「メタ化」とは、今より抽象度の高い主題によって思考や情報を包括することです。

あらためてメタ化と言われると難しい話のように聞こえますが、実際はメタ的な認知や思考は人間にとってはごくふつうのことで、だれもが無意識的に、日常的に行っているはずです。

最近ネットでよく見られる「まとめ」記事みたいなものを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。

メタ思考は人間にとってごく日常的なもの

たいてい、個別に具体的な事柄について考えているうちにも人間はかならず同時にそのことを抽象化して把握したり、判断したりしています。

そして、日常的には私たちはそんなこと自体を特に意識してはいません。むしろ、放っておいても脳は勝手にメタ的な思考を起こしてしまうといったほうがいいでしょう。

ただ、抽象的な思考を繰り返していると、ふつう人はだんだんと混乱してきます。すっきり整理したくなります。

すると、すっきり整理するにはその基準や方法論がまた必要になってきます。その時

「意識的なメタ化」

が必要になるのです。だから、いわゆる「思考法」とか「フレームワーク」といったものが欲しくなります。

一般に「〇〇思考法」とか「思考のフレームワーク」とか言われるものは、たいていは知識や情報のメタ化の方法論を述べているわけです。

情報過多の時代

おそらく時代が進んでいくほど、人間はどんどん抽象的な思考の比重が高くなっていくと推測されます。

それは第一に、一人ひとりの人間が扱う知識や情報の量が増えているからです。

私たちは今どちらかというと情報がありすぎる状態で生活しています。もちろんそれによって以前は不可能だったことができるようになったのです。

また、その情報がなければ自分では思いつきもしなかった事柄について、それを知ったがゆえに検討する必要が出てきます

つまり人は情報量が多いほど選択肢が増え、多様な可能性を手に入れることができます。

これは本来的にはとてもいいことなのですが、けれども、私たちはいつも悩まされることになります。

私たちはふと気付くといつもこんなことを考えていますよね?

「どうしたらもっと仕事がはかどるのか」
「どうしたら、もっと良い生活ができるのか」
「自分はもっとこういう性格だったら良いのに」

こんな反芻思考に苛まれ、日々ゆとりがなく頭の中がゴチャゴチャになったまま生きている人もいるかもしれません。

あらためて冷静に見ると、私たちは常に実際の個別具体的なことを直接考えているのではありません。

現代社会を生きるには私たちは休みなく多くのことを想い、悩み、考え、判断しなければならないのですが、その大部分はむしろすでにメタ的な事柄なのです

これは、私たちに与えられた自由度や多様性の副作用とも言えます。

進歩と思考の高度化

世の中が進歩して新しい技術が紹介されると、私たちはより便利で快適な生活ができるようになります。今までできなかったことができるようになりますが、それに伴ってより複雑で高度な理解を要する場面も増えてきます。

たとえばですが、計算問題を解こうとする時に、紙と鉛筆で筆算しているよりはそろばんで答えを出してしまうほうが便利ですよね?

けれども、そろばんを使うにはその使いかたを知っていなければなりません。計算するにはそろばんが便利であることは間違いないのですが、その前提の段階で、

「そろばんの使い方」

を覚えなければなりません。そろばんの使い方って、紙と鉛筆の使い方より難しいですよね?

便利になるということは、ある意味では前提的な理解が高度になるということと裏表の関係にあるわけです。

これは、

「自転車と自動車のどっちが便利?」
「手紙とファックスはどちらが便利?」
「電話と電子メールとどっちが便利?」

というふうに比較すると、日常ほぼすべての状況において同様です。

より便利であることは同時により難しい前提的な理解を必要とするのです

だから私たちは大切であるか瑣末であるかに関わらず、進歩すればするほど以前より多くの煩雑な知的作業を抱えることになります。

最近しばしば「メタ思考」とか「メタ化」といった概念が注目されるのも、こういった事情があるからです。

メタ思考に対する、メタ的な対処の必要性

「メタ思考」はある意味では、現代人に課せられた義務みたいなものとも言えます。

そもそもこんなに知識や情報がなかったら、ものを考えることがこれほど大変ではなかったでしょう。

どうしてもスピードが追いつかず山積みになった問題。いくら悩んでも答えの出ない問題……。

そこへまた追い討ちをかけるように日々雑多な情報が否応なく流れ込んでくると、

「どれから手を付けるべきか」
「第一それを決めるにはどうしたらいいのか」

と考えなければなりません。

このような場合の思考は、日常的に起こる一種のメタ思考であって、個別の事柄について考える際、私たちはたいてい先に

「問題に対処する方法について」
「物事の考えかた、決めかたについて」

と言うような抽象的な問題を解決しようとします。

そのほうが効率的だし、良い解決策が得られやすいと感じるからです。

理屈で考えるとそうなります。

だから、ごく自然にメタ的に考えようとします。

意識的なメタ化の方法論

つまり、通常でも人間の思考はメタ化と脱メタ化の間を自由に行ったり来たりします。

抽象化と具体化と表現しても良いですが、とにかくそれは、最初はごく自然に起こります。

そして、時にそこに一種の飛躍だったり、ひらめきだったり、新しい考え方への気付きだったりが見出されることもあります。

これはある意味、確率的な問題であって、だれの身にもいつでも起こり得ることです。

次に、今度は、そのようにある意味本能的にというか、自然に起こる「メタ化」「抽象化」を、もっと上手に、意識的に、あるいは適確に厳密に行うにはどうしたらよいかと考え始めます

それで、

「〇〇思考法」
「〇〇になる考え方」

といった自己啓発本がたくさん発売されているわけですね?

もちろん、思考法とか、あるいは自己分析とか性格改善とか……こういうテーマは自己啓発において中心的なもののひとつです。

これらは、ある側面から言えば、メタ思考、メタ認知のやり方を説明しているものと言うこともできますね。

ところが、たとえば思考法に関する本とか、あるいは「〇〇成功法」といった本でも同じですが、そういうのをたくさん読んで、それらに関する情報を多く知ると……またそれらをさらに「メタ的に」整理したくなりますよね

あらゆる種類の情報がそのような性質を持っています。

そもそも多くの事例や過去の試行錯誤の結果を「まとめた」ものであったとしても、そのような知識や情報をたくさん仕入れたら、またそれをメタ化する必要性が出てきてしまうのです。

このようにして、知識や思考というのはある意味勝手に、

「抽象化の階層」

を作り上げていこうとします。

これもまた人間の思考の持っている自然な性質なのですが……それによって多くの人が混乱しがちなのも事実です。

そのため

「抽象的思考の重要性」
「メタ思考のトレーニングの必要性」

が強調されるようになります。