私は自己啓発自体を否定はしません。ついでに言うと、宗教も否定していません。どちらかというと宗教的なものも肯定的に見る側だと思います。

ただ、しばしば言われる通り、最近よく取り沙汰される自己啓発的なセミナーというのは、とりわけ新興宗教とかなり似ている面があるように感じます。

もちろん、まったく同じことではないですが、これは私もそう思います。

救われるか、騙されるか

私は、少なくとも意識的には何の宗教も信仰も持っていません。

しかし確かに、実家には仏壇もあるし、お墓もあります。

また宗教に関する興味とか、人並みの知識はあります。でもそのことと、自分が宗教的な面で何かを信仰しているか? あるいは何か実践しているか? ということはまったく別のことです。

その意味では、私は何の宗教も持っていないのです。

単純に言うと、たとえば私のような者は、ふだんは宗教と言ったって、なんらか御利益があると思って神社でお参りしているような人間です。

初詣かなんか行っても、

「昨年はおかげさまで無事に過ごせました。ありがとうございます」
「今年も健康で、できたらもう少しお金もいっぱい儲けさせてください、よろしくお願いします」

とか思ってお賽銭を投げているだけです。

動機は「ご利益」

要するに、具体的にはそれが動機なんです。

「ご利益」

何かしらの効果があるかもしれないと期待しているから神様、仏様~と言うわけです。

ところで、自己啓発もルーツをたどれば宗教あるいはオカルト的なものに源流を求めることができるという説もあります。

宗教と自己啓発的なものは非常に類似している面があるというのは否定し難い事実でしょう。そして、そのことに(日本人は特に、だと思いますが)薄気味悪さを感じる人も多いだろうと想像しています。

宗教への関わりかたのタイプ

私には専門的な知見や確証がないので直接断定するような話はできません。

あくまで印象として聞いてください。

まず、私が思う最も素朴な形の「宗教」とは、一個人がたとえば

「神様はきっといる」

と考えて勝手にそれを前提に生きているという場合です。

ふつうそれは宗教と呼ばないですけど。

その人は、たとえば何かにつけ心の中で神様(と呼ぶかどうか知りませんけど)に祈ったり、感謝をささげたりとかするわけですが、だからと言って日曜日に教会に行ったり、仏壇を拝んだりはしません。

で、それとは別にいわゆる「伝統的な宗教」というのがすでに人々の文化や生活の中に深く根付いています。それには必ず母体となる組織があって、一般の信者さんを導いたり、教えたりする役割を負っています。

難しい教義の解釈とか約束事とか、そういったことはその組織に任せておけばいいって感じで、一般の信者さんはだいたい言われた通りに従ってるだけです。

信者さん、と呼ばれますが、文字通りその教えを「信じている者」とも一概には言えません。

実際にはむしろそれに属している一般の人たちは多くの場合、特に神仏のようなものにそれほど関心があるわけでもなく、重視してもいません。

完全に信仰しているわけでもなく、かと言って完全に否定もしない。

ただ、すでに生活様式として、慣習的なふるまいのひとつとして存在しているからそれらに属し、それに合わせた振る舞いを続けているのです。

……いざという時以外は。

で、それとは別にいわゆる

「新興宗教」

というのがたくさんあるわけです。

ちなみに、新興宗教というのはけっこう昔からあるものです。要するに、それは伝統的な主流派の宗教とは別のもの、という意味であって、必ずしも最近できたものという意味ではありません。

ただし、新興宗教のうち多くのものは既存の伝統的な宗教をベースに使っている場合が多いです。つまり、流れとしてはいわゆる「分派」のようなものですね。

一部には、既存の宗教とは脈絡なく、多くはその教祖様による独自の視点や異なる世界観とか物事の解釈とかを用いて人々に訴えるタイプのものもあります。

いずれにしろ、新興宗教の多くは独特の、ひとつのパッケージ(教義)を持っているところが特徴と言えます

また、それに参加する信者さんというのも、伝統的宗教の場合と違って少なくともある程度その教義の細かい内容を一つひとつ吟味して、自主的に学んだ上で(少なくとも形の上では)

