「自分に才能があるかどうか、どうしたら分かるか?」
「そもそも、才能とはなんなんだろう?」
このように問う人が直接に聞きたいことは、もちろん「才能というもの」そのものについてですよね?
しかし、当たっているかどうかは別として……この質問に直接答えてくれる人というのは、実はなかなかいません。
たいていの場合、周囲の他人にそれを尋ねようとすればすぐさま
「才能より努力のほうが大事だ」
「才能なんて長い目で見れば関係ない」
という意味のことを言い出すからです。
いや、私は今、才能そのものについて聞いてるんですけど……。
って言いたい気持ちをぐっと飲みこんでしまうあなたに、不肖ながら私が、私なりの
「自分に才能があるか、ないかの自己判断のしかた」
について、勝手にご紹介したいと思います。
才能とは何か
辞書的な意味としては、
「物事を巧みになしうる生まれつきの能力」【Goo辞書】 と書いてあります。
一般的にも、才能という言葉は「努力」と対比して使われますよね?
だから、ふつうに言えば、
「何かを成し遂げるために必要な能力のうち努力ではない要素のこと」
と表現しても良いかもしれません。
……って言うとすぐまた
「だから、努力できるということ自体が才能なんですよ!」
とか言う人がいるけどそれじゃ答えになってないでしょ。ちょっと待ってくださいね。
もちろん、人によって資質や才能を重視するか、それとも努力のほうを重視するか、そのバランスはそれぞれだと思いますが、いずれにしろ
「成果=才能+努力」
という公式はだれにとっても受け入れやすいでしょう。
(運とか偶然とか……今は省きます)
「天才とは1%のひらめきと、99%の努力」
というエジソンの名言はあまりにも有名。ただしこの名言も、これは
- 努力することの必要性を説いているのか?
- それとも才能が絶対必要であるということを強調しているのか?
……実は議論の分かれるところなのです。
しばしば
「才能とは、努力を継続する力のこと」
「才能とは情熱を持続する力」
「才能とは、自分自身を信じること」
というような言葉を聞くことがありますよね?
もちろん、それぞれに含蓄のある言葉であり、ある面で真実を突いています。
しかし、考えてみるとこのような表現というのは、もともとの意味からすれば
「逆説的な表現」
ですよね?
意図としては、実はこのような言い方は、才能や資質だけに注目するのではなく、むしろ努力や継続の力で物事は成し遂げられるのだという励ましの言葉です。
あるいは、努力や継続がなければ資質や能力は発揮できないという戒めの言葉として受け入れるべきものです。
つまり、このような表現は、才能を開花するためには努力も伴う必要があるという意味のことを強調しているだけで、実は「才能」というもの自体をはっきり定義していないのです。
ところが、才能について多くの人が聞きたいことは、そういう意味のことじゃなくて、むしろ
「字義通りの才能ってつまり何なんだ?」
ということではないのでしょうか?
「成功のために前提的に備えているべき条件」
「物事を成し遂げるために必要な、努力では如何ともしがたい要素」
それを教えてくれ、って言いたいんですよね?
才能そのものの意味
今、この意味で「才能」という言葉を使うとすれば、それは次のような特徴を持つ、ある特別な「能力」のこと、といったん定義します。
それは人間が持つ能力の中で、
- 特定の分野に特化して発揮される
- 本人の自覚的な努力や学習によるものでない
- 平均値より著しく高い
- 大きな成果や偉業に結実する
ような能力のこと、と言えます。
才能がある、の私の定義
一般的な定義としては上記のようなことになります。
ただ、これだけではおそらく
「じゃあ、自分に才能があるかどうか……どうやったら分かる?」
という問いにはうまく答えられません。
そこで、私が考える、ごく分かりやすい才能の自己判断基準をお伝えしようと思います。
周囲に相談できる人もいないし、かといって自分ではどう考えていいのか見当もつかないなあ……という場合に、一つの参考になれば嬉しく思います。
その前に……。
もう一回言いますけど、努力とか、諦めずに続けることとか、情熱をもって真摯に取り組むこととかは……必要です。
必要に決まってます。
少なくとも、
「成果=才能×努力」
これは、正しい認識です。まあこれを否定する人はあんまりいないでしょうけど。
その上で、ですよ……。
自分の才能の判断基準
と言っても、具体的な特定の分野に関する才能について、ここで述べることはできません。
具体的な分野別の「才能」を知りたければ、その道のプロに聞いたほうがいい……って、大体の人はそう言いますよね?
