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集合から階層へ
パソコンに置かれているフォルダは開けてみると中にまたフォルが入っています。
その中にもまたフォルダ……といくらでも作ることができます。
これはデータを管理するには非常に適した構造で
「階層ディレクトリ」
などと呼ばれます。
……もちろん無限に作っても意味ないですけどね(笑)
パソコンが普及してから階層という言葉はより抵抗なく一般的に用いられるようになったと思います。
ただし、その実態はプログラムの「分類」ですよね。
ただこう見ることもできます。
つまりパソコンに収められているファイルとかデータを具体物とみなせば確かに分類と呼ぶべきだけれども、私たちがパソコン上で見たいテキストやイメージというのは、それぞれが特定の情報のかたまりであって、ひとつの概念と言えます。
文字や像で表されるものは、私たちにとっては概念の表象です
……とすると、ここまで言っていた思考上の階層と同じように、それを階層構造と見るべきだという考えも成り立つわけです。
よくこういうことが起こります。
散乱したファイル類を整理しようといくつかのフォルダを作成して分類を試みます。
けれどもある規則に従ってきちんと分類項目を挙げたつもりなのに、なぜかどこにも属さない類のファイルや複数の項目に当てはまって、どちらに入れておくべきか判断に困るファイルが出てくるのです。
こういうとき私たちはたいていそういったものはすべて
「その他」
「未分類」
とかいう暫定的な名前を付けたファイルに入れてしまうか、またはそれ以上分類せずに一つ上の階層のフォルダ内にそのまま置いておくでしょう。
ファイル類をその内容(プログラムではなくて意味のあるもの)として分類しようとしているからです。
……ここでもし私たちがファイルの内容にまったくこだわらないのであれば、たとえば単純に時系列や
「あいうえお順」
で分けておいてもいいわけですよね?
ただしその場合私たちはそれを単にファイルという「もの」と見て各ファイルの意味や関連性など度外視して、単に整列させるための順序を当てはめているということになります。
ふつうはそれだと不便を感じる時があるし、人間のそもそもの考え方からするとしっくりこないわけです。
……と思って、意味内容や関連性に沿った分類を考え始めると今度はどの階層にもぽつぽつとすっきり分類できない内容を持つファイルを発見してしまうのです。
これは単に分類の仕方や整理が下手だという話ではなくて、そもそも概念や情報といった抽象的なものは集合とか分類という手法になじまないために起こる現象なのではないでしょうか?
サイトの構成
インターネットを構成しているサイト群にも同じことが言えるかもしれません。
各サイトを単なるページの羅列と捉えればそれぞれにアドレスを割り振られたデータの集合とみなすことができます。
けれども各ページがある知識や情報または特定の意見や主張などのかたまりであり、サイトというものがページを単位とする意見や概念の集積であるとみなせば、それは形としては前に書いた
「大量の紙を山積みしたようなもの」
と同じように意味的な階層を持たせたくなりますよね?
このほうが私たちの思考の仕方に合致するように思えます。
とは言っても……もちろん私たちは専ら思考の材料を探すためだけにインターネットを使うのではありません。
たとえば自分のサイトに置く素材やツールあるいは今見たい特定の画像などを探すときにはその「もの」が欲しいのであって、たどり着いたそのページが何を言わんとしているかとか、ほとんど気にもしないでしょう。
つまり文字にしろ画像にしろそれらを「もの」と見ればそれは集合と扱うほうが妥当だし、概念と見れば階層的な把握のほうが適するわけです。
ところで、もちろんすべてのサイトがこのように理想的な階層構造を具現化しているとは言えません。
けれどもインターネットサイトは思考を階層的に捉えた場合のイメージと相似性があります。
ですから逆にこれをモデルとすれば階層的思考というものがもつ性質を理解しやすいと思います。
私たちはまるで古いサイトをリニューアルするかのように自分の思考全体を階層的に再構築することもできるのです。
パスは俯瞰的である
パソコンやネットの用語として一般的になっている
「パス」
と
「リンク」
についてあらためて考えてみます。
「パス」は階層の構造を表す
パスというのは特定のプログラムやファイルを目指して階層を下へ下へと掘り下げて行く際の
「経路」
つまりページ単位の序列というか、繋がり方という意味で使われます。
パソコン上のフォルダは平面というよりも書類入れのようなアイコンが使われることが多いですが、これをどんどん開いていくとたとえば
「デスクトップ$PROGRAM$file$……」
というような表示がありますよね?
