一般的なイメージでは、経済的なことであれ何であれ、成功者というのはたいてい努力家で、常に自分を律し、理性的で、最善を尽くしてきたから成功したのだろう、というように想像されることが多いでしょう。
しかし、私が思うにこれはまったく見当はずれとまでは言えないまでも、かなり大ざっぱな認識と言えます。
「最善を尽くす」の意味
一般的に、何事にも最善を尽くすという心構えは、結果がどうあろうとそれ自体が美徳とされる風潮があります。いや風潮というか、私もそれ自体は美徳だと感じます。ある意味理想です。
また、自己啓発系の話を聞いたりしていると、しばしばこういう表現が出てくることがあります。
① 目標を明確に定め
② それに集中して全力で行動し続け
③ 達成するまでやめないこと
……という感じの「いわゆる成功法則」です。
こういった話を聞くと、それは当然に理屈としては正しいようなイメージを持ちます。
それに、特定の環境や条件が揃っている場合には、そうすれば実際に目標を達成できることもあります。
逆に言って、目標を掲げながらそれを実現できない場合というのは、この理屈に沿って考えれば、
① 目標が明確でなかったか
② 集中して全力で行動しなかったか
③ 達成する前にやめてしまった
のどれかに当てはまることになります。
……これは理屈としては事実に合致しているように思えますし、成功例にしろ失敗例にしろ、この論を証明しているような感じがします。
でも、現実にはこれはよく言えば「理想論」であり、悪く言えば「言葉のトリック」みたいなものに過ぎません。
「達成感」や「充実感」を得たいのなら
あるいは、仮に、あなたが実際の結果ではなくて、ただ自分なりに
「ここまでやった!」
という充実感を得ることを目的としている場合ならば、
「最善を尽くす」
というのは手段としてまったく正しいことになります。
なぜならそれは自分の主観だから。
もちろん、それ自体が悪いと言っているわけではありません。それはそれで有意義なことだし、別の面で価値があります。
「人事を尽くして天命を待つ」
という言葉があるように、自分ができ得る精いっぱいの努力をして、後は結果がどうあろうと、人事は尽くしたのだからそれで良しとする……という考え方もあります。
規範的には、また教育的には、このような考え方のほうが主流と言えるかもしれませんね。
この場合には、そもそも最初に立てた「目標」というのがいわば形式的なものであって、本人にとっての実質的な目標は主観的な「充実感」なのですから、その意味では本来の目標のほうは事実上達成されることになります。
だから、それで良いのだと言えばそれで良いことになります。
あるいは、それによって最初に立てた「目標」が実際に結果として達成された場合でも同じです。この場合には「充実感」とともに「達成感」も得ることができます。
でも、そこで本人が本当に得たかったのはその「充実感」や「達成感」のほうであることに変わりはありません。
「お金持ち」は最善を尽くすことに執着していない
とにかく、良い悪いは別としても、多くの人は「最善を尽くす」という観念についてこのようなイメージを持っています。
ところが、こと「お金」のことを扱う場合には、実はこのようなイメージはほとんど当てはまらないのです。
なぜかというと、まずお金って、結局は単なる「数字」だからです。「金額」が唯一の基準であり、量だけが問題だからです。
要するに、お金を目標と考えている場合には、そこに何か別の価値……たとえば、そのお金の品質だとか、意義だとか、趣味趣向とか、そういったものを含意として整合させること自体が非常に困難だからです。
お金の価値って、そもそも金額であり、数字の大小であり、それ以外にはあまりありません。
次に、お金に関する目標を前提にすると、そもそも結果が出なければ
「自分が最善を尽くしたかどうか」
という主観的な基準を見い出すこと自体が難しくなります。
「自分としてはやるだけのことはやった……しかし、結果まったくお金は増えなかった。むしろ減った。あるいは、無為に時間とコストだけが費やされた」
……って感じてしまいやすいから。あるいは、その為の努力をしている過程では
「最善を尽くしている」
と思っていたとしても、お金のことというのは、
「後から考えると、他にいくらでも可能性や異なる判断もあり得た」
というふうに感じるのです。
むしろ、たいてい結果を知ってから感じることは
「ああ、どうして自分はあそこであんな判断をしてしまったんだ!」
とか、そういう点でしょう。
確かに、言い方としては
「しかし、あの時点では最善の判断だったはずだ。結果的に大損したけど……自分はやるだけのことをやった」
と言って自分を慰めたり元気付けたりすることはできるかもしれません。
でも、実際のところそれをもって
「最善を尽くした」
と言い切れるでしょうか?