「自分の意思で入信します」

本人がどう思ってるか知りませんが……事実上それが、既存の多くの伝統的な宗教と、いわゆる新興宗教との最大の違いなのです

新興宗教に入信するときの「客観的な現象」を素直に見ると、それは物心ついて気が付いた時にはもう仏壇に手を合わせていた……というのとは明らかに違います。

また、時に自分の生活や人間関係や財産(その他諸々)を投げ打ってまでそれに没頭していく場合もあります。

まさに、その点が社会問題化しているわけです。

手法としての「洗脳」だとか「マインドコントロール」だとか、あるいは現象としての「詐欺」「金儲け」といった点にどうしても話題が集中しがちですが、結局は問題の要点は

「自分の生活や財産(その他諸々)を投げ打ってまで(自分の意志で)それに没頭していく

ということの是非です。

自己啓発の普及と関わりかたのイメージ

ところで、次に、いわゆる自己啓発についてですが。

最も素朴な形式の「自己啓発」というのは、一個人がたとえば哲学や科学、心理学といった知見について洞察を深めたり、それを自分の生活上の課題に当てはめたり、思想に取り入れたりすることによって、より良い考え方や、より良い人生を実現しようとする行為のこと、と言えます。

ただ、ふつうの人はそれを「自己啓発」という言葉では呼ばないのですが。

次に、社会が近代化するにつれて、学問研究の各分野での新たな発見や知見が世に出てきました。医学、心理学、社会学、それに科学技術。

ただし、このような学術的な成果や権威性のある研究結果というのは、別に一般の人が認識していなくても、国や行政や教育機関、専門機関などが勝手に研究して、技術として応用され、世の中で活かされます。

