根本問題の絶対化

自然に想起された情報にはその問題にとって決定的に重要な部分と、付帯情報に過ぎない部分または実は問題とは何ら関係ない部分などが混在しています。

そしてたいていは同程度に重要に思われる部分が複数現れます

思考が混乱するひとつの要因はいくつかのキーポイントがそれぞれに主張されると何が優先なのか分からなくなってしまうことです。

複数の点の重要性が拮抗するとたいてい話しがややこしくなります。

このことは日常複数のメンバーで何か問題に対処しなければなりませんときにそれぞれの利害や意向が食い違ってミスや衝突が起こるのと同じ理屈です。

それに近い錯誤や混乱が自分自身の中でも起こり得るのです。

そこで思考を始めようとするときにはその対象について

「唯一最優先のテーマと言えるべきものは何か」

という点を観察することが必要になります。

そしてそのものを設問としなければなりません。

これをその対象において明確に設問化されたものを

「根本問題」

と呼ぶことにします。

実際の認知では、挙げられたいくつかのポイントのうち最も重要と思えるものがそのまま根本問題と位置付けられることもあるでしょう。

またはいくつかの事柄を俯瞰的に眺めているうちに今まで見えていなかった問題に思い至るという場合もあります。

いずれにしろ根本問題ありきです。

認知とは根本問題の把握に他なりません

ところで根本問題と位置付けられる課題や設問は一度決定したならその思考全体の中で相対的に捉えてはいけません

根本問題はその対象につけられている題名のようなものでありその思考全体を代表しています。

思考という作業においては絶対的なものとみなすべきです。

思考の循環を避ける

そうは言っても

「考えているうちにもっと重要な問題が見えてくることもあるではないか」

と感じるかもしれません。

けれども後からもっと重要と思えるまたはもっと根本的と思えるような問題が見いだされたとき、それはたいていよりメタ的な問題にすり替わっています

そのメタ的な問題を解決することがもともと想定していた問題の解決にもなるのだと思うときであっても……この場合の根本問題はやはり

「もともとの問題」

のほうです。

もちろん先ほどの転職の例のようにそもそも何が根本問題なのかがあやふやな段階ではメタ的な把握は非常に有効です。

また根本問題を決めた後でも、それを固定したうえで分析のためにメタ的な思考や観察を取り入れることは手段としては可能です。

けれども根本問題そのものを相対的に見て他のポイントや後から発生した気付きなどと差し替えようとすると、たいてい思考は循環を起こすことになります

なぜならよりメタ的な問題を根本に置き直そうと考え始めると、たいていその瞬間に自分が当初感じていた問題から思考が離れてしまうからです

すると一見解決に近づいたように思えたとしてもいつの間にか思考が堂々巡りしてしまうのです。

なぜなら、結局自分が一番気にしていることはもともとの問題だったからです

よくある相談

たとえば、今も昔も人間関係についての悩みというのは絶えません。

たとえば夫や妻との不仲などの愚痴じみた相談事ってどこでもよく聞かれるでしょう。

そんなときしばしば

「相手を責めるよりもあなたのほうから変わりなさい」

といったアドバイスを受けるのではないでしょうか?

もちろん、このアドバイス自体は間違っていません。

なるほど当の本人が変化すれば配偶者どころか周囲のたくさんの人たちとの関係が改善するでしょう。

けれどもこの状況にいる本人にとって、自分が変化するというのは

「配偶者との不仲を改善する」

という根本問題に対処する手段として

「自分自身を改善する」

という意味になります。

つまり問題が当初よりメタ的になっているのですが、本人にとってはメタ的な認知や思考のほうが手段なのです

逆に言うと、根本問題を固定した段階では

「メタ思考は必ずしも目的的ではない」

と言えると思います。

ここは誤解しやすい点だと思います。

イメージとしてメタ的なものは常に上位にあるように思いやすいのですが、構造上上位にあるからといって自動的にそちらに目的が移るわけではありません

先ほどの相談の例で、仮に本人がこのアドバイスを聞き入れとにかく自分が変わることを試みたとします。

けれどもこの場合しばしばこうなります。

「私は努力したのに周りのだれも認めてくれない……」

ここでいつの間にか本人はもともとの問題に戻ってしまっているのです

本人にとってやはりもともとの問題のほうが根本問題だったからです。

根本問題と構造

根本問題は、認知の過程で細分化されて散乱した知識や情報を再構築する際の核となります。

それによってたとえば当初ひとつのポイントだと認識されていたものが案外的外れだったとか、表面上脈絡がありそうだったが実は無関係であったというような見方が可能になります。

