「部分最適」という言葉は、ほとんどの場合ネガティブな意味を込めて使われます。

「いかに優れた部分最適も全体最適には勝てない」

などと言いますよね?

しかし、経営やマネジメントに携わる人ならば……現実問題としては往々にして全体最適に向かおうとする力と、部分最適を目指そうとする力がぶつかる場面が後を絶たないということも経験からよくご存知のことと思います。

どうして、多くの人が

当事者になると部分最適を優先してしまう」

のでしょうか?

なぜ、合理化とか改革を推し進めようとしても全体最適化が受け入れられないのでしょうか?

「全体」とは何か

部分最適を優先してはいけない……というのは、実は知識としてはだれでも知っていることです。

ただ、人が部分最適について考えたり話したりする場合、おそらくその人の頭の中にはある特定の「全体」というものがイメージされているはずです

典型的には、経営者やビジネスコンサルタントといった立場から見れば、全体とは当然その企業、会社ということになりますよね?

あるいは、たとえば学校で担任を受け持っている先生であれば個々の児童や学生ではなくクラス、学級というのがその全体という認識があり得ます。あるいは、担任という立場を離れればクラス単位ではなく学年全体、学校全体……というふうに捉えることもできます。

政治家なら関係者の利害だけではなく国家全体。

環境活動家であれば地球全体。

神様から見れば宇宙全体……?

今度は小さいところに戻って、たとえばひとつの企業の中でも営業部に所属して日々現場で働いている一人の人から見ればどうでしょう?

もちろん、企業という全体が存在することは分かっています。それが前提であって、無視することは到底できないものだということも当然分かっています。

つまり会社全体から見れば「営業部は部分である」ということは、実は言われなくたってとっくに分かっているはずです。

……でも、これはいわば客観的な理解としては分かっているということです。

それぞれの人が持っている「全体」の像

その人の、いわば本音での心情としての「全体」は、実は別のところにあります

たとえば営業部の人が、自分の部署内での都合やメリット、デメリットなどを論って全体の最適化に反対したり非協力的だったりすれば、一見他人から見た場合には、おそらくその人が所属する営業部という「部分」だけを重視しているというふうに映ります。

だから、ハタから見ればそれはもちろん

「部分最適に走るな」
「部分最適は全体最適を阻害するのだ」

ドラッガーの名言を繰り返すまでもなく大声で指摘したくなるでしょう。

そりゃそうですよね?

でも、実際はその人はおそらく……何も「営業部」のことだけを考えて判断したり意見を言ったりしているつもりではないのです。

ただ、では一体何を考えているかというとですね……どの程度自覚的であるかは別として実はその人は主観としては別の「全体」を前提に話しているのです。

その全体とは端的に言えば

「その人自身の生活」
「その人の人生」

なのです。

振り返って自分自身のことをイメージしてみたら、やっぱりそうではないですか?

仮に私でもあなたでも、自分自身という一人の人間にとって「全体」とは何かと言えば……それは現在時点に限ったとしても仕事もあるけど家庭もある、それに自分を取り巻く人々との関係であり、自分が持っている有形無形の財産や、実績や能力や、経験や、思い出や、未来への希望や、愛情や……ということになりますよね。

つまり人生です。

それがその人の本来の意味での

「全体」

なのであって、その人の中では、たとえば仕事とかキャリアとかいうものはすでに部分です

さらに……今その企業のその部署に所属しているという事実は、その仕事とかキャリアといった範囲の中で見てもさらに「部分」でしかないということになります。

禅問答みたいですね?

でも、要するに

「部分最適と全体最適」

という問題が取り上げられる際なぜ必ずと言ってよいほど衝突や対立が発生するのかというと、やはりそれは突き詰めると結局

何を全体と考えているかという認識の齟齬、ズレ」

……に行き当たるしかないわけです。

「全体最適」とは何を全体として切り取るかという問題

最適化の議論というのは、根本的には

「何を全体と見るか」

というところが問題です。

上で書いたように、そもそも何が全体であるのかは突き詰めると自明のことでもなければ、論理的に客観的に正しい「全体」の規定のしかたがあるわけでもないのです。

一見自明のように思われますが、少なくとも人間の心理的な意味で考えれば

「だれにとっても正しい「全体」というのは存在しません」

そもそも人がその時その時で全体と規定しようとしているものは、すべてもっと大きな立場から見たらその中の一部分に過ぎません。

これは企業そのものにしても同様に当てはまります。

たとえば、一企業というのは、ある国の中にある特定の業界内に無数に存在する企業の中のひとつでしかありません。

それは、その立場にいる人が見ればそれを全体として扱いたくなることがあるというだけで、実は自明的に「全体」なのではありません。

よって、部分最適化の議論は、本来は各自が認識している「全体」と「全体」の間の整合性をどのように担保するか、という話に落ち着きます。

企業の合理化や部署や事業所の統合、再編といった課題を扱うとき、ふつうは単純に言ってその「企業」が、当たり前のこととして「全体」と見做されます。

というか、みんなそれを当然の前提だと思って議論を始めようとするわけです

しかし、実際に進めようとすると特定の部署から猛烈な反対意見が出たり、調整がこじれて中途半端な折衷案に落ち着いたりするのは、それぞれの利害関係者が各々勝手に、

「主観的な別の全体」

を背景にして意見し合うからです。

経営者だって部分最適に走る危険性はある

実は、経営者自身という個人を考えても、

「経営者だから当然に企業を全体と捉えているはずだ」

と単純には言えません。

実は、その経営者が心の中で本当に「全体」だと感じているのは、たとえば創業者であればその企業を立ち上げ、軌道に乗せるまでの自分の発想や苦労もあって、ようやくここまで来たという歴史……かもしれません。

今経営者自身が抱えている課題や問題、そしてその企業のあるべき将来像と業界全体の盛衰、それに伴う自分の関わりかたの変化、その後の自分自身の行き場所……そういうのも含めているかもしれません。

外部のコンサルタントや事業統合、業務改善などを請け負うような仕事をしている立場の人からすれば、部分最適に陥っているように見えるのは何も末端の現場の人員だけではありません

むしろ経営陣や意思決定権者からして一部分だけに強いこだわりを持っていたり、かたくなに持論を守ろうとしたりする傾向があってどうにも説得できないような例もあるでしょう。

だからこそ最適化の議論というのはただ言葉として

「いかに優れた部分最適も全体最適には勝てない」

などと言っていても、みんなそれを知識としては知っているとしても実際のところ調整が難しいのです。

結局は「目的の調整」になる

その議論は詰まるところ、利害関係者どうしの調整が難しいという話になるわけですが、その「調整」というのは単に全体最適化を推進するためにどの部分に泣いてもらうか、犠牲になってもらうか……じゃなくて、

「各人が抱えている自分なりの全体にとって、何のメリットがあるか」

ということを明確に示し実現するということです。それが調整の意味だと思うのです。

関係するだれもが、自分が規定するその全体がより良い方向に変化するという保証、あるいは見込みがあるならば……きっとだれもあえて部分最適に執着しようなどとは考えないわけです。