しかし、それは必ずしも的を射ていません。
なんでかと言うと、その道のプロの人は、みな人一倍「努力の重要性」を知っているからです。
だから最初の話に戻ってしまうのですが、彼らは「才能そのもの」に関して端的に教えてくれる可能性が、意外に少ないです。
さて。
たとえば芸術や創作といった分野にしろ、商売やビジネスにしろ、あるいは学問や研究にしろ、私の思っている才能の定義は共通しています。
それは、
「才能=発想」
だということです。
つまり、私の定義では、才能とは、その特定の分野、自分がやろうとしている事柄について自分が持っている、というより、自分の頭から、心から湧き起こってくる発想や思考の「量」のことです。
自己判断する際の考え方としては、まず
① 初期の発想があること
まず最初に、そのことについてあふれるほどの発想や思考が浮かんでいることです。
ただそのことが大好きだったり、たとえば特定の人のファンだったりする、というだけでは、まだ才能は自覚できません。
たとえば、自分の好きなものを見たり聞いたりしている時にですね、
「ああ、私だったらこうするなあ」
「もっと、こうすれば良いのに」
「なぜ、こういうやり方するんだろう?」
「私のほうが上手くできるかも」
とか思うことがありますよね?
こういうのがいわゆる「発想」です。ただしこれは初期の発想です。
② 自分の発想に絶望すること
次に、自分が最初抱いていた発想や思考が、実はまったく取るに足らない素人考え、いわば「ゴミ」のような、お話にもならない「カス」みたいな発想だったと悟ることが必要です。
だから、はっきり言いますと、まだ何もしていない段階では、本当に才能があるのかないのかはぜんぜん分かりません。
これはどうしようもないです。
少なくともその道の先人たちの成し遂げた功績とか、現在世の中で評価されているものとか、そういうものに触れてみる必要があります。
そして、少なくとも実際にそれをある程度は経験することも必要です。いわゆる基礎、基本と呼ばれるようなことを知り、学んだり、一定の型に従ってやってみる必要はあります。
すると、おそらくどんな分野でも、あなたが最初に持っていた発想や思考や想像、また、ある場合には最初に持っていた根拠のない自信も含めて、いったんすべて地面に叩きつけられるかのように完全に否定せざるを得なくなります。
つまり絶望します。
言っておきますが、むしろここではいったん絶望したほうが良いのです。
自分が当初思っていたアイディアや発想なんて、
「経験者ならだれでも知っている、ごく初歩的なことだった」
「すでに先人たちによって言い尽くされている当たり前のことだった」
「昔から使い古された陳腐な手法の一つでしかなかった」
と気付くことはむしろ必須の過程とさえ言えます。
そして、
③ それでもなお、新たな発想や思考が出てくること
さて、ここが一番の問題だと私は思います。
もし、この時点で、もうそれ以上自分の中に何の考えも発想も出てこないとなると、おそらくあなたはその世界について才能がありません。
もし、それでもなお、次にまた何かしらの発想や思考が湧き起こってくるとき、あなたはそのことに才能があると信じても良いでしょう。
他人と比べる必要は(最初は)ない
必ずしも、そこで新たに湧き起こってくる発想や思考がすごいもの、ハイレベルなものである必要はありません。どんなものでもいいから、その時点でもまだ発想が出てくるという事実そのものが大事なのであって、それが、あなたの才能を証明しているのです。
確かに、その時点では、すでにその世界で活躍している人たちはとんでもなく先に進んでいるように見えます。とても手の届かない雲の上の存在に見え始めます。
しかし、それは別に良いのです。
自分は、ぜんぜん下にいる、いや、むしろ底辺にいる……と感じるとしても、それでも構いません。
それでも何かが自分の内から湧き起こってくるとき、あなたはそのことに才能があるのです。
逆に、何でもいいからここでさらに何らか自分なりの発想が出てこなかったら、それが才能がないということなのだと思います。
つまり、才能がないというのは
「それについて湧き起こる発想がそれ以上ない」
という状態のことなのです。
これが私の考える才能の定義です。