当然その後分析という過程に進んだ際も付加される情報や知識は基本的に根本問題を中心に関連付けられてゆくことになります。

イメージとしては根本問題がひとつ定まっていてそこから派生した情報が枝葉のように広がったような格好になります。

この場合、各情報の重要性は普遍的、客観的なものではなくてあくまでその根本問題との関連によって決まります。

分析と言ってもやみくもに情報を蓄積すれば成立するというものではありません。

分析のためには派生する様々な要素を構造として理解することが不可欠です

その際、根本問題が揺らいでしまうと構造全体の拠って立つ定点が見えなくなってしまうのです。

スキルと本質

ところで前に、熟練した事柄に関する限りあらためて意識しなくてもすぐに的確な判断が下せるという話を書きました。

そのような場合私たちはその分野について起こり得るパッケージ・タスク化の例をすでに十分に有しているのだと述べました。

けれども実はそれだけでは不十分です。

そのように即断で行動しても特に迷ったり不安になったりせず適切な結果が出せるのは、第二に、実はその事柄の

「本質」

が分かっているからです。

本質を自覚しているからそれを起点に個々の状況を構造として理解できるわけです。

よって派生した様々な事態についても的確に対応できるのです。

けれども未知の問題については通常すぐにその本質を見極めることが至難です。

だからついやみくもに知識や情報を集め結び付けようとしてしまうのです。

ただし根本問題というのは今その問題そのものにとっては常に起点となるはずのものです。

そうあらなければなりません。

それを意識的に思考の中心に置くことで関連する情報が適切に再構築できるのです。

点を意識する思考

一度はしっかりと決めた根本問題も、後から追加された情報や状況の変化に影響を受けるとあいまいになりやすいものです。

たしかに決定した時点での判断材料に瑕疵があったり、予測が大きく外れてしまったりすることもあります。

それは「認知」という手順の段階で誤謬があったのだから、もちろん間違いに気が付いたら修正することが必要です。

ただ、一方ではそういう意味ではなくてただ

「思考手順の不備やもつれ」

から根本問題の設定に自信がなくなっていったり、それが起点として機能しなくなってしまったりするという可能性もあるということです。

まずしばしば起こるのは根本問題自体があいまいだということです。

あいまいな始まりはあいまいな終わりを約束します。

また、安易によりメタ的な問題や課題と、今思考すべき根本問題自体とを混在させるべきではありません。

私は、こういった考え方を

「点の思考」

と呼ぶことにしています。

たとえば

「可能な限りの細分化」
「既存の関連付けの意図的な解体」
「自ら対象を選び取る主体性」
「問題をできるだけ削り絞り込む集中力」
「目的―手段モデルの理解」
「本質を意識する姿勢」

といった面を重視するありかたのことです。

ところで、たとえば

「主体性」
「集中力」

といった言葉を使うと私たちはたいてい思考というよりも意志の力や精神論というようなものを想起します

だからそういうものは一般的には思考法とか思考技術と呼ばないのです。

けれども、何も数値操作や理論立てばかりが思考法ではありませんよね?

そうかと言って

「集中力さえ維持できれば……(何かが達成できるとか頭がよくなるとか)」

と言っているのでもありません。

たとえば、ここでは問題を的確にとらえて思考に集中するために

「点をイメージする」

という話をしているわけですが、これ自体が一種の方法論であって、その意味では

「思考法」

のひとつと言えます。

さらに、もしそれを目的にするならば

「集中力を高める方法」
「意志を強くする方法」

……といったものも思考に付随する方法論のひとつとなり得ます。

つまり何が目的で何が手段かというのがすでにひとつの

「思考法」

なのですね。