貪欲とは、ふつうに言えば

「欲が強いこと」
「度を超えてむさぼろうとすること」

という意味です。

それがたとえば「物欲」とか「金銭欲」など一般に悪い印象を持たれているようなものに関する場合には、当然悪い意味に受け取られます。

ただし、

「貪欲に知識を吸収しようとする」
「彼は成果に貪欲な男だ」

とかいう場合には、実質的には

「探求心」
「向上心」
「使命感」
「責任感」

といった(通常良いものとされる)意味になることもあります。

貪欲を戒める倫理、教義

たとえば仏教において「貪欲」は

「三毒(・瞋・癡)」

の一つに挙げられており人間の根本的な煩悩とされています。

キリスト教でもたとえば聖書には

「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者……はいずれも神の国をつぐことはない」

というような記述が見られます。

これなどを見ると、貪欲というのがたとえば姦淫とか盗み、略奪というような行為と同等のレベルで扱われているように見えて

「貪欲ってそんな悪いことだったのか!」

とあらためて驚いてしまいます。

また、アニメでよく知られるようになった「七つの大罪」にも貪欲、強欲が挙がっていますよね?

あるいは儒教においては「中庸」が理想の徳とされていますが、だとすると貪欲というのは当然にそれに反するものということになるでしょう。

私も若かりし頃(笑)……

「成功したい」
「自己実現したい」

あるいは

「もっと自由に生きたい」

といった自分の中の強い欲求というか衝動というか……そのことと、このような宗教的あるいは倫理的な規定との不一致についてけっこう真面目に悩んでいたものです。

「そもそも欲を持つのはいけないことだ」
「多くを望まず、今あるものに満足するのが善い人間だ」

というような考えのほうが理想なのだろうと何となくイメージしていたのです。

積極的平凡主義

また、前に挙げた

「平凡主義」

も、多くはすでに書いたような経験則でしかないのですが、中にはもっと積極的に、つまり今言っているように、そもそも

「成功とか自己実現とか、そういう価値観に傾くこと自体が倫理的に悪だ」

という思想に基いて確信的に言っている場合もあります。

そのような場合、たとえば

「金は額に汗して稼ぐものだ」
「労働は人間の美徳だ」
「地道に、真面目に生きるのが人間本来のあり方だ」

……というような言い方になると思います。

こう言われると、私などはそれを単なる根拠の希薄な固定観念だと一蹴する勇気が持てなかったりします。

でも、私も少し違う見方ができるようになってきました。

まず、何度も繰り返しますが、成功すること自体は善でも悪でもない、ふつうのことです。

言い方を変えると、自分が望んでいる状態を実現するということや、自分が相応の願望を持って、それに向かって努力したり、工夫したりするということは……貪欲、強欲、ではありません。

貪欲、強欲というのは……欲望をどこまでも無限に膨らませていくことです。そして、その自分の欲望を満たすことを唯一絶対の価値と見做すということなのです。

で、この意味であるとすれば、これは特定の宗教とかに照らすまでもなく、ふつうに考えても悪なのです。

しかし、単なる願望、欲求というのと、貪欲、強欲というのは、実はぜんぜん別のことなんです。私はそれを混同していたと思うんです。

幸いなるかな貧しき者?

