「メタ認知」と言います。
分かりにくければ、イメージ的には「自分が自分の背後霊になったような感覚」とイメージすれば良いかもしれません。
ごく日常的な例ですが、例えば私たちは
「あの時、私はこう感じたけど……よく考えると変だったな」
とか、
「思わずあんなこと言っちゃったけど、悪いことしたな」
とか……自分の過去の言動や感情などを自分で客観的に考えることがありますよね?
この時の認知のしかたをメタ認知と呼ぶわけです。
あるいは、私たちは何かを考えるときに、そのことについて考えている途中で
「いや、この考え方は間違っているんじゃないだろうか?」
とか、ふと考えることもありますよね?
その
「考えることをどのように行えばいいのか?」
と考えることを「メタ思考」と言ったりします。
ソクラテスの例に戻りますけど、彼は無知な自分のことを一歩引いて見たときに
「(もとの自分は)実は無知であったのだ」
ということを知った、と言っているのですから、この時の認知はメタ的です。
だって、もちろんふつうの意味では人はだれでもそれなりに
「いろいろ知っている」
に決まってますよね?
だって今まで生きてきて、経験もあり、今だったら教育制度というものがあって、学校でもいろいろ習ってきたわけですから。
だから、ふつうはだれもが
「私はそれなりに知っている」
という認識でいるわけです。
これを素朴な認知の状態だとすると、そのような自分について
「自分が~について知っている」
とか、あるいはソクラテスのように
「自分は、本当は何も知ってなどいない」
とか、そういうふうに認知するためにはメタ認知、あるいはメタ思考が前提的に存在していなければなりません。
メタ認知は「共感」の前提でもある
ソクラテスが言っていることは、実は単に自分自身が無知であることを告白しているのではありません。
自分自身についてのメタ認知だけではなくて、同時に自分以外の、その他一般的な他者についてのメタ認知も含んでいるところが重要なわけです。
これを、別の表現で言うと、それがつまり
「啓発」
ということなのです。
自己啓発にはメタ認知が必要
原理的に言えば、そもそもメタ認知が存在しなければ自己を啓発することは不可能です。
逆に言えば、人間はメタ認知とかメタ思考ができるからこそ、自分自身を啓発する力を持つのです。
ただ、メタ認知能力、メタ思考能力というのは、何もソクラテスみたいな偉人じゃなくてもだれでもごくふつうにできることで、意識するしないに関わらず実はだれでも日常的に自然に行っています。
もし自己啓発なんてものが「大嫌い」で、啓発と名の付くものを全否定するような人がいたとしても……その人自身も実際にはメタ認知やメタ思考といった行為を通して、自己啓発に当たるような思考や行動を自然にしているはずなのです。
ただそれが、自己啓発本を読むとか、メンターに習うとか、セミナーに行くというような自己啓発っぽい行動ではないというだけです。