無意味なことの比喩として、
「賽の河原」
「賽の河原の石積みのようだ」
と言います。
しかし、もし本当に無意味ならば、なぜ地獄の閻魔様はそのような苦役を設けたのでしょうか?
賽の河原で石積みをすることは、本当に「無意味」なのでしょうか?
そして、この話の「無意味さ」にはどんな意味が隠れているのでしょうか?
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賽の河原とは?
一般に、人は亡くなると現生(この世)と冥途(あの世)をつなぐ境目である「三途の川」を渡って行かなければならないことになっています。
平安時代末期には、三途川を渡るには渡り舟を使うという信仰が定着し、舟に乗るにはお金(六文)が必要で、今でも仏教式の葬儀の際には棺桶に冥銭(紙に印刷した六文銭)を入れる風習があります。
賽の河原とは、その三途の川の川岸、河原のことです。
実は日本の各地にはそれにちなんで「三途川」あるいは「賽の河原」と呼ばれる場所が複数実在します。
もちろんこれらは信仰上のものですが、 見てみるとたしかに独特の異様さというか怖さを感じますよね?
とりあえず、あの世的な雰囲気を味わうには十分です……。
賽の河原の石積みとは
それで、
「賽の河原の石積み」
というのは、私自身は小学校の低学年くらいの時に父親が話してくれたのを覚えています。
ただし、今あらためて調べてみたところでは、最も一般的な賽の河原の石積みの話というのは私が記憶しているのとは若干違ってるみたいでした。
父親が間違って話したのか、あるいは私の記憶違いなのか……もはや定かではありません。
民間信仰なのでもともと諸説あるのかもしれません。

仏教的な伝承で、人間は死んだら三途の川を渡るとされています。
地獄に着くか、極楽に至るか……それはとにかく三途の川を渡ってみなければ分かりません。
その三途の川の岸辺を賽の河原と言います。
そこでは親より先に亡くなった子供たちが親不孝の罪のため苦を受けます。
地獄に行く前にすでに苦役を受けるわけです。
賽の河原で子供たちは父母の供養のために河原の石を高く積み上げなければならないのですが、やっと高く積み上がってきた頃に鬼たちがやってきてそれを崩してしまいます。
崩されたらまた最初から石を積み直し、やっと積み上がるとまた崩され……これを延々と繰り返すのです。
これが賽の河原の石積みです。
……と、だいたいこんな感じの話です。
ここから転じて
「賽の河原」
「賽の河原の石積みのようだ」
というと、無意味な努力、意味のない苦労を意味する比喩になります。
「賽」という字の意味
「賽」という字を見て私はサイコロしか思い付かなかったのでピンとこなかったのですが、サイコロというのはもともとは宗教的な儀式や祭事、占いなどに用いるものだったそうです。
賽という字そのものには
「神から受けた福に感謝して参る」
という意味があるそうです。
そう言えば「お賽銭」というのも賽の字が使われてましたね。
石積みの意味について
さて、父親からこの「賽の河原」の話を聞いた当時、私はこう思いました。
「まあ、針の山だの血の池だの、地獄のそんな苦しい罰は、小さな子供が受けるにはあまりにも過酷で、かわいそう過ぎるからなあ……」
と。つまり私は、これは子供用の比較的軽い目の苦役だと思ったわけです。
本当の地獄と言えば、
「針の山」
「血の池地獄」
……というような、いわば本格的な?
想像するだけでも耐えがたいような苦役の数々が用意されているわけですが……いきなりそのような大人と同じような苦役を子供に与えるのは無理だから、手加減する意味で石を積むだけの苦になってるんだなと感じたわけです。
でも、自分が大人になってからあらためて想像するとですね……この罰ってむしろ大人の実感として相当恐ろしいですよね。精神的に。
すると、私は今度はこう思いました。
「そうか……これは、親より先に亡くなってしまった子供というのは、もし生きて大人になっていれば当然味わうことになる人の世の無常さや理不尽さを現世で味わうことがなかったから、賽の河原でそれを延々と体験させられるということで、それが罰なんだな」
と、そういう意味で妙に納得したのでした。
無意味なことをさせられる苦痛……これはだれでも非常に嫌なものですよね?