一般の人はそれについて特に努力や勉強などしなくても、その成果として生み出された製品やサービスを利用することができます。

おそらく特定の分野の研究者や、次には権力者や富裕層といった限定されたネットワークの中では、その多くが共有されていることでしょう。

ただ、そのような限定的なネットワークの外部に対しては、新しい知識や研究成果は機密や法で守られることにより、すべてが開示されてはいません。

あるいは、一般の人もそれらをあえて開示するように求めるようなことはほとんどしません。

これは私には、宗教におけるヒエラルキーの形式と似ているように見えます。

難しいことは専門の人にやってもらって、最終的に出てきた恩恵だけを享受すれば私たちは十分です……という感じですよね。

ただ、現代に入ると書籍が出版されるようになり、テレビなどのマスメディアが台頭しました。そしていわゆる「情報革命」「IT革命」と呼ばれる時代がやって来ました。

すると、少なくとも知識や情報の面では、完全とは言えないまでもある程度、それまで守られていた機密性、権威性が崩れ始めます。

同時に、そのような研究成果や学術的知見をある意味では応用して、あるいはそこに独自の見解や経験則などを盛り込んで、それを一般の人にも提供するような

「ある種の体系だったパッケージ」

を作り始める人も出てきます。

さらに、当然それを喧伝して一般の個人を集客するという商売の手法も現われてくるんです。

まあ、商売だからって即悪いと言いたいわけではありませんが。

とにかく、そういうものを一括りに表す言葉として「自己啓発」という言葉が使われ始めたと。

自己啓発という分野が市民権を得ることになり、その界隈のカリスマ的なメンターやコーチと呼ばれる人々が次々に現われて

「新しい知見が生まれた!」
「今までのやり方ではいけない!」

とか、それぞれが思い思いに訴え始めます。

すると、そういう人たちの周りには次第にそれを擁護し普及する組織や団体ができたり、一般の多くの人が集客されて広がります。

集客された人々の一部には、それに没頭し過ぎたあまりに

「自分の生活や財産(その他諸々)を奪われてしまった」

という人も発生してしまうのです。それが社会問題化しているわけです。

自己啓発と宗教の何が似ているのか

もちろん、優良な自己啓発(っぽい)セミナーっていっぱいあると思います。企業研修に使われるようなものもありますし。

それは宗教というものについてもまったく同じです。

もちろん特定の信仰を持って良い結果になった人もたくさんいることは私も承知しています。っていうかむしろ私は個人的には何か信仰を持っている人って割と好きなんです。

だいたい、いい人が多いですよ。明るいですし。

しかし、今は個別に結果や影響がどうかという議論ではなくて、自己啓発と宗教はその普及過程に類似点が見て取れるのではないかということを書きたいのです。

私が思うには、

自己啓発(っぽい)セミナーと、新興宗教(っぽい)団体の活動とか、そこに参加する人の心理や行動というのが似ているのは、その手法とかテクニックといった面だけではなくて、

「そもそも成立してきたプロセスと、それに関わる人々の立ち居振る舞いや反応の推移のしかた」

が似ているからではないか

……と、こう思ったわけです。

もちろん、ある意味では他のすべての事柄もまた同じように広がっていくものだと言うことも可能でしょう。

これは自己啓発に限ったことではなく、他のすべての文化や知見や情報もそのようにして一般に普及していくのだと。

つまりすべてが同じ過程を辿っているに過ぎないと考えることもできます。

一応書いておきますが、私は現在、あまり原理的な、あるいは先鋭的な意味での宗教というものについては否定的な立場です。でも、宗教全般は否定しません。

もちろん宗教一般についての是非論は別の問題として存在します。

そしてもちろん自己啓発全般について否定したいのでもありません。

まあ、何にせよそういう面も含まれてるから気を付けてね、と言いたいわけです。

「ご利益」に目を向けよう

最初のほうでも書きましたが、私は今、実践としては何の宗教も持っていません。

でも、神社に行ってお賽銭を投げます。

どうして、それほど信じてもいないのにお賽銭なんか投げるかというと、

「ご利益」

があるかもしれないからです。

でもね、頭では分かっているんです。

こんな金額を神社に寄付したからって、神様がいちいち気にしてるわけないって。

そもそもお賽銭をあげないからと言って、祟りがあるわけでもないし、神様はそんなことで私を責めたりしないって。

でもまあ、自分の気休めにもなるし……まあ、理屈抜きに、何となく良いことをしているような気分になれますしね。

これがすでに「ご利益」かもしれないですね。

ところが、私のこのような立場から眺めた場合……一部の新興宗教にある教義とか、それに対する信者さんたちの反応って、それは異常に見えるんです。

「話が逆さま」

だと思うからです。

自己啓発セミナーに嵌っているという話もその点では同じだと思うのですが、

「自分の生活や財産(その他諸々)を投げ打ってまでそれに没頭していく」

ということになると、そもそも期待していた「ご利益」って何だったの? ……っていう。

そもそも、私が宗教一般について、最も腑に落ちない点はですね、

「なんで私が神様のために頑張らなくちゃいけないの?」
「どうしてこの宗教のために私が犠牲を払わないといけないの?」

という点です。

もちろん、それをちゃーんと説明する教義がばっちり準備されてるんですけど。いくら理屈の通った、実しやかな教義を解説されても、どうしても腑に落ちないのがこの点です。

信じるか信じないかはあなた次第……なんですけど、ここでいったん落ち着いて、よくよく考えてみる必要があります。

たぶん、ふつうはこのハードルを越えると後戻りするのが非常に難しくなります

で、自己啓発の情報というのも同じような面があって、自分がまさに「啓発」されそうになっている瞬間こそ、最も意識してよく考えるべき時なのです。

だって、少なくとも最初に願っていた「ご利益」を得るためのコストが、そのご利益自体を大幅に上回ってしまったら、当然大赤字じゃないですか!

だから、ごく常識的な(?)人から見ると、そういうものとは「たまにお賽銭を投げる程度」の付き合い方をするのが一番無難だというふうに映るわけですね。