実は、私は一方では
「無為自然」
という言葉が好きでした。どちらかというと憧れのような気持があって……っていうか今も好きですけど。
無為自然とは、一般的な意味としては
「作為がなく、ありのままであること」
と解釈されます。
よく老子、荘子の思想の根幹として挙げられますが、日本人にとってはひとつの理想であるとともに、むしろもともと受け入れやすいごく常識的な、伝統的な価値観と言っていいかもしれません。
自然であることと人為的であること
ただ、私は以前、この無為自然というものを、
「人間の営みと対比するもの」
と捉えていたんですね。
つまり、
「人間が考えること、すること=人為、作為」
という枠で考えていたんです。
人間がすることは、すべてが「ありのまま」であったものに何らかの手を加えるという意味でしかないからです。
人間以外の、たとえば動植物とか、さらに言えば生命体ではない「物」のほうが本来の自然なあり方なのであって、その姿に学んで人間もまた、それに近い生き方をするべきだというような思想が「無為自然」ということなのだと考えていたわけです。
となると要するに
「何もしないこと」
「何も考えないこと」
が理想という話になってしまいますが……以前は真面目にそう考えていました。
すると、どうなるかというと……。
いろいろ考えを巡らせて、何かの目的を達成しようとすることや、特定の結果を出そうとする行為はダメなことですよね?
ふつうに流れていれば実現しないはずのことを人為的な力で実現させちゃダメってことですよね?
他にも、
「無為無私」
「諸行無常」
「一切皆苦」
「明鏡止水」
など似たような言葉がたくさんあります……つまりは、何もするなってことでしょ?
だって、聖書にも最初にアダムとイブが善悪の木の実を食べたから変なことになったんだって書いてあるし。
……もちろん私は、ひとつの心のあり方として、きわめて観念的なイメージとして「好き」だっただけです。
そんなことを意識して徹底的に実践しようななどと考えたことはありませんでした。
ただし、本来そっちのほうが正しいのだという感じはいつも持っていました。
手を出さない、という思想
ただ、自分でも記憶に残っているのは、たとえば子供のころ、友達どうしが何かを取り合ってけんかしてるときや、互いに相手が間違っているとか口論しているときなどに、それに参加するでもなく、どちらに味方するでもなく、と言って「やめろ」と割って入って止めるわけでもなく
「あ~あ、なんか虚しいなあ」
な~んて悟ったように傍観するクセがあったように記憶しています。
これは今でもあります。たとえば相手と話していて議論が白熱してくると、興奮してしゃべっている自分が可笑しく思えてきて、ふっと妙に冷めてしまったりすることがあります。
もちろんね、自分が当事者になっている問題や、初めから興味のあることだったら、必ずしもそうではないんですけど。
我ながら都合の良い「無為自然」だよな……と思ったりもしてます(笑)
とにかくそういう、人間の考えること、やることすべてが……無為自然の対極にあるものと考えていたのです。
作為のほうが人間にとって自然
しかし、最近はかなり考え方が変わりました。
そもそも人間が行う営み自体が、ほとんどが「無為自然」と呼んでもいいんじゃないかと……。
たとえば、人間は
「感情の動物」
とか言われますよね?
確かに実際多くの場合、人は感情による動機付けに従って行動しますよね?
これって作為って言えますか?
むしろ、自然に起こる感情に従ったらごく自然にそうなるってことですよね?
……そう考えると、むしろ感情のままに行動している人のほうが無為であり自然であると、言えないこともないわけです。
理性・思考・自由意志……人間にとっては自然
あるいはこれを前提にして、今度はある人は
「感情のままに行動するだけではいけない」
ということに気付いて、もっと理性的に、知性的に物事を判断し、行動を選択しようとか考えたとします。
これは「不自然」ですか?
……いいえ、これがむしろ順当な、自然な思考の流れとも言うことができますよね?
もし人間に理性があり思考力があり、自由意志が備わっているのであれば、それは当然、そのように思考し、判断したり、自分の行動を制御しようとするに決まってるんですから。
人間にもともと備わっている性質や能力からすれば、上のように考えて自分の行動を制御しようとする人が一定の割合で現れるのは、いわば最初から分かっていることであって、これ自体が無為自然な状態とも言えるわけです。
あるいは、他の何でも良いのですが、自分が信じた特定の主義や信念に基づいて行動しますよね?
それは作為なの?
自然なことじゃないの?
人生の途中で自分の意見や考え方を大きく変えることがあり得ますよね?
でも、それのほうが自然じゃないのかと。
……って、このように範囲を広げて考えると、それこそいろいろ作為的に考えるまでもなく、もともとが全部、無為自然なんだと解釈することもできるように見えるのです。
「でも、それじゃあ、なんでもそういうことになっちゃうじゃん」
「結局、それって無意味な議論になっちゃうじゃん」
って思う人もいるかもしれないんですが、私はこれは意外に、まったく無意味にかき混ぜてるだけの議論とも言えない気がします。
なぜかと言うと、即ち、人間が自分の感情や、あるいはいろいろな思想や信念や主義主張、規範とか道徳とか宗教とかもですけど……そういうものに頼って思考し判断し行動すること……ある意味では、それは初めから決まっていることであってそんなものはすべて無為自然だと。
つまり、そのようなものは各人がどう扱おうと作為とか不作為とか言う話ではないと。
そして、だからこそ人間は、
「圧倒的に自由」
なのではないでしょうか?
たとえば、その自由に身を任せて生きようが。
その自由を自ら制限して自分を縛ろうが。
その自由に何らかの意味を持たせたいと欲することも。
何の価値も与えないでおくことも。
どう考えるにしろ、圧倒的に自由なんだと。
「無為」にこだわり過ぎると無為でなくなる
……さっきの話に戻しますけど。
たとえば、今の私から見るならば、ですけど
「自分の素直な願望や欲求を抑え込もうとひたすら努力している人」
がいたら、そのほうが作為的です。
「周囲の人と比べて極端に質素に、貧しく慎ましく生きることを望む」
というのは、それこそ作為的です。
「本来得られる物を、あえてすべて捨てていくような信念」
を持つ人は作為的です。
……今私はこう思っています。
無為自然とは、ざっくりいえば、ごくふつうに生きるということに他なりません。
そして、ふつうというのは
「特に何でもない」
ということです。
ふつうであることに何らの意味付けも必要ないということです。そして、それが私たちの自由を担保しているのです。
逆に、ふつうでないこと、特別であるということを、ふつうという概念と対極にあるものとして文字通り「特別視」することにも、何らの意味も価値も必然性もないということです。
その人にとっての無為自然
ちなみに、あなたの現状はいかがでしょうか?
もちろん、今私が言ったことは……これは今の私の立場から見た場合の話であって。
仮に、あなたが何をもって無為自然とするか、どういう価値観や思想に従って生きようとしているか……それもまたまったくの自由なんです。
そして、あなたがどのように考え、どのように生きたところで、おそらく最後に振り返ってみればそれがあなたにとっての無為自然だったのだというだけなのではないでしょうか?
ちなみに……老子だって、もし「何もしないのが理想」だと考えていたなら、わざわざみんなに「道」とか「無為自然」とか説かないで、そのままにしておいたんじゃないだろうか?