しかもそれがいつ終わるとも分からないで延々と繰り返されるという状況は、よく考えると非常に苦しい罰だなと。
賽の河原の石積みには目的がある
しかし、私も誤解してたんですけど……。
この石積みという苦役はですね。
よく考えると本当は、石を積むこと自体に意味がないというわけじゃないですよね?
だって、石を積んで塔のように高くするのは
「父母への供養という目的」
があるのですから。
石積みをすること自体は、本当は無意味ではない。
そして、もし仮に子供たちが一生懸命に石を積んで、もしそれが壊れることなく高くなって、
「よし、できあがり!」
ってなれば苦役ですらない。
ちなみに、別に賽の河原ってわけじゃないですが、でも河原とか砂浜に行くと、よく子供たちって石を積んだり、砂で山を作ったりして遊んでますよね?
子供たちはなぜか黙々と集中してやりますよね?
だれかがふざけて崩しちゃったりすると想像以上に怒ったりして……子供にとって単に「石積み」をすること自体は、むしろ楽しいことです。それ自体は無意味でもないし苦役でもない。
しかし、そこに鬼が来て壊されちゃうから悪いんですよね?
もっと言えば、「積んでもどうせ崩される」という顛末があらかじめ確定しているから意味がないって言ってるんですよね?
積んだところで必ず壊されるということが確定している、そのことが「無意味さ」の原因です。
つまり、これは自分がやっていることの目的が達せられないという意味で「無意味」ということです。
すなわちここで言っている無意味とは「徒労」という意味であり、手段、方法論として意味がないということです。石を積むという行為の目的自体が存在しないのとは違う。
立場が変われば「無意味さ」の意味も変わります
ところで、ではこの「賽の河原」の話の意味とはなんですか?
このお話を私たちがこうして代々語り継いでいる、その意味です。
と考えると……私は、子供のころから今の今までずっと、この話は
「親不孝してはいけない」
という意味だと考えていました。要するに、これは子供にとって意味がある話だと。
でも、自分が大人になってから考えると、それは違うんじゃないかと気が付いたんです。
つまり、この話って、実は親にとって意味があるのではないかと。
いったい何が無意味だと言っているのでしょうか?
もし三途の川で我が子が延々と不毛な石積みを繰り返しているとしたら……それを思う親の気持ちはどんなでしょう。
私ならきっと、こう考えるようになると思います。
「もういいよ。もう許してあげてください。一刻も早くその苦役から解放して、なにとぞ成仏させてください」
って。
最初は子をなくしたことを悔やみ、その子の短い人生を想って涙に暮れていたとしても……あるいは、我が子が自分より先に生命を奪われたという現実の理不尽さを恨んだり呪ったりしていたとしてもです。
その子はなぜ石を積まなければならないのか……と考えたときにですよ?
その石積みは、残してきた親のために積んでるんですよ? 父母への供養なんですから。
そして、その子はいったい何を供養したいのかと察すれば……それは、親の側がいつまでも執着しているからじゃないですか。
「その執着こそが、無意味なんだ!」
残された親御さんが執着し続けている限り、その子の石積みは終わらない。
こちらが執着している限り、おそらく我が子はずっと成仏できないまま……それが更に我が子を苦しめることになってるのではないかと。
この話はむしろ、子を亡くした親、あるいは身近な大切な人を失った、その人にとって意味があるということになるわけです。
これはもちろんひとつの解釈であって、あくまで民間信仰ですし真意はいろいろに考えられます。
ただ、いずれにしろ言えることは、そもそも仏典や伝承というのは、死後のことを語っているとしても、死者が聞くわけではないということです。
それはもちろん今生きている人たちに向けて語られているのです。死後の世界について、死んでから聞いたって意味ないですよね?
いずれにしろ、三途の川の賽の河原で石積みの苦役を続けている子供たちは、最終的には地蔵菩薩様に救済されて成仏するとのことです。少しホッとしました……。



意味を問うという行為は自己啓発である
物事の意味を別の角度からとらえ直すと、そもそもの目的とはまったく別の目的を発見できたりします。
つまり視点が変わります。
大げさに言えば、自分の枠を飛び越え、視野が広がるというか。あるいは、さらに新たに意味を作るというか……そういう行為なのです。
つまり、私の解釈によるところでは、それがまさに
「自己啓発」
なのです。