自己啓発というのは、前提として
「自分が」
「自分で」
「自分を」
啓発することです。
もちろん他人からの助力や指導などを取り入れても構わないのですが
「他人にやってもらう」
ことではありません。
ただ、そう言うと人によっては
「その自己っていったい何だ?」
というような、いわば哲学的な問題に意識が向いてしまうこともあります。
あるいは、相手がそのように誘導する場合があります。
私が思うに、それこそ
「相手の思う壺」
なんです。
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自己とは何かを問い始める前に
「自己とは何か」
これはまあ、確かに面白い問題には違いないんですが。
ただ、そこが揺らいだ状態でそのままセミナーとかに参加し続けるのはやっぱり危ない面があります。
実際、多くの自己啓発的な教えにこういう問題が出てくるんです。いわく
「自己など存在しない」
「今のあなたは本当のあなたではない」
「潜在意識を知らないと成功できない」
「自分を解放しなさい」
とか……。
別に余計なお世話かも知れませんけど、この時点でもう、自己啓発しようとしている自己そのものが揺らいでしまいます。
あるいは、そのプログラムなり、メソッドなりというのは、そうなるように出来ています。
動機がすり替わっていたら要注意
そして、こういう話に入ってくると、次に必ずと言っていいほど
「動機のすり替え」
が起こります。
つまり、既存の価値観を崩しておいた上で、別の目的や動機を与えるというのは、悪い人の常套手段なのです。
それに、もし相手が善意だったとしても、私自身はこれをとても嫌います。
だって、最初にその情報収集なり、活動なりをしようと思った自分の動機があるじゃないですか。
それがダメなんだって言われても困るんですけど……。
私はその時点で少なくとも一度、相手を疑います。
迷います。
そして、明快に自分で納得できない場合は、そこで諦めることにしています。
もちろん、最初から自分の問題意識や、目的意識が
「自己の本質を知ること」
とか、あるいは悟りを開きたいとかそういうことなのであれば問題ないです。
しかし、最初はそんなこと思っていなかったのに気が付いたらなぜかそういうことになっていた……という場合にはそもそもの自分自身の意図や目的が何だったか?
あるいは、そもそもそれは明確に自覚していたのか?
……と振り返ってみることをおすすめします。
自己が自己を啓発するんでしょ?
自己啓発とは
「自己が」
行うこと。あるいは
「自己を」
啓発すること……と読めますね?
「啓発って何?」
という話はいったん置いといて、まず「自己」なんだから自分が自分に対して行うことが自己啓発なのであって、自分がするのが大原則だと言えます。
まず「自発的に」やることです。
自己啓発本などを批判、軽蔑する風潮などから自己啓発という言葉そのものを嫌う人は少なくありませんが、自己啓発とは興味がない人が無理にやるようなものではありません。
だれかに言われて仕方なくやるものでもありません。
この意味では、たとえば会社や上司から言われて仕方なく参加している
「ビジネススキル講座」
あるいは就職や転職活動の一環として既成事実を作るために行ういわゆる
「自己啓発活動」
……そういうのって厳密には語義通りの「自己」啓発とは言えないことになります。
一方で、詐欺的な情報や、高額の費用を強引に払わせたりするセミナーなどに無理やり勧誘されて行ってしまったというような話を聞くこともあります。
個別の事情は書けませんが聞いた範囲で私が思うのは、巷で聞くそういった自己啓発セミナーなどの被害者の人の気持ちを思ったとき、それはそもそも「自己」啓発なのかという素朴な疑問が湧いてくるのです。
だって、強引に勧誘されたのか洗脳されたからなのか知りませんが、それってもう自分でやってるとは言えないじゃないですか?
自己啓発セミナーなんだから自分の意思でやらないとダメじゃないですか?
「変な人」って何?
ところで一方では、いわゆる常識的(?)な人は、宗教とか自己啓発といった活動について
「そういうのは、変な人が行くところだ」
と頭から固定観念を持っていることが少なくありません。
で、今まで書いたように、その理由にはいろいろあって、妥当と思えるものももちろんあるのですが、単なる固定観念とか偏見としか言えないようなものも含まれています。
固定観念を持っている人は、他の面でも、自分が関わりたくないと思うような事柄に熱心になっている人を
「少しおかしい」
と言います。
対象は自己啓発とか、宗教に限りません。
たとえば、やたら愛とか正義とか、あるいは倫理や道徳を振りかざす人って少しおかしいです。
あるいは、政治活動をしている人や特定のイデオロギーや思想を頑なに守ろうと訴えている人も少しおかしいです。
……こういうのって、無関心な人から見るとやっぱり、
「少しおかしい」
「痛い」
って感じるのはある意味自然なことであって……それをことさらに取り上げて
「変だ」
「おかしい」
「この人おかしい!」
って声高に訴えている人も少しおかしいでしょ?
反対の立場から見ると、たとえば、
「常識を信じ斬っている人って、少しおかしい」
「メディアの情報を何でも信じちゃう人って変だよね」
というのと一緒で
「世間体と常識だけに頼って、自分はふつうだと信じ切って、他人のことを変だ、変だと言っている人」
ってある意味一番おかしい、変な人、気持ち悪!
……と言うこともできるのです。
あえて言うなら、たとえば今のあなたが明らかに変だったとして、でも、むしろその変なところが自己啓発によって治ったらすごく良いですよね?
だから、そういう人は自己啓発したほうがいいんじゃないでしょうか?
何が言いたかったか忘れました……。
えっと、あ、そうそう。
自己が自己を主体的に啓発するという行為そのものについて、それ自体が「おかしい!」なんて思う人は実はほとんどいないのではないかと……私は思います。
むしろ、人間が自然に成長していく過程で絶対必要なことじゃないでしょうか。
しかし、自己啓発という言葉の使い方が往々にして変なふうに間違ったふうに広まっているために、混乱したり頭から拒絶したり忌避したりする人も増えてしまったっていう……ことなのではないかと考えます。
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自己啓発で騙される自己
そもそも論から言うと、自己啓発という名を借りた悪徳な業者がいるという問題、あるいは、自己啓発しようとする人間の心理を利用する側の問題は、自己啓発そのものが悪いという理由にはなりません。
もちろん、故意に騙そうとする人のほうが絶対悪いのですが……というか、どうあれたくさんのお金を払って結局何の役にも立たなかったということであれば個別には気の毒なことだとは思いますが。
しかし、やはり自己啓発というのは「自己」を啓発することです。
自己啓発本を読むのも、自己啓発セミナーに出るにも、自己啓発というからには、騙されたりムダに終わったりする可能性もコミで
「自分が」
「自分で」
「自分を」
啓発しているのだという意識というか、覚悟みたいなものは必要なのではないでしょうか?
そうでなければもはや「自己」啓発とは言えません。