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仕事やビジネスの場面で「論理的」であることはなぜ有効か?
もちろん、ビジネスの現場ではたいてい
「論理的に思考すること」
が求められます。
また、企画でも営業でも、社内のプレゼンなどにおいても
「説明や表現が論理的であること」
は前提というか……一種当然の建前ということになっていると思います。
逆に言うと、一見して
「論理的でない」
と思われてしまうと多くの場合その時点で話すらまともに聞いてもらえない状況になりがちです。
あらためて考えると……私たちはどうしていつも、自分に対しても他人に対してもこのように常に
「論理的であること」
を要求したくなるのでしょうか?
厳密な論理性を求めているわけではない
そもそも
「いったい何をもって論理的であると言えるのか?」
……という問いについて考え始めると、意外に答えるのが難しい問題であることに気が付きます。
いろんな側面から言うことができますし、きっと人によって意見も異なるでしょう。
また、実は私たちは仕事の仲間や仕事相手に対して常に厳密に論理的な正確さを求めている……というわけでもないと思います。
むしろあまりに理詰めで来られると
「いやいや、そこまで言わなくても……」
と引きたくなりますよね?
しかし、そうでありながら多くの人が、少なくともビジネスの現場では
「論理的であるほうが良い」
「論理的であるべきだ」
というイメージを持っています。
たとえば、お互いが論理的に話を進めなければ
「話がまとまらない」
「議論しても時間の無駄」
というふうに感じると思います。
あるいは、相手が論理性を欠いた人物だと思えば
「信用ならない」
「言うことがころころ変わる可能性がある」
というふうに感じるのでビジネスの相手としてはできれば避けたいというふうに考えたりもします。
私たちが「論理」をよりどころにしたくなる動機
つまり、ほとんどの場合私たちは厳密に論理的に見て正しいかどうか……というようなことよりも
「ひとまず論理的な枠組みの中で話し合いませんか?」
という気分を持っているだけ、ということではないでしょうか?
要するに、一応の論理性を担保したいというのは、ビジネス上のコミュニケーションや折衝、あるいは社内の指示命令を出す側、それに服する側など、それぞれの利害関係者がお互いに
「目的や前提を共有し」
「客観的な根拠に基づく整合性を持ったルールや枠組みの中で」
「互いがある程度納得した形で」
協力したり利害を調整したりできる、という状態を作りたいという意味だと思います。
実際、お互いが論理性を担保した中でコミュニケーションする限りはたとえば次のようなメリットが得られる気がします。
① 効率的である
論理的に話をするということは、各自の主観とか、その時点での感情とか、あるいは本音で願っている勝手な願望とか目論見とかを直接対峙させることなく、同じ前提と認識を確認した上で話を進めることができるわけですから、余計な時間がかからず効率的に折衝や協議を進めることができるはずです。
生産性が上がります。
また、だれか一部の人の意向とか、強制による判断ではなくて、そもそも論理的に最善の判断と選択をしたということであれば、それに従って動くのがまさに論理的に最善なのだという一種の「保証」に則って行動できるわけですから最も効率の良い結果が得られるはずだという予測が成り立ちます。
② ストレスが軽減される
一応、論理的に妥当だったら個人的にどんな気持ちであるとそれを肯定して受け入れるべきだという暗黙のルールが形成されるため、対人的なストレスが緩和されます。
事業や企画を進める上で、それぞれがいろんな時点で勝手な意向や利己的な主張を差しはさんだりできる余地が少なくなります。
③ ビジョンや課題を共有できる
参加しているそれぞれの人が論理的に協議した結果を踏まえて動くことで、方向性が統一されてそれぞれが
「これが論理的に最善の道である」
という判断を信頼し、疑いなく自分自身のなすべき担当分野に邁進することが可能です。
……このように、一見すると仕事やビジネスにおいて「論理的であること」は非常にメリットが多いように見えます。
もちろん、実際にはこんな理想上のメリットが享受できるような場面は……ほとんどあり得ないわけですけど。
論理的な判断が「机上の論理」になってしまう理由
実際のビジネスの現場で、純粋に
「論理的に最も正しい」
と思われる案が選択されるという場面を見ることは……むしろほとんどありません。
というか……事実として論理的に正しいとはっきり証明できるかどうかという点がそもそも難しいわけですが、しかし少なくとも多くのビジネスパーソンが体感的にそう思っているのではないでしょうか?
「なんでこの企画が通らないんだ」
「わが社はどうしてこんな案を採用したんだ」
「どうしてこんな制度が始まったんだ」
……と私たちはむしろ常に不可解な選択に悩まされているのではないでしょうか?