この時の「$」という記号は自分がたどった経路つまりパスを表しています。
この構造自体は別にパソコンに特有のものではなくて、たとえば自分のバッグの中にある財布の中にある千円札を取り出そうとするとき
「バッグ$財布$千円札」
と辿るのと同じようなものですね。
パソコン上では扱うものがバーチャルだというだけです。
パスを辿るという行為は構造を頼りに分岐を繰り返して特定の目的物に向かってゆくことです。
言い換えると、パスというのは階層構造を俯瞰的に外から見た場合に辿る順序または分岐を表しています。
構造を全体として見ているのです。
特定のWEBサイトを閲覧するときの行動を考えてみましょう。
まずアドレスバーに見たいサイトのアドレスを入力して目的のサイトのトップページに入ます。
サイト内にはたいていサイトマップが表示されていてそれを見ればそのサイトが持っている構造が分かます。
と言ってもここで分かる構造とは欲しい情報があるかないか、具体的にどのような内容が含まれているかということよりも全体としてどのような階層構造となっているかということです。
それぞれがどのように分岐して整理されているかということだけです。
サイトマップ自体はたいていツリー構造をしています。
けれども実際にはサイトというのはページを重ね合わせたものであり階層構造をしています。
つまり階層構造におけるパスを記録するにはツリー構造が適しているということです。
ただしこれは階層構造とツリー構造が同じものだという意味ではありません。
実際にはそのツリー構造が表しているものは各階層の中身を度外視したパスだけです。
パスを把握することは階層という構造そのものを把握することであって含まれる概念の内容を知ることとは違います。
ところで、実際には必ずしもそうなってはいないけれども仮に一つひとつのサイトまたウェブ全体について理想的な整理がなされているとすれば……その構造は形式として階層的であるだけでなくて、各ページの内容自体が作成者の意図に沿って意味的にも明確に階層的になっているはずです。
つまり初めの階層では上位の、あるいは総論的な問題や概念が提示されていて、より深い階層に侵入すればするほど下位の各論的な問題や概念が語られているべきです。
私たちは別にそれを強く期待しているわけではありませんが、実質的にはあるサイトのトップから入ってパスを辿ってゆくという行為は内容が階層的にまとめられているという前提で行われます。
そして私たちはウェブサイトを見るとき無意識に最初そのつもりで次々にページを辿って行くけれども……たいていある程度のところで必ずしも完全な階層性が整っていないことに気がついて諦めるのです。
リンクは線的である
パスを丹念に辿ってゆくのは……慣れてくるとむしろ非効率に思えてくるでしょう。
今や……だれもサイトを見るときにパスに従ってなんか見ていません。
ただ、それは完全な階層性が整っていないサイトが多いから……という理由ではありません。たぶん。
実は私たちは
「あるサイト全体が何を言っているか」
ということよりも、むしろ自分が知りたい特定の情報だけをさっさと探し当てたいという場合のほうが圧倒的に多いからです。
その場合私たちはたいてい検索のためのキーワードを指定することから始めます。
ここで自分が想定したキーワードというのは特定の情報について主観的に選択した仮の起点です。
このとき私たちはあまり階層構造について意識していません。意識する必要もありません。
検索ボタンを押すとそのキーワードにヒットしたサイトやページが羅列されます。
そこに関連性を臭わせる候補が無数に現れます。
そこでどれかのページをクリックしてサイト内に入ってみます。
それが期待したものに近いとすればそのサイト内のテキストを読んでいくし、期待したものと異なると思えば前の検索結果の画面に戻るでしょう。
実は私たちはそれによってすでにいくつかの階層を通過しているけれども、それを意識することはあまりないのです。
仮に、検索結果の中のあるサイトのどれかのページに入ったとしましょう。
たしかにサイトマップを探したり、いったんトップページに戻ってみたりすることもあるけれども、それよりも私たちがよくやるのは、とりあえずそのページ全体を概観して期待できそうなテキストにざっと目を通すことです。
するとそのテキスト内に埋め込まれた、またはそのテキストの付近に示された「リンク」が目にとまります。
興味があればクリックしてリンク先のページまたはページ内の指定された箇所に飛んでみます。
思ったのと違ったら「戻る」だけです。
私たちは特定のリンクを興味に任せて次々と渡り歩いていきます。
起点となる検索キーワードが想定された時点から場合によっては一貫性もなくいわばランダムにリンクを辿っていきます。
この行動はたぶんに主観的であり同時に「線的」です。
つまり、リンクを辿るという行動は
「線の思考」
に似ています。
リンクというのはWEBやサイトが持つ階層構造の中にありながら、その構造の制約を受けずに線的な関連付けを可能にしているのです。
こう考えると
「よくできてるなあ……」
と今さらながら感心してしまうというね。
思考次元の両立
インターネットというのは、実は人間の思考と非常に近い構造を持っていると言える気がします。
それを構成する一つひとつのページは記述の場としての平面を提供しつつ、階層として整理可能であり、さらに系統だったパスの存在によって構造として俯瞰できるようにもなっています。
それと同時にリンクという機能の存在によって階層構造の制約によらず特定のある点からまったく別の点や領域に線的な関連付けを行うこともできます。
人間が行う思考もこれと非常に似ていると思うのです。
私たちはある時には情報を平面的思考によってかなり厳密に整理することができます。
またそれを階層的に把握することによって構造そのものを見出すことができます。
一方で、自らが想定したその構造を無視して拡散的、あるいは偶発的にでも線の思考を行うこともできます。
私たちは思考が高次化することによってより複雑な関係性についても簡単に正確に把握することができます。
もちろん私たちがもし高次の思考方法をまったく持たず、専ら線の思考に頼るだけであったならば、おそらくきわめて原始的な、そして恣意的な関連付けによる思考しかできないでしょう。
これでは思考の蓋然性が著しく阻害されるだけでなく、他者と論点を共有することも困難だと思います。
ただし高次化が発達しても低次の概念がなくなるわけではありません。
階層的思考にしても全体像を整理した形で捉えることができるという利点は得られるけれども、それは線の思考や平面的思考を排除するものではありません。
次元を駆使する思考
私たちは必ずしも
「点→線→平面→階層」
というように一方向に思考を高次化させていく流れだけではなく、たとえばある階層的体系の全体を
「点」
とみなして、さらに他の概念と結びつけることもできます。
ある思考の構造全体を部分とみなしてさらに思考を拡張するような「入れ子」構造を使うこともできます。
抽象的思考が速やかに拡散できるのはこのような操作が可能だからです。
私たちは思考を高次化することで構造に縛られるものではありません。
むしろそれは私たちの思考をより自由にしているのです。