私は過去ずっと、物事はすべて「善」か「悪」に区別できるというような観念を持っていたと思います。

しかし、今は

「世の中には、善でも悪でもない、なんでもないことが存在する」

と考えることにしています。

いや、もう少しはっきり言えば、むしろ世の中のほとんど大部分の物事や行為は善でも悪でもないので、一つひとつの個別のことに、いちいち善悪の基準を持ち込むこと自体がおかしいと言いたいのです。

一応断っておきますが、物事には一般的な意味で

「こっちのほうが良い」
「それは、あんまり良くない」

というような判断はありますよ?

でもそれは、何が「善」で何が「悪」という場合の「よい、わるい」というのとはぜんぜん意味が違います。

通常用いる「良い、悪い」という言い方は、たとえば「どっちが得か?」とか「どっちが都合がいいか?」とか「どっちがより効率的か?」とか、実はその場面場面でいろいろな含意で使われます。

だから話が混乱しやすいわけですが、今言っているのはそういうものではなくて、絶対的な倫理的な、精神的な観念としての「善」というような意味です。

分かりやすく言えば、

「どっちが神様に認められるか?」

というような意味での「善」のことです。

で、私はいわゆる善悪二元論であれ、もっと複雑な解釈をするのであれ……どんな形にせよ、そもそもすべての物事について、その細かい差異についていちいち

「これは善と言えるか?」
「これは悪ではないのか?」

問うこと自体をやめると言っているんです。

多くの人が、無意識に「善悪」を前提にしている

当たり前ですか?

実は、こう書くと

「そんなこと、初めから当たり前だし」

というような反応をする人もいるかもしれませんね。

しかし、たぶん、中には(過去の私もそうだったのですが……)これをはっきり言われると

「え? 本当? 何で?」

というふうに驚く人も意外に多くいらっしゃるような気がするのです。

だって、私自身が自分で思い付いた時にちょっとびっくりしたんですもん。

つまり、善悪というものを二元論的に、あるいは相対論的にとらえるべきだと前提的に思っている人って実はけっこういるんじゃないかと推測します。

あるいは、いちいち意識しないかもしれないけど、すべての行為や物事は、本当は全部「善か悪」のどちらかに分けられるはずだ……と自然に思い込んでいませんか?

本人は特に意識していないかもしれませんが、ふだん当然にそういうものであるはずだという前提で考えたり話したりしていることありませんか?

たとえば、ふだんはそんなこと気にもしていないけど、他人との利害衝突やトラブルなどがあったときに

「それは人間としてどうなんですか?」

というような言い方をする人がいますね。

この

「人間としてどう」

って、どういう意味ですか?

これは人間として自明の「善悪の観念」や「善悪を判断する義務」みたいなものがあるはずだという前提に立っていなければ言えない言葉ではないでしょうか?

あるいは、時々

「容易に善悪の判断が付かない状況」

って現実にありますよね?

典型的には、最近だと、道徳とか大学の哲学の授業などで取り上げられて話題になったりもしましたよね?

たとえば、100人を助けるためにだれか1人を犠牲にすることは是か非か……みたいな

「究極の選択」

問題とかです。

もちろん人によってさまざまな意見があり得ます。

ただし、そういうのを聞いていると、その中の多くの人が実際に「善悪」という観念を自明の前提として語っているのが見て取れます。

もちろん、そもそも「善悪」という基準など当てはめようとしていない人も存在しますが、たいていは

「どの選択が最も善に近いか?」

または

「どの選択なら最も悪として軽いか?」

……という基準を自然に当てはめて考えているのではないでしょうか?

なかなか面白いなあと思うのと同時に、やはり世の中のかなりの割合の人は、なんだかんだ言っても、自明の理として「善悪」という基準というか構造がもともと存在しているという観念を持っているのだな……と感じます。