そうなってしまう理由は主に3つあります。
① そもそも人によって「正解」が違う
いくら論理的に考えた結果だと言っても……仕事上発生する課題や問題の多くは、そもそも学校のテストや数学の問題のように
「これが唯一絶対の正解!」
と明確に言い切れるようなものがほとんどありません。
十分な協議なり調査なりをした結果であってさえ
「まあまあ、こんなところがだいたい妥当だろう」
という程度に結論付けるしかないわけです。
もちろん、各個人に聞けばほかにもっといろいろな考え方や答えが返ってくるはずですが、そんなものを突き詰めている時間はありません。
もちろん、一人一人の個人レベルで考えても、ひとつの問題に対して完全に正解だと確信できるまで調べ尽くして考え尽くして
「絶対な違いない!」
と言い切れる確実な正解を……求めているヒマなんかありませんから。
(むしろ、いくらヒマがあっても完全確実な正解なんて……存在しないでしょう)
② 権力や決裁権者の独断が優先する
実際のビジネス上の判断や選択というのは、純粋に理屈で考えた結果などより先に
「権限を持っている人たちの意向」
によって先に結論が決定していることのほうが圧倒的に多いです。
いくら精緻な理論も、その力に比べればまったく「か弱い」ものです。
③ 個々の「エゴ」や「感情」が常に働く
そもそも仕事だビジネスだと言っても、それは人間が行う活動ですから必ず先に各個人が抱いている意図や感情が反映されます。
その意味では、そもそも純粋に論理的に思考するということそのものがひとつの幻想であり、理想論に過ぎないのだと言うことすらできます。
では「論理的に考えること」は無駄なのか?
このような見方をすると、論理的に考えるなんていうのはあくまで机上の論理か方便や建前論にすぎないのではないか……と結論付けたくなってしまうかもしれません。
しかし、それでは何の進歩もありません。
そこでもう一度最初に書いたことに戻りたいのですが、そもそも
「ひとまず論理的な枠組みの中で話し合いませんか?」
という認識の意味なんですけれども。
これを単に感情や私情を完全に排除して
「純粋に理詰めで考えようとすること」
だと考えてしまうと、述べてきたような行き止まりの話になってしまいます。
そういうのが論理的思考だと思っているのとすぐに限界が来てしまうわけです。
そうじゃなくて、多くの人が仕事やビジネスにおいて想定している
「論理的な思考」
というのは、実は
「必要十分な根拠や条件を挙げ」
↓
「それらを積み上げ俯瞰した上で」
↓
「導かれる妥当な推論や思考によって」
↓
「一定の結論や選択を決定して」
そして
「その全体像を全員が共有できるように可視化する」
という思考のプロセスのことを言っているのです。
ここで重要だと思う点は、上記の赤線部分
「根拠や条件」
というのが、この場合にはふつう私たちがイメージするような
「客観的なデータ」
には限られない、という点です。
もちろん、ふつう私たちが会社内のコンペやプレゼンで挙げる場合の「根拠」と言えば、たとえば
「市場分析」
であったり
「顧客へのアンケート結果やサンプリング」
であったり……つまり自分の体感とか少数の人の意見とかではない
「なるべく客観性のある根拠」
を持ってくるのが常識的ですよね?
そうでなければ説得力に欠けるし、それこそ
「論理的でない」
と批判されることにもなるわけですから。
しかし……それは今その範囲で考えているからそうなのであって、たとえばですが、仮にそのプレゼンが正式に企画として通ったとしたら、実際に今度それを実行する段階では当たり前のように
「決裁権者の意向」
とか
「取引先との調整」
とか
「各関係者の都合とか感情への配慮」
とか……もろもろのものが入り込んでくるわけです。
それらは、あなたがそのプレゼンを社内で通すときには「あえて触れなかった」ところですが、実際に物事を段取りして実行していく過程ではもはや
「客観的なデータ」
などより、よほど強い与件、条件として考慮せざるを得ないものであるのは自明です。
つまり、その時点ではそれらのほうがむしろ決定的な
「根拠や条件」
になっているということです。
この意味で言えば、単に
「感情や私情を完全に排除して純粋に理詰めで考えようとすること」
のほうが、思考のあり方として不完全で片手落ちだというふうに見えないでしょうか?
むしろ、他人の感情や意向、それに本来は自分自身の持つ意図や感覚、感情といったものまで踏み込んで分析し、その中で根拠や条件と言えるもの、言えないものを冷静に選りすぐり、それらをも
「明確に必要十分含めた思考を積み上げる」
こと。
そのことのほうが仕事やビジネスに求められるべき論理性に近いのではないでしょうか?
感情を排除するべきだろうか?
ある意味で、私が思うには主観や感情などを排除するように、あくまで論理的に思考しようとするというのは
「原始的な意味では正しい」
と表現できるような気がします。
言い換えれば、それはひとつの思考の方法論としてはあり得る、ということになります。
ただそれはあえて名付けるなら
「原始的論理的思考」
とでも言うようなもので、現実の諸問題に対応するという意味ではかなり限定的な方法です。
現実的にはむしろ、論理と感情とは互いを補完するために必要なものだと思います。
あるいは、真に「論理的」と呼べるような実践的思考というのは、イメージとしては以下のように同心円状に広がりながら互いを俯瞰するような多重構造を持つということもできます。

すなわち、自分(または対象となっている他者)が内面で思い描いている
「論理の全体像」
が把握できたとして、その後には必ずそれに付随する感情という面をも含めて俯瞰する必要が出てきます。
そしてその感情をも含んだ「思考の全体」をさらに論理的な枠組みを用いて俯瞰する。
逆に言うならば、単に主観や感情を排除しようとするだけなら「論理的思考」は不完全な一部分に執着するのと同じ結果になってしまうように感じます。
もちろん、論理性を度外視した主観や感情のみを優先する態度も不完全です。
むしろそれらの両方を妥当に正しく把握して見せるところに、論理的思考と言えるもののより実際的な意味が出てくるように私は感じるのです。