そもそも、お金に関して「最善を尽くした」というのは、どういう状態のことを言っているのでしょうか?
そして、今度こそ、もっと「最善を尽くせば」きっと結果が出るに違いない……と本当に信じ続けることができるでしょうか?
「最善を尽くす」ことと「最善を取る」ことの違い
こと「お金」のことに限って言えば、おそらく「お金持ちになる人」はそもそも、
「常に最善を尽くす」
ということ自体を理想とは考えていないし美徳だとも思っていないように見えます。
そもそもお金というのはそういう性質のものではないのです。
そうじゃなくて、お金持ちの人は常に
「結果的に選択し得る最善の結果を取る」
ことを強く意識しているように見えます。
もしかすると、一見何が違うのか分かりにくいかもしれませんが、よく考えると「最善を尽くす」ことと、結果として「最善を取る」こととは、ぜんぜん違います。
もちろん、お金持ちの人が、いつも手抜きを考えたり、力を出し惜しみしたりするとか言っているわけではありません。
常にそれなりの努力や、ここ一番というときには集中して、自分が為し得る最善の努力をするでしょう。
むしろ、経済的に成功する人は当然人一倍努力も行動もしている場合のほうが多いでしょう。決して、努力しないと言ってるわけではありません。
「最善を取る」とは?
私が言いたいのは、こと「お金」に関してだけは、まず
① 最善を尽くしたかどうか、というような観念を持ち込まないほうがいい
ということです。また、それに付随して、
② 充実感とか達成感とかを目的化しない
ことです。
またこれに関連して、よく陥りがちな思考パターンなのですが、主観的な充実感といったものを意識していると、結果を
「ゼロか100か」
で見てしまいやすいです。
お金について考える時に、オールオアナッシング的な思考は非常に危険というか、長期的に見て非常に損な思考になります。
お金持ちになる人は
③ 結果を「ゼロか100か」では見ない
でしょう。
たとえば自分がした判断や努力が、最善だったか80%くらいだったか、50%か30%か……ということよりも、むしろそれとは無関係に自分がした行為に伴って
「選びうる中で最善と思われる結果を選択し、その結果を確定させる」
ことに意識が向いています。
ちなみに、典型的な投資や株式の話題ではよく「損切り」とか「埋没原価」といった用語を聞きます。結果にこだわると言っても、
「自分が当初目指した特定の結果が達成されるまで、諦めないで頑張り続ける……そうすれば、いつか実現する日が来る」
……というような発想を、お金持ちの人はそもそもしていません。
あるいは、仮に失敗したという状況であっても、
「ああ、これはまったく何の効果も結果も出なかった……まったく無価値だった。無意味だった」
とか言ってすべてをご破算にしてしまうような思考もしません。
当初考えていた結果とは違った場合にでも、可能な範囲で選択し得る最善の結果を、結果として取ることを考えるでしょう。
もちろん、これはお金持ちの人が「お金」以外の何物にも関心がないという意味ではありません。
当然だれだって、自分の努力や、戦略や、あるいは都度の結果についてそれを反省材料としたり、経験則として蓄積したりするはずです。そういったことを無視して良いと言いたいわけではありません。
ただし、お金持ちは、そういうこととは別に、その都度取り得る「最善の結果」をきっちり確定させて、それを積み重ねるのです。