「貧しき者は幸いである」

私はずっと、この言葉の意味を

「貧しい暮らしをしている、貧乏な人のほうが、実は幸せなんだよ」

……というような意味だと思っていました。

一方ではたとえば自分が「経済的成功」や「個人としての自己実現」といったものに強い期待や憧れを抱いていながら、同時にどこかで

「このような考えは本当は悪い考えなのだ」

……という罪悪感を持っていたと思うのです。

もちろん、個人的な成功や自己実現を求めると言うことは

「禁欲的である」

とまでは言えません。明らかに禁欲的ではありません。

だから、極端に禁欲的な志向の人や、それこそ信仰を持つ人などから見れば、たしかに貪欲に見えるかもしれないし、悪だ、罪だ、という評価にもなり得るでしょう。

ただ、実はそれは私には関係のないことであって、もし特定の欲求や欲望を完全に消滅しようとしたり排除したりしようとすることを

「禁欲」

と呼ぶのだとすればそれは今の私にとっては明らかに相容れない考えです。

「欲求」「欲望」そのものを否定する必要はない

私の解釈では

「貪欲でない=禁欲的である」

という考え方はおかしいのです。

イメージとしては、貪欲と禁欲とは両極端にあり、私はその真ん中にいるのです。

そして多くの人が私と同じように「真ん中辺」にいます。

……つまり事実はそれだけのことです。

欲求や欲望を持っていること、またその実現を目指したり願ったりすることそれ自体は

「ふつう」

です。

「貧しきことは幸いかな」
「貧しき者は幸いである」

といった言い方は、私も以前はこれを

「貧しいほうが善い」
「貧しいほうが人間的に優れている」

ということだと思っていました。けれども、今考えるとそれは非常に変な議論なのであって、たとえば

「通常に生活を維持すること」
「ふつうに暮らすこと」

をあえて自ら積極的に放棄したり否定したりするのは意味が分かりません。

いや、実はその意味するところは……私も以前はそのような考えに近かったから気持ちは理解はできるのですが、今はそんな考えは明らかにおかしいと思っています。

私もずいぶん後で知ったのですが、聖書の句ではこの言葉は

「幸いなるかな。(心の)貧しい者たち」

という意味で言われているのだそうです。

そもそも別に経済的に困窮している人を指しているわけではないようです。

言われてみれば、たとえば聖書の中でも一方では富や財産を大いに蓄えた人の話も同時に出てきます。それ自体を神様が「悪だ」と指摘しているようなところはありません。

……考えてみれば、そもそも聖書における逸話というのは人間と神様の関係のことをテーマとしているのであって、世俗的に貧乏のほうが良いか、お金持ちのほうが良いか……なんてことを主要なテーマとしているわけではないでしょう。

たぶん私は、他の

「貧乏を美徳とする思想」
「無私無欲、無為自然といった感覚」
「質素倹約を奨励するような表現」

などに触れたときに、それと混同していつの間にか

「欲を持つこと自体が悪だ」

というふうに思いこんでいたのです。

……それに、おそらくそのような思想や教訓的な逸話というのも事実あるのでしょう。

あるいは、童話や小説などの創作の中ではそういう見方がある意味で美しく描かれたりもします。

しかし、今の時点では私自身の解釈は、

「欲望、欲求、願望……それ自体は別に善でも悪でもない

という考えです。

貪欲の定義

おそらく

「貪欲」

というのは、欲望や願望を持つこと自体を指すのではなく、その扱い方を間違っている状態のことです。

扱い方を間違っているということが、まあ悪だと言えば悪です。

そうでない限り、人間が欲望や願望を持ち、それが叶うことを期待したり主体的に実現を目指したりするということ自体は自然な行為だと考えます。

むしろ私の考えでは、貧乏であることや、あるいは貧困に耐えて生きることを

「良いことなのだ」

と感じるような考え方……それを美化するようないわゆる

「禁欲主義的な思想」

も、それは貪欲の場合とは逆方向に欲望や願望の扱い方を間違っている状態に見えます

もし「悪」と呼ぶのであれば、禁欲というのは貪欲であることと同程度に悪に見えます。今の私にとっては。

ですからもし、そのような意味で

「禁欲的であるべき」

と言うなら私は賛同できません。

もちろん、だれかが勝手にそういう考えを持っていてもいいですけど私には関係ないです。

本人がやっている分にはその人の自由であって、その人がそれを「善」と考えていたとしても別に否定する必要もないのですが、ただ私にとってはまったく「善」には見えないということです。

ふつう並みというのも幻想

同時に、それぞれの人にとって

「ふつう並みの生活」

というのが具体的にどのような状態を指すのか、たとえばどんな生活レベルだったらふつうと言えるのか……それも本人がその理性や良心に従って考えればいいことで、共通の枠をはめることはできません。

というか、枠をはめられる筋合いもありません。

だから、

「これくらいの欲なら許されるかな?」
「これ以上欲張ったら貪欲かな?」

……というような、客観的な程度問題とも言えません。

むしろ、そもそも私から見るとそこに

「共通の枠をはめよう」

という感覚こそむしろ「悪」に近い気がします。

あるいは、

「それはもともと決まっている」

とか、

「その条件を私が決めてあげよう」

という考えのほうが間違っているように見えるのです。